二月十四日。

 何故か日本では女性が意中の男……とその他数名にチョコレートを贈る日になっている。チョコレート会社の陰謀と言う話もあるが。
「まあ、んなもんだろうなあ」
「何が?」
「ん、何でもねーよ、あかり」
 俺達は今、町をぶらついている。
 風は冷たいが、日差しはぽかぽかと暖かいため、寒いような暖かいような少し不思議な気分だ。
 そのためか、周りを歩いている人々も、服装が厚着だったり、少し薄着だったり、と中途半端だ。
 俺はクリーム色のベストに膝くらいまである紺のロングコート、おまけにあかりお手製の赤いマフラーまで編んで完全装備をしている。
 あかりの方は、水色のフリースに赤いチェックのスカートと俺から見ると少し寒そうだ。
「あかり、寒くないのか?」
「え?別にそんな事無いよ。……それより浩之ちゃん、どんな物にする?」
「お前が作れば何でも旨いからなー」
 あかりの料理の腕はさらに上がり、大学の友人からはレストランも経営できる、とまで言われている。
 チョコレートケーキだろうが、シンプルにチョコレートの塊を作るだけだろうが、何でも旨いんだろう、どうせ。
 あかりは少し不満そうな目で俺を見た。
「作りがいが無いよ、浩之ちゃん」
「なら……そーだな、ケーキとかどうだ? ホワイトチョコレートかなんか使って」
「うん、分かった」
 あかりは微笑むと、雲がまばらに見える空を見ながら口の中でぶつぶつと呟きだした。
「砂糖は……」とか呟いているのを見ると、今から買う物でも考えているんだろうな。
 俺はあかりの考え事を邪魔しないように少しゆっくりと歩くペースを落とす。
 商店街はずいぶんと人が多かった。
 昔はもう少しゆったりとしていたが、最近、どんどん住宅街が出来て、それと比例するように、店も増えていく。
 こじんまりとした店は潰れて行き、新しく有名なチェーン店が入る。
 ずいぶんとこの町も変わった。
「浩之」
「ん?」
 後ろから名前を呼ばれて俺は振り返った。
 俺の視界にうつったのは、宙を舞っている小さな箱。
 振り向いた俺の手元に狙いすましたかのように落ちてきた。
 俺はその小箱に一瞬見とれていた。
 どこかで見たことのあるような小箱である。
 角の辺りが少しつぶれていたり、小さな傷が見え隠れするが、なんて事は無い少し硬めのただの箱なのだが……どこかで見た事があるような気がするな。
 これを投げたのは一体誰だろう?
 俺は小箱から目を離し、辺りをきょろきょろと捜す。
 だが、人が邪魔でそれらしい人物を見つける事は出来ない。
「浩之」
 またさっきと同じ声がする。
 そっちを見ると、人波に紛れて俺の方を見ている一人の女がいた。
 俺が昔見たときよりも少し伸びた黒髪、少し大人びた印象になっているが間違いない、あれは……。
「綾香?」
 綾香は下ろしていた手をあげようとして……それっきり人波に隠れてしまった。
「綾香!」
 俺は人波をかき分けて、綾香がいた方に行こうとする。
 だが、行っても行っても、綾香は見つからない。
「ひ、浩之ちゃん、待ってよ」
 俺が綾香を追いかけるのを諦めて立ち尽くしていると、後ろからあかりが慌てた表情で追ってきた。
 俺は軽く手をあげる。
「どうしたの?」
「綾香がいた……と思う」
「綾香さん? 帰ってきたの?」
「そう言う話はきかねーけどな」
 俺はふと思い出して、手の中にある小箱を顔の辺りまで上げた。
 あかりはしげしげとそれを眺めて、俺の方を見る。
「たぶん、あいつが俺に投げたんだと思うけどな……」
 俺はそれをじっと見て、不意に思い出した。


 そうだ、これは……。

 

別れの箱

written by なげ

 



