LostWaltz

 

第1話

 

Ver.1.01

 

制作: GRNVKA

 

 

 

 窓の向こうに夜の海が見える。光の無い、暗い広がり。
 時折、幾つもの照明をともした船が、ほのかな白い航跡を後に残しながら、真っ黒な視界を横切っていく。
 ほんの少し目を上げると、虹色に照明された櫛形の橋梁が、夜空と海の境界に横たわっているのが見える。その巨大な構造物を縁取るようにして、ちかっ、ちかっと規則正しく明滅する、ルビーの輝き。
 更にその向こうには、地平線を靄のように覆う東京の都市光。
 夜空の星は、都市の作り出す光の靄によって、大地との境界から追いやられている。その靄の薄れる辺りから急に星の瞬きが見え始め、雲一つない天頂近くには、無数の星が美しく煌めいていた。

 こんなに素敵な夜景を前にしているのに、憂鬱な思いは断ち切れそうにない。

 神岸あかりは沈んだ吐息を漏らした。
 窓ガラスに薄く映るあかりの顔は、お世辞にも明るいとは言えなかった。
 最近はいつもこうだ。
 どこか辛そうに顔を歪ませ、眉間にしわを寄せている。
 何とも場違いな表情だった。
 ここは夜景が綺麗と評判のレストランで、デートスポットとして有名だった。照明の抑え気味な店内では、カップルたちが顔を寄せ合い、楽しそうにお喋りに興じていた。ここはそういう場所なのだ。
 あかりにも、それくらいは分かっていた。分かっていたはずだった。

 なのに。

 笑い声があかりの耳に届くたび、仲睦まじい恋人たちの姿が目に入るたび、あかりの心臓は、冷たい何かにぎゅっと掴まれたように萎縮する。何もかもが苦痛に思える。
 もし屈託無い気分のときだったなら、夜景の美しさに感動したかもしれない。窓際の席を取れた幸運に素直に喜び、外を眺めて時間を過ごすだけで満足したかもしれない。

 …しかし。しかし今は。

 あかりは、呼び止めたウェイターを見ようともせず、目を伏せたまま呟くように言った。
「浩之ちゃん、最近つめたい」
 もう一度繰り返す。
「つめたいよ…」
「おいあかり。バイト先にまで押し掛けて来て、言うせりふがそれかよ」
 テーブルの横に立つウェイターがためいきをついた。
 あかりの幼なじみ、藤田浩之だった。
 先ほどまでの礼儀正しい接客言葉から、知り合いと話すときの砕けた話し方に戻っている。
 ばかばかしいと言いたげな浩之の言葉に、ちょっとカチンと来たあかりであった。
 せっかく浩之に会いに来たのに、当人はウェイター仕事に没頭していて、声もまともに掛けてくれない。思いあまってさっき呼び止めたときも、浩之の第一声は「はい、なんでしょうか、お客様」だった。
 あかりは思った。
 せめてお料理を持ってくるときくらい、浩之ちゃんがやってくれたらいいのに。オーダーのときだって、わざわざ浩之ちゃんを捕まえてから注文したのに、料理を持ってきてくれたのは別の人だった。

 昔だったら、浩之ちゃん、ちゃんと自分でお料理を持ってきてくれた…。

 わがままだと分かっていながら、そんな恨みがましい気持ちを抑えられない。
「…」
 あかりは深くうつむいていた。膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。
 買ったばかりのポーチに、お気に入りのスーツに、まだ一度も履いていなかった靴。髪だって美容院で整えてきた。
 なのに何も気付いてくれない。何も、何も。

 いつからだろう? 浩之の視線が自分をすり抜けて、何処か別のところを見つめていることに気付いたのは。
 浩之とのさりげないけれど小さい頃からの特別な関係は、あかりの一番大事な宝物だった。距離を狭めるのはゆっくりでもいい。浩之と一緒に居られればそれでいいと思っていた。

 だが、その関係は、いつの間にかあやふやな存在に変わっていた。

「ここの料理、うまいんだぜ。早く食わねぇと、冷めちまうぞ」
 湯気を失いかけた海鮮風味のリゾットを見下ろし、浩之が言った。
「浩之ちゃん、変なこと言ってごめん。…今日は帰るね」
 そう言うや、あかりは立ち上がった。
 がたんと鳴った椅子に、一瞬、周囲の好奇の視線があかりのテーブルに集まった。しかし特に何も起こった様子がないので、周囲の目はまた、めいめいの楽しい世界へと散っていった。
「お、おい、あかり」
 そのまま足早に出口に向かうあかり。
「待てよ、お前、今日なんかおかしいぞ」
 浩之が追いすがる。
「なぁ、どうしたんだ?」
「ちょっと気分が悪くなっただけ。…ごめん」
「…」
 浩之は立ち止まった。あかりの顔をしばらく見つめた後、
「そうか」
 ただそれだけ、言った。
 背後で浩之を呼ぶ声がする。浩之は納得しきれない表情を残しながらも、声の方へと踵を返した。そしてそのまま忙しなく立ち去りかけて、再びあかりの方を振り返った。
「あかり」
「え?」
「また、明日な」
「うん…」
 明日、大学で浩之ちゃんと会える。
 あかりの表情がほんの少し明るくなる。
「またね、浩之ちゃん…」
 言いかけたその言葉は届かなかった。あかりの目に遠ざかる浩之の背中が映る。
 手を挙げているカップルのテーブルの横で、頷きながら懸命に注文票に書き込む浩之の姿を、あかりはじっと見つめていた。