 ぴんぽーん。
「はーい、ちょっとおまちくださーい」
 俺は観ていたボクシングの試合を一時停止して、玄関に向かった。
 やっと、うざったい学校も終わり、昨日は志保たちと一緒に恒例のゲーセンバトルをしてきた所だ。
 今日は貯めに貯めたビデオを消化しよう、と思って朝からテレビの前に詰めっぱなしだったりする。
 俺はノブについている鍵を開けて、ドアを開いた。
 開けると、ドアの前に立っていた女はにやりと悪戯っぽく微笑んだ。
「ハロー、浩之っ」
 肩よりも少し髪を伸ばして、サングラスをつけた女。
 例えサングラスをつけていても、声と言動で分るな。
「……珍しいな、綾香」
 こいつが家に来るのは二度目だ。
「そう?」
「二度目だろ?」
「あら。来ちゃいけない?」
「んな事はねーよ。入って良いぜ」
 俺はちょいちょいと綾香を手招きした。
 綾香は軽く頭を下げて、家の中に入ってきた。
「おじゃましまーす」
「どーぞ」
 俺は一時停止状態にしてあったビデオを止めた。
「浩之ビデオ見てたんだ。何のビデオ?」
「ボクシング。この前あったライト級の奴だな」
「ああ、五ラウンドでノックアウトされちゃった奴ね」
 ……言うなよ。
 結構楽しみにしてたのに。
 俺はとりあえず、コップを一つ持ってきて、カフェオレを注いだ。
 なにやら荷物を床の上においている綾香に手渡す。
「ほれ」
「あら、どうも。浩之とは思えない気遣いね」
「このくらいは俺でもするぜ?」
「それが当然よ」
 綾香は一口でカフェオレを全部飲み干した。
 ふう、と息をつく。
「美味しいわねー」
「まあ、喉かわいてたんだろ。外暑かったからな」
 さっき、ドアを開けたときに、熱気が入ってくるのを感じたくらいだからな。
 綾香はこくんと肯いた。
 そうすると、なまじ顔が似ているから先輩のように見える。
 まあ、先輩はこんなふうに笑ったりしないが。
「今日はどうしたんだ?」
「用事がなきゃきちゃいけないの?」
「お前が来る時は大概用事があるだろ?」
「まあ、そうだけどね」
 少し綾香は苦笑を浮かべた。
 そして、さっき床の上に置いた紙袋を指差した。
 俺が立っている位置からだと中身を確認する事は出来ない。
「ほら、料理よ料理」
「ああ、なるほど」
 俺は思わず肯いた。
 こいつが前に来た時、綾香は家にあかりに料理を習いに来たのだ。
 その時は、散々に失敗して、それ以来、セリオに料理を習っている、とか言っていた。
 確か……あかりに料理で勝つとか言ってたな。
 つー事は。
「お前は俺を実験台にしに来たって訳だな?」
「まあ、そんな所ね」
「……腕上げたのか?」
「もちろんよ。任せておきなさい」
「本当か?」
 俺は思わず厳しい目で見ていたのだろう、綾香は拗ねたように口を尖らせた。
「何よ。そんなに信用できないの?」
「……んな事はねーけどな」
 本当は大有りだったりする。
 前は、鶏がらのだしの味噌汁なんて物を飲まされたからな。
 そう簡単に信用できるものでは無い。
「あー、信用してないでしょ」
 どうやらばれたらしい。
「してるしてる。マジで期待してるぜ」
 ふう、とため息をついた。
「前科があるから仕方ないかもしれないわね。でも、今度こそは自信があるから、ちょっと待ってなさい」
「……おい。まだ三時だぞ?」
「良いでしょ? どうせ、昼飯もまともに食べてないんじゃない?」
 図星だったりする。
 朝昼兼用に昨日余ったご飯を海苔で食べただけだ。
 俺が言葉に詰まるのを見て、綾香は呆れた顔をした。
「もしかして、図星?」
「……ああ」
「健康に悪いわよ、それ」
「わあってるよ」
「本当に? 葵が聞いたら泣くわよ」
「……できるだけやってみる」
 あかりが来ると、まともな飯を作ってくれるが、そう言う時以外は俺は最近まともな飯を食った記憶が無い。
 まずいな……。
 エクストリームの予選も近いと言うのに……。
 綾香は床に置いてある紙袋を拾い上げ、それをもって台所へ向かった。
 ……まあ、どんな物をあいつが作るにしても、何も食わないよりは数倍ましだな。
 俺は机の上のリモコンで、ビデオを再びつけた。



「……ほぉ」
「ね? 腕上がったでしょ」
「確かにな」
 確かに、綾香の腕は上がっていた。
 一ヶ月前とは見違えるほど、といっても過言では無いだろう。
 蛸とワカメの酢の物、前とは違って普通の味噌汁、紅じゃけも脂が乗っていて実に旨そうだ。
 あとは、ほっかほっかの御飯と漬物。
 ……難しい料理は一つも無いが、妥当、と言う感じがするな。
「さ、食べて食べて」
「おう」
 俺はとりあえず、経験上一番恐れるべき味噌汁を手に取った。
 ずずっとすすってみる。
 ……まーまあだな。
 俺の趣味よりも少し味が濃いが、まあ許せる範囲内だ。
 中に入っているナスも味がしみこんでいる、と言う感じがする。
「どう?」
 綾香は不安と期待の入り混じったような目を俺に向けている。
「まーまあじゃねーか?」
「そ、そう?」
「まずくはねーな。それほど旨いって訳でもないけどな」
 あかりの料理を食いなれてるせいだろうな。
 昼飯はずっとあかり弁当だったからな……。
 綾香は少し照れたような顔で笑った。
 ……照れた綾香なんて初めてみる気がするな。
 他の料理も味はまあまあだった。
 めちゃめちゃ旨いわけでもなく、失敗している、と言うほどまずくは無い。
 ある意味、平均的家庭料理の味ともいえるのかもしれない。
 最後に御飯を口にかき込んで、俺は箸を机に置いた。
「ふう」
「浩之食べるの早いわね」
 少し残念そうに綾香は言う。
「高校生なんて、んなもんだろ?」
「そう?」
「綾香は女子高だからな……育ち盛りの食欲は恐いぞー」
「女でも育ち盛りとかあると思うけど」
 ……それもそうだ。
 俺は思わず納得した。
「じゃ、浩之が食べ終わったら、っと」
 綾香は立ち上がって台所から紙袋を持ってきた。
 なにやらまだ膨れている。
「まだなんかあんのか?」
「うん。はい、これ」
 綾香は紙袋の中から、とん、とん、と無数の缶やビンを取り出す。
 これは……。
「酒じゃねーか」
「そうよ。何の為にお昼から晩御飯食べたと思ってるの」
「……もしかして、お前今から飲む気?」
「当たり前でしょ?」
 いや、昼間っから酒かよ。
 それ以前に未成年と言う話は何処へ消えた?
 俺も別に反対する気は無いが……。
 綾香は早速缶ビールを両手に取ると、一つを俺のほうに渡した。
 そして、プルトップを上げる。
 俺も、同じように開けた。
 まあ、折角酒があるんだから、一杯やりますか。
 かるーくな。
 急性アルコール中毒と言う言葉が頭によぎる。
「ゆっくり飲もうぜ。時間はそこそこあるからな」
「えー。ぱっぱと飲みましょうよ」
「急性アルコール中毒」
「良いじゃ無い。酒飲んで死ねたら本望よ」
 正気か?
 俺が呆れた顔をしていると、綾香が缶を軽く掲げた。
「乾杯!」
「……乾杯」
 綾香は思いっきり、自分の缶を俺の缶にぶつけて、一気にビールを傾けた。
 ……おい。
「ぷっはー。美味しいわね」
「ちょっと待て。マジでぱっぱと飲む気か? 酔いつぶれてもしらねーぞ」
「そしたら家まで運んでね」
 誘惑するように首を傾ける。
 先輩並の美人にそう言う事言ってもらえるのは嬉しいんだが……。
「んな事したら殺されちまうよ」
「そんな事無いわよ」
「そーか? セバスチャンは先輩に近づいただけであの喝!だぜ。もしも、酔いつぶれたお前を家まで運んだりしたら、物凄い事にならねーか?」
 綾香はビールを持ったのと逆の手をひらひらと振りつつ、自分の首を横に振った。
「あれは姉さんだけよ。私にはそんな事無いわよ」
「第一、あかりが聞いたら、さすがに切れるぜ」
 まず、酒を飲むだけであいつは怒るだろうな。
 しかも、綾香が酔いつぶれたりなんかしたら、俺の事をまず疑うんじゃないだろうか。
「綾香さんに何したの!?」とか言われたりして。
 たまったもんじゃねーな。
「……そうね」
 綾香は思いっきりビールをあおった。
 おいおい、ペースはえーぜ。
 綾香の目が据わっている。
 ……こいつ、なんか自棄になってねーか?
「浩之も飲みなさいよ」
「わあったよ」
 俺も軽くビールをすすった。
 綾香はだん、と机を叩く。
「もっと飲みなさいよぉ」
 ……すでに、酔い始めているな。
 酔っ払いと暴れる民衆、泣く子と地頭には逆らうな、と言うからな。
 いわねーか。
 俺は思いっきり、ビールの缶を傾けた。