 …浩之ちゃん、つめたい。

 あかりは心の中で呟いた。


   *****


 あかりと浩之は同じ大学に通っている。
 出来るだけ浩之と一緒の時間を増やしたい。その願いがあったからこそ、浩之と同じ大学を選んだのだ。
 ところが浩之は大学に入ると同時にバイトに精を出すようになり、殆どあかりと顔を合わさない。子供じゃないんだから家まで迎えに来るなと釘を差され、昔のように一緒に学校に行くこともない。料理を作りに行こうかと持ちかけても、家には殆ど居ないからと、体よく断られるのだ。
 それでも一度、浩之の家に行ったことはある。浩之の家の前で、呼び鈴を押そうか押すまいか迷っていたとき、不意に後ろから肩を叩かれた。
 浩之が立っていた。
 そのとき浩之が見せたあの不機嫌な表情を思いだすと、あかりは萎縮してしまい、何もできなくなる。
 結局、あかりのできることと言えば、授業のとき隣に座り、レポートのときはノートを貸すくらいが精々だった。

 思えばすれ違いの日々は入学直後から始まっていた。

「ねぇ、浩之ちゃん、サークル何処にするの?」
 新入生歓迎のサークルパンフを抱えたあかりがニコニコと浩之に訊ねたとき、浩之の答えはただ一言、
「サークルK」
だった。
「…? ???」
 首を傾げるあかり。大まじめにそのサークルを探そうとページをめくるあかりを見て、浩之は苦笑した。
「ばーか、バイトだよ。コンビニのバイト」
「えっ」
「ちょっと大きな買い物したから、バイトしないとやってけねーんだ。サークル活動はやるヒマ無いだろーな。…そういやあかり、お前は何処に入るんだ?」
 あかりの肩が少し落ちる。
「ううん…まだ決めてない」
 力無く首を振るあかり。
「そっか」
 浩之は微笑して、
「まぁお前は頑張り屋だから、何処に行ってもうまくやれるだろ」
と励ますように言った。

 違うよ、浩之ちゃん。

 あかりの心に湧き上がる思い。

 私が頑張るのは、浩之ちゃんが見ていてくれるからなんだよ。浩之ちゃんが居るから、一生懸命になれるんだよ。
 浩之ちゃんがそうやって離れていったら、これからどうしたらいいの?
 わかんないよ。何のために頑張ったらいいか、私、もう、わかんないよ。

 胸の内に渦巻く悲鳴に近い声に苛まれながらも、あかりは精一杯、うん、とうなずいた。そうする以外どうしようもなかった。


   *****


 あかりたちが大学に入学して一年余りの年月が過ぎていた。
 大学一年の頃の殺人的なカリキュラム…教育省大学局が言うところの『教養課程再建計画』に基づくものだ…と比べると、二年のペースは比較的緩まっていて、学生たちには精神的なゆとりも生まれていた。
 とは言え油断していると留年してしまう。二十一世紀の大学教育は入る者に優しく、出る者に厳しいのだ。
 それだけではない。
 大学運営が一部独立採算性に移行したこともあって、留年すると、国庫からの援助は容赦なく減らされる。授業料がどんどん割高になっていくために、しまいには自主退学に追い込まれる者も多かった。
 その話を大人たちにすると、「昔は大学に入るだけで良かったのにねぇ」と気の毒がられる。かつての大学は、入学するだけでエスカレータ式に卒業して就職できる、牧歌的な存在だったのだ。
 大学に入ってからというもの、あかりはとにかく一生懸命だった。取れる単位は全て取った。将来のことを考えて、色々迷った後、教育関係の専攻講座を選んだ。子供の数が激減している今、教育関係は閑古鳥の鳴く分野ではあったが、家庭科の先生になれるものならなってみたいと思ったのだ。
 では浩之の方は? 浩之もまた、何とかうまく切り抜けているようだった。ただ、浩之の場合は無駄なことはしない。必要最小限の単位だけ取得し、後はバイト、バイト。将来についてはどう考えているか分からない。



「神岸さん、今日、西洋史と中国語B、お休みだって」
 午前の授業の終了間際、突然、隣に居たゼミの友達が話しかけてきた。
 吉崎綾乃という子だった。ゼミの初日、隣り合ったのが縁で、友達になった。
「えっ?」
「掲示板に載ってるよ? 見てないの?」
 あかりは首を振った。
 あかりはその授業を履修している。二つとも休みということは、今日は午後から暇ということになる。
「ね、神岸さん、どっか行かない?」
 綾乃の誘いに、あかりは手を合わせる。
「ごめん、用事あるの」
 綾乃は、他人を拘束するようなことはあまり言わない。あかりもそうだ。だから、あかりが断っても、そのきさくそうな表情は変わらなかった。
「あ、オトコ?」
 何とも身も蓋もない言い方だ。あかりはどぎまぎする。
「ち、違うよ…」
 そう言いながら上目遣いになるあかりに、綾乃はヤレヤレと苦笑した。どうやら、あかりの否定は否定になっていないらしい。
「はいはい、頑張ってね」
 励まされてしまった。
 頬を染めたあかりの肩を、『しっかりね』と言うように叩くと、綾乃は去っていった。
「そんなんじゃないのに…」
 あかりの言い訳を聞く者は、もう居ない。
 浩之ちゃん、居るかな。
 気を取り直し、周囲を探す。昼休みだから、どこかで食事をしているのかも知れない。
 あかりは、浩之の姿を探して、学生食堂に足を運んだ。
 学生食堂のガラス戸を開けると、すえた植物油の匂いが漂ってきた。
 あかりは学生食堂の食事に好意的になれない。手間のかからない揚げ物ばかり使うからだ。それも、同じ油を連続して使うから、終わりの方の揚げ物は衣が変色していて、見ているだけで気分が悪くなる。
 一度、浩之と学生食堂に行ったことがあるが、浩之の注文したチキンカツの衣が焦げ茶色なのに仰天した。
 浩之ちゃん、それ…と言いかけたあかりに、浩之は皿を抱えて口を尖らせ、分けてやんねーぞと訳の分からないことを言った。おいしい?と聞いたら、うんと頷いた。そして、ソースをどぶどぶと衣に吸わせ、美味しそうにぱくついていた。
 うわぁ…。
 あかりは頭を抱えそうになった。チキンカツでご飯を食べているというより、ソースで食べていると言った方が適切な表現だろう。
 あのソースまみれの物体を思い出しただけで、口の中が酸っぱくなる。
 そのたびに思うのだ。
 お弁当作って来いって昔みたいに言ってくれたら、もっとましな食事させてあげられるのに、と。
 あかりには、何故浩之が遠慮するのか分からない。高校のときは卵焼きを入れろだの量を多くしろだのうるさくしてきたものなのに、どうして今になって遠慮するのだろう。
 避けられているのだろうか?
 あかりは少し不安になった。
 まさか。そんなことはあり得ない。
 小さかった頃ならいざ知らず、今は距離の取り方も心得ているし、そんなにしつこく付きまとっているわけでもない。
 偶然だ。そうに決まってる。
 あかりは自分にそう言い聞かせた。
 と、あかりの目に浩之の姿が映った。端の方のテーブルで一人ラーメンをすすっていた。
「浩之ちゃん」
「おう、あかり」
 ラーメンに胡椒を振りかけていた浩之は、あかりの姿を認め、箸を持った方の手を軽く上げた。
「どうした? 今日は学食か?」
「ううん」
 話している間も、浩之の手は、胡椒ビンを力任せに振り続けている。あかりはそれが気になってしょうがない。あんなに胡椒を振りかけて、どうするつもりだろう?
「今日、中国語Bの北澤先生、お休みなんだって」
「ホントか?」
 浩之の顔が明るくなる。
 ははぁ。あかりはその理由に思い当たる。
「…浩之ちゃん、予習していなかったんだね?」
「今日は当たらない筈なんだ。それに、あの先生の授業退屈だから、出るだけで苦痛」
 浩之は無駄な勉強はしない主義なのだ。高校のときからそうだった。テストはいつも赤点すれすれで、見かねたあかりが試験勉強に誘って、そこでようやく成績が下げ止まったのだ。
 そのときだった。
 かぽん。
 浩之が上の空で振り続けていた胡椒ビンの蓋が外れ、中の粉末がラーメンに降り注いだ。
 麺の上に突如うずたかくそびえ立った胡椒の山を見て、浩之はひどく情けない顔をした。食べようか食べまいか箸で麺をかき回しながら迷う浩之だったが、とうとう諦めて箸を置いた。
「何だよ」
 あかりのしょうがないなぁという表情に気付いたのか、決まり悪そうに浩之が言う。
「あのね、浩之ちゃん」
 あかりは話題を変えた。
 新聞の勧誘員から貰った美術館の入場券のことを考えていた。ちょうど手元に二枚ある。ただで貰ったと言えば、浩之ちゃん、遠慮しないで行ってくれるかも。
「今日、ひま?」
 浩之は考える表情をした。
 期待に満ちたあかりの視線に気付き、何故かふっと目を逸らした。
「あ、ちょっと、今日はな…」
「え? バイト?」
「いや、違うんだけど、次のバイト先でも探そうかと思って」
「…そう」
 あかりはがっかりした。
 肩を落とし、とぼとぼと去ろうとするあかりを、浩之が呼び止めた。
「あかり」
 浩之はすまなそうな顔をしていた。
「ごめんな」
 あかりは少しだけ元気が出た。何だかんだ言って、浩之はちゃんと見ていてくれるのだ。
 ううん、と首を振る。
「浩之ちゃん、いいバイト見つかるといいね」
「あ、ああ」
 浩之は曖昧に頷いた。



 浩之は次の授業に出ると言ったので、あかりはそのまま家に帰ることにした。サークルには属していなかったし、ゼミの研究室に積まれた少女漫画を読んで、だらだら時間を潰す気にもなれなかった。
 結局、あかりは昼過ぎには家に戻っていた。
 何をするでもなく、自分の部屋でぼーっと時間を過ごす。ベッドの端に腰掛け、宝物のクマのぬいぐるみを強く抱きしめる。
 こんな生活、つまんない。
 あかりはふくれる。
 浩之ともっと一緒にいたいのに、全然時間が取れない。
 受験のときのほうが、ずっとマシだった。
 受験の時は、浩之と二人三脚、大学合格を目指して頑張っていたのだ。模擬テストの前は、浩之の家で勉強会をしたし、週末は誘い合って、図書館で一緒に勉強した。
『私学は金がかかるから、どうしても公立に行きたいんだ』
 勉強のとき、浩之は口癖のようにそう言っていた。いつもの浩之とは違って、必死に机に向かっていた。
 その熱意に引きずられるようにして、あかりも懸命に勉強した。
 あかりの両親は、進路は自由にしなさいと言ってくれたが、金銭的な負担のことを考えれば、公立に進んだ方が良いに決まっている。
 だから、合格発表の掲示板に互いの受験番号を見つけたときは、本当に嬉しかった。
『浩之ちゃん、合格したよ! 合格したよ!』
 あかりは飛び上がって喜んだ。浩之を呼ぶと、ほらっ、と自分たちの番号を指差した。
 浩之はゆっくりと首を上げ、張り出された自分の番号をじーっと見つめた。浩之の顔に静かな喜びの感情が広がり、やがて、ほぅ、と肩で息をついた。
 掲示板を見つめる浩之は、思い出に浸るような遠い目をしていた。それからあかりの視線に気付くと柔らかく微笑んで、
『あかり、有り難うな』
 そう言った。

 浩之が感謝してくれた。

 あかりは、頬が火照るのを感じた。
『そんなことないよ…私は何も…浩之ちゃんの実力だよ…』
 もそもそ口ごもるあかりの髪を、浩之は優しくぽんぽんと叩いた。



 あかりはベッドにぱったり倒れた。
 天井を見上げ、大きく溜息。
 どうしたら浩之との距離を縮められるのだろう。このまま卒業まですれ違い続けるのだろうか? 大学までは一緒でも、会社とかそういうことになると、一緒には居られないだろう。
 いつかは離れ離れになり、やがて互いのことを忘れて…。

 そんなのいやだ!