 時計を見ると、短針がXとYの間を彷徨っているのが見える。
 ……さっきからずっと飲みっぱなしだ。
 俺はできるだけゆっくりと飲んでいるから大丈夫だが、あいつの方は……。
 綾香は未だに、どんどん飲んでいる。
 大丈夫か、あいつ。
 綾香は、はじめは少し俺に絡んでいたが、途中から突然黙り込んで、ちらちら俺のほうを伺いながらビールを飲んでいる。
 今も、綾香はちらちら俺のほうを見ている。
 俺は絡まれるのも何なので、同じようにちらちら見ながら日本酒を堪能している所だ。
 ぬるいが……まあ、良いだろう。
「ねえ、浩之」
「何だ?」
 唐突に、綾香が声をかけてきた。
 少し、熱っぽい声である。
 あんだけ酒を飲めば当然かもしれないが。
「実は私……」
 綾香は熱い息を吐き出した。
「浩之の事が好きなのよ」
 ……きつい冗談だ。
「……酔ってるな」
「そうね」
 綾香は自嘲するように笑って、またビールを飲み干した。
 ったく、酔っ払ってまでそんなにきつい冗談言うなよ。
「冗談きついぜ」
「本気よ」
 綾香が赤らんだ顔で言うが、まったく信憑性が無い。
 俺はビールの缶を置いて肩をすくめた。
「せめて、酔ってないときに言って欲しかったな、そう言う台詞は」
「酔ってない時なら良いの?」
「そう言う訳じゃねーけどな」
 第一、俺にはあかりと言う恋人がいる。
 そんな事を言われても困る。
「……じゃあ浩之」
「なんだ?」
「もしも、私が、浩之の事を好きだって言ったらどうする?」
「……知るか」
「本気で答えてよ」
 だんだん、妙な雰囲気になってきた。
 絶対に絡み上戸だな、こいつ。
「しらねーって言ってんだよ」
「お願い」
 綾香の声は思いのほか、真剣だった。
 俺は思わず、綾香の顔を見る。
 少し赤らんでいるが、紛れも無く、真剣なまなざし。
 ……この眼で冗談だと言うなら、世の中に本気はあるのだろうか、と言うくらいの。
 俺は思わず言葉に詰まった。
「お願い、浩之。答えて」
「…………」
 何度見ても綾香の目は真剣そのものだ。
 一体どうしたのだろう?
 冗談で無いと言うなら一体何故こんな事を言っているのだろう?
 まさかこいつが俺に本気で惚れていると言う事は無いだろうし。
 ……やはり酔っているのだろうか?
 だが、それにしては真剣なまなざしだ。
 俺の思考はぐるぐると同じ所を彷徨うばかりで答えが出てこない。
「……わかんねーな」
「分からない?」
「ああ、何で綾香がそんな事を言うのか、が分からない」
 俺は綾香の目をじっと見ながら言った。
 綾香はゆっくりと目を閉じた。
 缶を持っていた手を胸に当てる。
 胸の中にずっとしまっておいた、答えをそこから探している。
 なぜか、そんな気がした。
「好きだからよ」
「…………」
「葵のところで初めて会った時から、ずっと、浩之の事が好きだったの。始めは自分でも気がつかなかったけど……、河原で戦って、初めて気が付いたわ。ああ、私、この人とずっと一緒にいたいんだなって」
「…………」
「答えてよ」
 綾香は俺の瞳を覗き込んでくる。
 俺の瞳にうつった綾香は一体、綾香自身にどんな風にうつっているのだろう?
 不安げに?
 ほっとした様子で?
 ……違う。
 なぜか、悲しげだ。
 もう、綾香自身、答えがわかっているのだろう。
 ……俺はゆっくりと首を振った。
「もしも、……あくまでもしもだぞ。お前が俺の事を好きだといったら」
「…………」
「俺は断るな」
 綾香は俯いた。
 横髪が頭の動きに従い、ゆっくりと垂れる。
「俺には、好きな奴がいる。あいつも俺の事が好きだ」
 それで十分だ。
 それ以上言う必要は無い。
 綾香はそれ以降何も言わない。
 黙っている。
「綾香?」
 よく見ると、肩が少し震えている。
 妙な息遣いも聞こえてくる。
「あっははははははははは、もしかして浩之本気にした?」
 俺は呆気に取られた。
 綾香は腹を抱えて笑っている。
 ばんばん、と机を時々叩く。
「……おい、もしかして冗談か?」
「あったりまえでしょ。何で私が浩之なんかにほれなきゃいけないのよ。……あー、それにしても惚気ちゃって……相変わらずお熱いわねえ」
「……本気にしちまったじゃねーか」
「いやー面白かったわねー」
 くすくす、とまだ笑っている。
 俺はがりがりと頭を掻いた。
 本気にした俺が馬鹿みたいだ。
「ねえ、浩之」
「ん?」
「私もうそろそろ帰るわ」
「は?」
 綾香は少しふらふらしながら立ち上がった。
「実はね、もうそろそろ門限なのよ」
「……そっか、門限とかあるんだな」
「うん。残ったお酒は良いわ。浩之貰って」
「別に良いけどな」
 唐突な奴だ。
 まあ、綾香らしいといえば綾香らしいのだが。
 荷物は紙袋だけだったのでもう何も無い。
 ふらふらとした足取りで、玄関まで出て行った。
 俺も玄関まで見送りに行く。
「じゃあな」
「うん」
 俺が手を振ると、それにつられてか、綾香も手を振った。
 扉を綾香が後ろ手で閉める、がちゃん、と言う音が玄関に響いた。
 ……それにしても今日のあいつは本当に変だった。
 突然、酒なんか持ってくるし、洒落にならないような冗談を言い出すし。
「……どうしたんだろうな」
俺はぼやいて、玄関の鍵を閉めるために、扉の目の前まで行った。
 その時、唐突に、扉が開かれた。
 驚いて、顔を上げた俺の唇に何かが押し当てられる。
 …………!?
 唇がゆっくりと離れていく。
 近すぎて分からなかったが、こいつは……綾香だ。
 綾香は酒のせいだけじゃ無いだろう、真っ赤な顔で悪戯っぽくにやっと笑うと、そのまま呆然と立ちすくむ俺の前から走り去っていった。