 あかりの中で拒絶の叫びが上がる。
 しかし、考えても、考えても、結論は出なかった。
 そうこうしているうちに、軽くまどろんでいたらしい。
 気が付くと、下であかりを呼ぶ声がしていた。
 母親だ。勤め先から戻ってきたのだ。
 あかりは時計を見た。いつの間にか、時刻は三時を過ぎていた。
「あかり、居るんでしょ? あかり?」
「はぁい」
 大きく返事して、一階に降りていくあかり。
 スーツをハンガーに掛けていた母親は、あかりのはれぼったい顔を見て、おや、と驚く。
「寝てたの?」
「ちょっとね…」
 珍しいこともあるものだと、あかりの母親は首を傾げた。
「悪いけど、夕飯の買い出し、行ってくれないかしら。お母さん、これから電話で打ち合わせしなきゃいけないの」
「え?」
「何もやることないんでしょ?」
 そう言われてしまっては、引き受けるしかない。
 あかりは、あまり乗り気のしない声で、うん、とうなずいた。
 取り敢えず、よく行っていたスーパーに足を向けるあかりだった。



「お夕飯の買い物かぁ…」
 久しぶりだ。
 そうあかりは感じていた。
 以前は進んで買い物に出かけていた。大学に入る前までは、受験のときでさえ、下校の途中に買い物に立ち寄ったものだ。それどころか、自分が夕飯を全部作ったことだって何度もある。

 でも、今は滅多にしない。

『ねぇ、あかり。今日のお夕飯、お母さんの代わりにあなたが作ってもいいのよ。そのときは、材料はあなたが自由に見繕っていいからね』
 出かける間際、あかりに、母親はそんな風に声を掛けた。
 あかりの母親は料理学校の講師だ。あかりもその血を受け継いでいて、料理は得意だし好きだった。
 『だった』というのは、最近のあかりには、料理に取りかかろうという気力が生まれてこないからだ。あかりの母親は彼女なりに娘の変化に気付いていて、それとなく水を向けてみたのだろう。
 あかりは、メモ帳に走り書かれた材料をちらっと見る。
「今日はシチュー…だよね」
 なんとなく、わかる。
 ぶつ切りの鶏肉にじゃがいも、人参、マシュルーム、月桂樹の葉にセロリ。その材料なら、あかりだったらシチューを作るだろう。
「クリームは書いてないけど、大丈夫かな…」
 野菜売場で、お目当てのものをかごに入れながら、ふとそんなことを呟くあかり。
 こんな事なら、ここに来る前に、冷蔵庫を確認しておくんだった。以前なら、冷蔵庫の中身くらい全部知っていたのに。
 やっぱり、生クリームも買っておこう。一番新しい日付のものを買っておけば、もしだぶっても大丈夫だろう。
 そう思って、乳製品のコーナーに行こうとしたとき、見覚えのある人物が、角を曲がっていくのが目に入った。

 あれ…?

 その人物の後を追う。
 そこに居たのは浩之だった。
 どうしたのだろう。バイト探しって言ってたのに。
 声を掛けようとして、次の瞬間、思わず身を引っ込めてしまった。
 浩之は普段通りの仏頂面で、手を後ろポケットにつっこみ、ぶらぶらと歩いていた。
 誰かと一緒だ。
 誰なのだろう?
 あかりは瞬きもせず、その相手に目を凝らした。

 浩之の側にいたのは、マルチだった。


   *****


 その日はゼミの飲み会だった。
 話の輪が幾つか出来ていて、そこでは、もうすぐ始まるGWと、楽しいイベントの話題で盛り上がっている。
 あかりは、隅っこの席で、静かに座っていた。
 飲み会が始まったときは、他の女の子たちと一緒になって座っていたのだが、彼女らは酒宴がたけなわになるにつれて席を離れ、話の輪に加わっていった。
 残っているのはあかりと綾乃くらいか。
 以前は、あかりにも、声をかけてくる男の子が居たが、あかりは、愛想笑いでごまかすのが常だった。
 そのうち、『あかりちゃんには熱愛中の彼氏が居るらしい』ということになり、誰も声を掛けてこなくなった。
 ゼミ内で旅行の話が出たときも、あかりは話の輪から外れていた。旅行の目的が『出会い』作りであるから、そうなるのも当然と言えた。
 隣の綾乃があかりの方に身を乗り出した。
「ね、神岸さん? みんなと旅行、行かないの?」
「うん…」
 答えを濁すあかり。綾乃は何故かあかりのことを気に入っているようで、何かと声を掛けてくれる。
「あ、彼氏と行くんだ?」
 無言のままのあかり。聞きづらいものを察したのだろうか、綾乃はそれ以上突っ込まなかった。
 と、向こうで綾乃を呼ぶ声がした。
 綾乃は励ますようにあかりの肩を揺すると、席を離れた。
 あかりは独りぼっちになった。
 コップには、ビールが半分以上残っている。ずっと手で温められ続けていたため、泡は殆ど消えていた。

 浩之ちゃん、どうして変わっちゃったんだろう…。

 そのことばかり考えていた。
 周囲の騒ぎ声を聞いていると、頭が痛くなりそうだった。
 結局、周囲と打ち解けられないことに居づらさを感じ、あかりは二次会の前に席を立った。



 あかりは、夜風に吹かれながら、人通りまばらな繁華街を歩いていた。
「ちょっと飲み過ぎたかな…」
 息をするたび、アルコールの匂いが漂う。余りアルコールは強い方ではないのだ。
 あかりは赤く火照った頬に手を当てた。
 親のことを思った。
 あかりの家に門限はないが、それは普段の素行の良さがあってのこと。そうでなくとも、夜遅く、一人娘が酔っぱらって帰ってきて、いい顔をする親は居ないだろう。
 もっと早く帰ってこい。そう言いたげに渋面を作る父親の顔が脳裏に浮かんだ。
 小さく、溜息。
 ふと、本屋の横の路地の前で、足を止めた。

 あ、ここ、抜け道だ。

 この細い道を入って左に抜けると、公園のフェンス裏に出るのだ。
 昔、幼なじみ三人組…あかりと浩之、雅史だ…は、この道を探検して、公園へ通じていることを発見した。
 小さい頃のあかりは、フェンスが乗り越えられなくて、泣いたものだった。
 そのとき、浩之は何故か怒って言った。
 もう、この道は通らない、と。
 わざわざ越えたフェンスをまた乗り越えて戻ってくると、ふてくされた声で、いつまでも泣いてんじゃねーよと言った。
 そのときは、浩之はあかりのことを責めているのだと思っていた。
 でも、浩之のことが段々分かって来るにつれて、それは違うということに気付き出す。
 あかりは知らず微笑んでいた。

 浩之ちゃん、優しかったなぁ。

 今は少し違うけれど。
 それを考えたとき、あかりは目を伏せた。
 いや、あの浩之が変わるはずがない。ずっと優しい人であり続けた浩之なのだ。
 忙しいからすれ違っているだけだ。きっとそうだ。
 あかりは首を振り、また歩き始めた。



 ゲームセンターの前に突っ立っている浩之と、ばったり出会った。
 全くの偶然だった。
 浩之はクレーンゲームをやっているらしい。ガラスの向こうのクレーンの動きを、真剣な目で追っていた。
「浩之ちゃん」
 ボタンを押そうとしていた浩之は、突然声をかけられて慌てた。意図と違うタイミングでボタンを押してしまい、うわ、と小さく叫ぶ。
「おまえなあ」
 空振りしたクレーンに、情けない声を出す浩之だった。
「珍しいね。こんなところで会うなんて」
 にこにことあかり。さっきの飲み会の居づらさに比べると、浩之と一緒の時間の方がずっと心地よい。
「どうした?」
 アルコールのせいで妙に機嫌良さそうなあかりに、浩之はしょうがねぇなと苦笑した。イルミネーションに照らし出された浩之は、くたくたに疲れた顔をしていた。
「いま帰りか?」
「うん。ゼミの飲み会だったの。…浩之ちゃんは?」
「甘太郎」
「…浩之ちゃんも飲み会?」
「バイトだよ」
 浩之はもう一度と百円玉を投入。
「今度は邪魔するんじゃねーぞ」
「うん」
 操作する浩之の後ろに立って、クレーンの動きをじっと見守る。
 何をねらっているのだろう?
 クレーンの動きを追うあかり。
 ケースの中には、動物のぬいぐるみが並んでいた。どうやら浩之は、一番奥にあるうさぎを取りたいらしい。

 くまじゃないんだ。

 あかりは心の中でほんの少し落胆したが、表情には出さなかった。浩之を応援するように、食い入るようにして、クレーンの動きを追いかけた。
「よし」
 浩之の指がぱんとボタンを叩く。
 クレーンがゆっくりと縦方向に動き始め、そのうさぎの上空で止まった。かすかに揺れながら、銀色のツメが下がっていく。



「さっきの惜しかったね」
「あ? ああ」
 結局、うさぎは取れなかった。浩之は、もう一度とコインを取り出しかけてあかりを見、何か思い直したようだった。
 たまには一緒に帰るかと誘われ、あかりは舞い上がりそうになった。
 ジーンズのポケットに手を突っ込み、ぶらぶら歩く浩之。その歩調に遅れないように、あかりは小走り気味についていった。
 こうして二人一緒に帰るのは久しぶりだ。
 何を話そう。ちょっぴりわくわくする。
「ねぇ浩之ちゃん、バイトってどんなことするの?」
「どんなことって…」
 浩之は面白くもなさそうな顔で答えた。
「注文聞いて、料理運んで、客のゲロ拭いて」
「…」
 どうも、浩之の話にはロマンの欠片もない。なんと話をつなげればいいのか困ってしまうあかりだった。
「ねぇ、浩之ちゃん」
「ん?」
「そんなにバイトばかりしてたら、いつか身体壊しちゃうよ」
 それはいつもあかりが気にしていること。浩之は無理しすぎだと思う。授業中見る浩之は居眠りばかりで、本当に授業を聞いているのか分からない。
「確かに前はちょっとキツかったかもな。でも、慣れてきたから大丈夫だと思うぜ?」
「そうなの?」
 心配そうに見つめるあかりに、浩之のやつれた横顔がゆるむ。
「浩之ちゃん、毎日ちゃんと食べてる?」
「ああ」
 生返事。あかりは余計心配になった。
「お弁当作ってあげようか?」
 そう言ってから浩之の表情を窺うような目をするあかりに、浩之はふっと笑みを浮かべた。
「あかり、サンキュな。…でも遠慮しとく」
「で、でも」
 いいって。そう言うように、浩之は軽く手を振った。
 昔よく遊んだ公園の入り口が見えてきた。
 二人の思い出の公園だ。昔はここでよく遊んだ。かくれんぼで置いてけぼりにされたこともある。
 ねぇ浩之ちゃん、と懐かしさに目を細めて言いかけたあかりは、浩之を見てどきっとした。浩之は退屈そうにあくびをしていた。公園に目もくれず、スタスタ前を通り過ぎようとする。
 あかりは漠然とした不安を感じた。

 何か、違う。

 あかりの足取りが遅れ始めた。
 何か…何か見えない壁が浩之との間を仕切っている。以前は足を踏み出せた場所に、敷居が出来ている。

 それは何?