 ……それが俺の最後に見たあいつのあの笑顔だった。



「ねえ、浩之ちゃん、それ何が入ってるの?」
「ん?」
 俺が思い出に浸っていると、あかりが声をかけてきた。
 言われて、手の中の重みを思い出した。
「ああ、何だろうな」
 俺は薄々ある予想を立てながら、箱を開けてみた。
 その中には、予想通り……。



 妙に柔らかい感覚に呆然としていた俺だが、むっとするような熱気で我に返った。
 慌てて、ドアを閉める。
 ぼーっとしながら、部屋に戻って、さっきまで座っていた席に着く。
 ……柔らかかった。
 酒くさかったけど。
 ……あかりとはやはり少し感触が違う、とかそんな事ばかり頭に思いついてしまう。
 俺は頭を冷やす為、冷蔵庫から、カフェオレを取り出した。
 そして、コップに注ぎ、机に戻る。
 ……途中で、あいつの席にちょこんと置かれたそれに気が付いたのだ。
 置かれた、と言うよりは忘れられたという方が正しいかもしれない。
 小さな、白い硬めの箱。
 俺の手の中にすっぽりとおさまってしまう。
 俺はその箱を開けてみた。
 小さく折りたたまれた紙と、本当に小さいチョコレートが入っていた。
 俺は紙を開けてみた。
 一行だけ書かれている。
『ありがとう』
 …………。
 どういう意味だろう?
 俺は今度はチョコレートを軽くかじってみた。
 ……甘い。
 当たり前なのかもしれないが、物凄く甘く感じる。
 俺は、この二つの前でまったく訳が分からず立ちすくんでいた。



 それから二日後だ。
 あいつがアメリカに戻った、と聞いたのは。
 なんでも、飛び級で大学に入ったらしい、と言う事を先輩から聞いた。
 綾香は俺たちと会う前からアメリカの大学に行く予定だったらしい。
 ……俺はその時、妙に胸が苦しくなったのを覚えている。
 あかりが好きなのは変わらない。
 綾香の事がそう言う意味で好きなわけでは無い。
 ただ、こんな中途半端な状態が嫌なだけだったのだろう。
 そう、後で思ったことも覚えている。



 結局、あの箱は俺がもしも好きだと言った時のために用意してあったのだろう。
 だが、あの箱は本来の役割ではなく、あいつの最後の言葉として、『ありがとう』と言うメッセージを残す別れの箱になってしまった。
 そして、今俺は似たような箱を開けた。
 そこにも、一枚の紙切れと、小さなチョコレートが入っている。
 あかりはしげしげと覗き込んだ。
「浩之ちゃん。これ何?」
 俺は無言で、紙切れを開いた。
 また、一行だけ書いてある。
『もうきっと会わないでしょう。さようなら』
 俺はチョコレートを口に入れた。
 一口噛み砕くと苦味がじわーっと広がっていく。
 俺は思わず顔をしかめた。
「どうしたの?」
「苦い……」
 チョコレートは、前に貰った物とは違い、非常に苦い。



 ……これが綾香が本当に用意した別れの箱なのだろう。

 

-Fin-


グラノフカ設計局より

 素晴らしい作品を有り難うございます。
 チョコのほろ苦さとキャラの心情が重なり、胸にしみ入る一品です。

 

なげ様のホームページはこちらです…

-> 電波系無料休憩所

もしよろしければなげ様にご感想を…

 -> nagenage25@hotmail.com