 突然、この前見たスーパーの光景が、目の前に甦った。
 タートルネックのセーターを着たマルチが、買い物かごを両手で持って、浩之の側に立っていた。
 二人は殆ど何も言葉を交わさなかった。マルチは微妙に距離を置き、浩之の後について歩いていく。その姿は、主人に忠実なメイドロボそのものだった。
 マルチ。それは来栖川電工が販売するメイドロボ、HM−12の愛称だ。
 あかりと浩之は、三年前、マルチの試作機と出会った。最終運用試験の一環として、あかりと同じ高校に通うことになったのだ。
 マルチの最終運用試験はほんの二週間ほどだったけれど、楽しいときを過ごしたと思う。まるで小動物を思わせる愛らしさに触れるたび、あかりの心はあたたかなもので満たされた。
 こんな子と一緒に生活したらきっと楽しいだろう。そんな風に思っていた。
 それから二年が過ぎて、街にはマルチの姿があふれるようになった。来栖側電工が満を持して送り出した量産型マルチだった。
 しかし、量産型マルチは、かつての試作機とはかけ離れていた。試作機が持っていた人間らしさは、コストダウンのために徹底的にはぎ取られていた。まるで無表情、無味乾燥、まさに機械そのものだった。
 最初は、スーパーで見かけたマルチも、そうした量産型マルチと同じに見えた。だが、そのうち、何処か違和感を覚え始めた。
 調理コーナーで鮮やかに実演する販売員の手つきを、そのマルチは食い入るように見つめていた。それだけではあきたらず、じゅうじゅう音を立てている鉄板に近づき、熱心に観察を続けていた。
 そのとき、後ろで浩之が声を掛けた。
 マルチは目をぱちくりさせ、慌てた様子で浩之の方へと走っていった。
 浩之のそばに戻ると、マルチは恥ずかしそうに浩之を見上げた。それから表情が消え、先ほどのように、少し距離を置いて付き従った。
 そんなマルチに、浩之は、一瞬だが優しい目をし、それから苦い顔をした。
 二人はそのままレジの方へと去った。
 そのときのことを改めて思い返したあかりは、強い違和感を抱いた。
 熱心に? 恥ずかしそう?
 何とも不自然な立ち振る舞いだった。
 あのマルチは何なのだろう。
 まるで人間みたい。
 そこまで考えて、胸を衝かれるあかり。

 三年前のマルチも、そうだったのではないか? かつて一緒にときを過ごした、あの試作型のマルチも…?

「おい、あかり」
 浩之の呼ぶ声がして、我に返った。いつの間にか、立ち止まって考え込んでいたらしい。浩之がちょっと離れた場所から振り返って、あかりの方を見ている。
「ご、ごめん」
 たったっと走って、浩之に追いつく。
「ったく、トロいのな、お前」
「うん…ちょっと」
 今度はあかりが生返事をしていた。

 そういえば、浩之ちゃん、大きな買い物したからバイトしなきゃいけないって言ってた。
 大きな買い物って、ひょっとして、メイドロボのこと…?
 あのマルチは、浩之ちゃんが買ったもの…?

「なぁ?」
 急に浩之が口を開いた。
「そう言えば、この前、様子がおかしかったけど、何かあったのか?」
 あのレストランのことだ。
 一瞬言葉に詰まるあかりだった。
「な、何でもないよ。ちょっと気分が悪くなっただけ」
 出来るだけさりげなく言うあかり。
 あの日、あかりは浩之の気持ちを確かめたくて、浩之のバイト先を訪ねたのだ。昔からの絆を再確認したかった。
 今思えば大胆な行動に出たものだった。
「そうか」
 浩之はそれ以上追及しなかった。ぼーっと視線を前に漂わせている。
「あの、あのね、浩之ちゃん」
 あかりは浩之の前に回った。
 じっと浩之を見つめる。
「?」
 浩之はいぶかしそうな顔をした。

 私のこと、どう思ってるの?

 本当はあのとき、そう聞きたかった。いや、今だって、そう思ってる。
「どうしたんだよ。変なやつだな」
 何も言えないあかりを見て、浩之は苦笑した。
「ほら、行くぞ」
「…うん」
 また街灯の白い光の下を歩く。
 うつむいたまま、浩之の背中についていく。
 二人の足音が周囲の壁にびたびたと響いていた。
 変わらない二人。変われない二人。
 いつも同じように踊り続ける二人。
 それでも良いと思っていた。
 あかりの心は沈む。

 そう、心変わりに怯え始めるまでは。

「あ、それじゃ、な」
 声がした。
 気が付くと、そこはもう、浩之の家の前だった。門の扉を開けながら、浩之はあかりにバイ!と片手を上げた。
 後ろから押されたような気がした。
「浩之ちゃん!」
 それはあかり自身思いもしなかったような強い声。
 浩之は、ん?という表情であかりを見つめる。
「き、聞きたいことがあるの」
 あかりの胸に刺さって取れない一本の棘。

 浩之ちゃんがマルチを買う。買って、それから…?

 そこから先はあり得ないはずだった。
 量産型マルチはただの機械でしかない。量産型マルチは外見こそ人間らしいけれども、およそ人間とはかけ離れている存在だった。あの、試作型マルチとは全然違うのだ。
 浩之と何かあろう筈はない。何もあろう筈がない。
 あかりの中の理性が強弁する。
 最近のメイドロボは高性能だ。命じればどんな表情だって、そっくりに真似られるだろう。どんな性格だって作れるはずだ。
 この前はじっくり観察する暇がなかったから、人間と間違えてしまっただけだ。ただそれだけのことだ。あれは、あの一瞬見せた人間のような表情は、あかりの見間違いだろう。そうだ、見間違いだ。

 …でも。

 あかりの思いは、突き刺さった棘の尖端に触れてチクリと痛んだ。

 …浩之を見上げるマルチの瞳は、恋する人間のものだった…。

「浩之ちゃん…」
 自分でも、笑顔がこわばってくるのが分かる。
「マルチちゃん、居るの…?」
 あかりは出来るだけ平静を保って言ったつもりだが、声の端の震えは抑えられない。
 一瞬、浩之の動きが止まった。
 あかりを探るような目。
「あ、ああ」
 不自然な態度だった。そのくせ浩之は、
「居るよ。この前、買ったんだ」
 そんなふうに、まるで自動販売機でジュースを買うような調子で言う。
「…そうなんだ」
 あかりは言葉を途切らせた。
 浩之のぎこちなさが痛い。
 とくん、とくん。
 あかりの鼓動が大きくなっていく。動揺がじんわりと広がっていく。
 門柱の光の中で、二人はじっと黙りこくっていた。
「なぁあかり」
 浩之が口を開いた。
 しばらく迷っていたようだったが、ようやく決意したように、
「お前には言ってなかったけどな…。今、マルチと暮らしてる」
 暮らしてる。その言葉を反芻するあかり。その言葉に含まれている意味を呑み込むのに、時間がかかった。
 顔を上げるあかり。
「えっ…?」
「だから」
 浩之は急にイライラした口調になる。
「一緒に暮らしてるんだって。…全部言わせるなよ」
 あかりの心臓が激しく高鳴る。
「えっ? でも」
 ただのメイドロボなんでしょ。そうでしょ、浩之ちゃん。
 そう訊ね返したかった。
 だが口が動かない。
 あかりは瞬きも忘れ、浩之の顔をじっと見つめ続ける。
 浩之はちらっと家の方を見やって言った。
「うちのマルチな、ちょっと事情があるんだけどさ、三年前のあのマルチなんだ」
 三年前のマルチ。人間のようだったマルチ。
 浩之の側から離れなかったマルチ。浩之の腕につかまって、無邪気に笑っていたマルチ。浩之の顔をまぶしそうに見上げていたマルチ。
 そのマルチと、浩之は一つ屋根の下で暮らしているのだ。
「ふぅん、そうなんだ」
 あかりは胸に当てた手を痛いくらい握りしめていた。

 マルチが研究所に戻った次の日、浩之は、マルチはマルチだと言った。
 ロボットとか、人間とか、そう言う以前にマルチはマルチなのだと、半ば独り言のようにあかりに言った。
 それを聞いたとき、まるで浩之から恋の相談を受けたみたいで、あかりは寂しかった。でもそれは、浩之が良く見せる優しさの一つなのだと自分に言い聞かせて、それ以上は考えないで来た。
 マルチは人間ではないのだ。試作機だから、最終運用試験が済めば、この世から存在しなくなる。浩之の優しさは、悲劇のシチュエーションに酔った人間にありがちな気の迷いだと、あのときあかりはそう自分を納得させた。

 そのマルチが、いつの間にか浩之の隣にいる。

 これ以上聞かずに帰れば、辛い思いをせずに済む。
 あかりの足は、帰りたいとわななき始めた。
 じゃあね、浩之ちゃん。
 あかりはそう言うつもりだった。
 しかし、口から出たのは、全く反対の言葉。
「彼女のこと、好き…なの?」
 あかりは、言ってから、しまったと口を押さえた。

 …遅かった。

 あかりには分かっている。
 問うまでもない質問をしてしまうのは、あかり自身が浩之を好きだから。
 残酷な答えが返ってくると知っていても、そう聞かざるを得ないのは、最後まで恋の奇蹟を信じていたいから。
 何もかも失うと分かってていも、それでも確めたいのは、浩之といつか結ばれることを夢見ているから。
 あかりは浩之の視線が自分に触れるのを感じた。
 痛々しいものを見るような視線だった。

 あかりの中の鼓動が静かに引いていく。
 何かが死を迎えたように。

 浩之は、間を置いた後、ゆっくりとあかりの問いを肯定した。
「ああ、愛してる」


   *****


「どうしてなの? ねぇどうしてなの、浩之ちゃん!」
 家の中に入ろうとする浩之の背中を追い、あかりも玄関に踏み込んでいた。
 半狂乱だった。
 浩之は照れ屋で、「好きだ」とか「愛してる」といった類のせりふを言える人間ではなかった。それだけに、マルチに対してさらりとそれを言えてしまう浩之が、あかりには信じられなかった。
「浩之ちゃん!」
 たまりかねたのか、浩之がいきなり振り返った。
 うっとおしい、もうつきまとうな。
 怒らせた肩に、そんな浩之の気持ちが表れているかのようだった。
 中学時代、徹底的に嫌われ、避けられ続けた辛い時期が、あかりの脳裏に甦る。

 これ以上言ったら嫌われちゃう。

 あかりは本能的な恐怖に立ち竦みそうになる。

 でも、浩之ちゃんを取られたくないっ!

「変だよ…!」
 もう、自分を抑えることが出来なかった。
「あの子、メイドロボなんだよ!? そんなことするの、変だよ、おかしいよっ!」
 叫んでしまってから、その言葉を死ぬほど悔やんだ。
 心がざくっと刺し通されたかのように激しく痛んだ。
 自分の言った言葉に、他ならぬあかり自身が深く傷ついていた。自分の卑しさが惨めで、情けなくて、涙が出てくる。
 マルチを悪く言ってしまった。ただロボットだからと言うだけで、差別してしまった。
 何てみっともない、何てひどい言い方だろう。自分は何て冷たい人間なんだろう。
 涙が止まらない。おかしいほど溢れ出ては頬を伝い、ぱたぱたと玄関のタイルを濡らす。
「…お前、もう帰れ」
 浩之の抑制の利いた声が響く。今まで聞いたことのない声だった。

 浩之ちゃん、本当に怒ってる。

 あかりは慌てて顔を上げた。
「ご、ごめ…ひろゆきちゃ」
「帰れッ!!」
 殆ど罵声だった。
 あかりは頬を張られたように、びくっと身体を震わせた。
 放心して浩之を見つめる。
「浩之ちゃん…」
「…」
 浩之は腕組みして、あかりを睨み付けていた。其処にいるのは、幼なじみの浩之ではなかった。あかりの知らない誰かだった。
 あかりの目に怯えた色が浮かんだのを見たのだろうか、浩之はふっと視線を逸らし、呟くように言った。
「悪ぃな…怒鳴っちまって。…今日は帰ってくれ…」
 目を落とすあかり。嗚咽が漏れそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。ごしごしと涙を拭う。
「ごめんね…。今日は…本当に」
 しゃくり上げそうになり、天井を向いて耐える。白熱灯の穏やかなオレンジ色がぼやけて見えた。
 やっとのことで、微笑みを作った。
「あのね…私、浩之ちゃんのこと好きなの。だから…だから」
 ようやく言えた「好き」という言葉。なのに、今は言い訳のようにしか聞こえない。
 それが哀しかった。
 あかりの告白を聞いても、浩之は視線を逸らしたままだった。

 何か言って、浩之ちゃん。お願い。一言でもいいから…。

 祈るような気持ちで、あかりは浩之が口を開いてくれるのを待った。
 だが、浩之は顔を背けたまま、無言のままで居る。

 ああ…。
 浩之ちゃん、私の手の届かないところに行っちゃったんだ。

 その思いはあかりを打ちのめす。
 心の深いところから、新しい涙が込み上げてくる。
「浩之ちゃん…本当にごめんね…」
 もうこれ以上、泣き顔を見せたくなかった。精一杯、いつもの笑顔になろうとした。
 またね、浩之ちゃん。また明日、大学で会おうね。
 一緒の授業、楽しみにしてるから。
 心の中に、そんな言葉が流れては消える。
 私の大好きな…浩之ちゃん。
「お休み、浩之ちゃん…」
 最後は涙声だった。
 弾かれたように玄関を飛び出た。門の辺りで嗚咽が止まらなくなる。
 あかりは胸の中で荒れ狂う悲しみを必死でこらえ、街灯の煌々と灯る夜道を走った。
 そして、自分の部屋に駆け込むと、ベッドに身を投げ出し、顔を思い切り布団に押し当てて大声で泣きじゃくった。


   *****


 あかりを追い返した浩之は、少し後悔していた。
 あかりはまっとうなことを言ったに過ぎないのだ。メイドロボを愛するなんて、確かに、確かに、世間一般から『外れてる』。
「仕方ねーよ…好きなもんは好きなんだから…」
 言い訳がましく一人呟く浩之。
 そのとき、背後でことっと物音がした。
 振り返る浩之。誰も居ない。
 浩之は眉をひそめた。
「…」
 靴を脱ぎ、足音を忍ばせ、音のした場所に近づく。
「こらっ」
 其処にいたのはマルチだった。階段の陰に、張り付くようにして立っていた。
「あっ、あの、そのっ」
 浩之に見つかると、マルチはおたおた手を振り回した。
 動揺した口調で、
「お、お帰りなさい、浩之さん」
 浩之はじーっとマルチを見おろした。
「盗み聞きしていたんだな?」
 浩之の辛辣な問いに、
「…は、はい」
 しゅんとうなだれるマルチ。
 浩之はふぅと溜息をついた。それから笑顔を作る。
「マルチはなーんも心配することねーからな。余計なこと、考えるんじゃねーぞ」
 そういって頭を撫でようとする浩之の手を、そっと押しとどめるマルチ。
「あの、あかりさんの言うこと、間違っていないと思います」
「マルチ?」
 マルチは顔を上げた。ひどく悲しそうな表情をしていた。
「やっぱり変です。ロボットの私と暮らすなんて、浩之さんの人生、滅茶苦茶になっちゃいます。それを考えると、私は…」
「マルチ!」
 それ以上言うな。
 浩之は荒々しくマルチの口を塞いだ。
 ほんの少し抗ったマルチだったが、すぐにとろんと目を潤ませ、浩之の舌の愛撫に、なすがままに身を委ねる。
 唇同士が離れた後も、二人は息を弾ませ、互いを見つめ合っていた。
 マルチの小さな身体を抱きしめてやる浩之。
 最初、宙を彷徨っていたマルチの手が、ためらい勝ちに浩之の大きな背中に回された。
 目をつむるマルチ。
 込み上げる想いに突き動かされるように、浩之の胸にぎゅっと顔を埋めた。
 そして浩之に強く抱きつく。
 玄関のガラス戸に映る二つの影が、固く一つに重なり合った。

 しばらくそうして抱き合っていた。

 どれくらい時間が経っただろう?
 すっ、とマルチの手が浩之の頬に触れた。
「浩之さん」
 マルチは静かに浩之を呼ぶ。
「ん?」
 優しく聞き返す浩之。マルチははにかんでいた。
「あの、お風呂になさいますか? お食事になさいますか?」
 何を言うのかと思ったら、と浩之は苦笑した。
「あっ」
 突然浩之に抱き上げられ、驚くマルチ。
「なぁ?」
 浩之はマルチの耳元でささやく。
「『お前』って選択肢はねーの?」
 それを聞いたマルチの顔は本当に真っ赤になり、恥じらうように両手で顔を隠した。


【続く】

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グラノフカ設計局 (GRNVKA OKB)

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