LostWaltz

 

第3話

 

Ver.1.01

 

制作: GRNVKA

 

 

 

 その日の東京は薄曇りで、秋らしい涼しい一日だった。
 窓のカーテンが時折ふわっと膨らんだかと思うと、風が流れ込んでくる。
 風の指に撫でられて、白いレースがかすかに揺れた。
 先ほどから横に立ち、あかりの髪を直していた女性スタイリストが、ようやく仕事を終えた。うつむきがちなあかりの肩を押して、はい出来ましたよ、と声をかける。
 促されるまま、鏡に映る自分の姿を眺めるあかり。スタイリストが、お綺麗ですよ、と誉めてくれても、その瞳には何の感慨も湧いていない。それどころかすぐ目を伏せてしまった。
 スタイリストは拍子抜けした様子だった。
 最初、髪を黄色いリボンで留めたあかりがおずおずと現れたとき、ちょっと地味な感じの子だなと思った。けれど、実際に手を掛けてみれば、そんなことは無い。鏡の中のあかりは、まるで別人のような美しい姿に変身していた。
 もっと喜ぶなり何なりすればいいのに。
 自分でも結構気に入った出来映えだけに、スタイリストは、あかりの憂鬱そうな顔に変化がないのを見て、残念そうにした。が、すぐに、これもよくあることだと思い直す。
 今は、誰にとっても、色々と大変な時期なのだ。
 それでは失礼します、と一礼して立ち去るスタイリストを、鏡越しに見送るあかりだった。
 あかりは、自分の姿のことなど上の空だった。

 本当に、これでいいのだろうか。

 さっきからずっと、そのことを考えていた。
 他人の手前、抑えていた震えが、息を吹き返した。納得しているはずなのに、駄目だった。迷いが心の奥底からどんどん湧き出てくるのを感じた。
 開け放たれた窓から、ピピィとホイッスルが響いてくる。
 そして、それに絡んで、オーライ、オーライの叫び声。来客の車を、係員が、地下駐車場に誘導しているのだ。さっきから、それは途切れることなく続いている。
 それを聞いていると、次第に追いつめられた気分になっていくあかりだった。



「あかり、居る?」
 ドアの向こうで、あかりを呼ぶ声がした。
 その声には聞き覚えがある。振り返るのと、ドアが開くのとは同時だった。
 そこには一年ぶりの懐かしい顔があった。
「やっほーっ! あかり、おひさしぶりっ!」
 志保だった。
 長岡志保。あかりの親友だった女の子だ。中学と高校を共に過ごし、浩之や雅史といつも一緒に遊んでいた仲間。大学に進学したものの、すぐ『性に合わない』と中退してしまった。今は、黒田涼子という著名なフォトジャーナリストの、住み込みアシスタントになっている。
「えっ!?」
 思わず驚きの声を上げるあかり。
 予想し得ぬ人物の登場に、憂鬱は何処かに吹き飛んでしまった。
「志保、スペインにいたんじゃ?!」
「うん、まぁね」
 どーってことないよという感じで志保は笑う。
 志保からは時々エアメールが届く。移動先から書いているせいか、手紙のたびに消印の地名は違っていて、最後の消印は、バスクからになっていた。
 最後の手紙が届いたのは、半年ほど前だった。
 いま、スペイン取材で大変なのヨ、私の活躍は私のホームページを見てネ、と書いてあり、『志保ちゃんニュースホームページ』と銘打ったアドレスが書き添えられていた。
 あかりは、志保らしい手紙の結びを思い出していた。

 日本食食べたい。餡かけうどん食べたい。パスタもパンももーうんざり。哀れな志保ちゃんに愛の差し入れよろしく。
P.S.
 あかり、あんたメイルアドレスくらい持ちなさいよ。世の中、インターネットで動いてるんだから、メイルくらい使えないと取り残されるわよ。こっちは外国なんだから、手紙は不便でしょうが無いったら…ま、そんな感じなんで、バイバイあかり☆

 メイルを使えないわけではないのだが、あかりが持っているのは大学のアドレスだけ。学業以外には使わないようにと教務課から言われているため、志保には教えずにいたのだ。
 周囲の学生たちはそんなことお構いなしにメイルをやり取りしていたが、あかりはきまじめに言いつけを守っていた。志保がそれを知ったら、相変わらず真面目なんだからと言うだろうが。
 それにしても、志保の字は相変わらずだった。
 流暢な丸文字なのだ。ひらがなが、ドリルのように、くるるんくるるん渦を巻いていた。
 前に一度、字体を社会人ぽくしたらと忠告したことがあるけれど、志保は鼻で笑って、ばっかねぇ、丸文字ってのは英語の筆記体みたいなモンなのよと、訳の分からないことを言ってあかりを煙に巻いたものだった。
 まぁそれはいい。志保の肉筆のことなど、今はどうでもいいのだ。それよりあかりは、さっきから気になっていることを訊ねた。
「ね、志保、お仕事は? 黒田先生って厳しい方なんだよね?」
 黒田涼子は、新聞記者出身の女流フォトジャーナリストだ。人間の情感溢れる写真を撮ることで有名な写真家だった。黒田の写真展に行った志保は、その写真技術にぞっこん惚れ込んでしまい、黒田に弟子入りを果たすべく、猛烈なアタックを開始した。
 弟子はとらないと言い続ける黒田を、志保は三顧の礼ならぬ百顧の礼で頼み込み、無理矢理弟子にして貰ったのだった。
 それほど大変だった弟子入りを、つまらないことでフイにしてはコトだ。
 あかりの心配げな様子に、おや、と志保は目を大きくする。あかりの思いやりを察してにっこり。
「気にしない、気にしない。姐さ…いや、先生にはちゃーんとお許し貰ってるからさ」
 その点抜かりなし、と胸を張る志保である。それを見ると、何か小細工をしたのではと、あかりはとても不安になる。
「志保…」
「ストップ! その前に言わせてよ」
 志保はあかりの言葉を遮った。それから、あかりに歩み寄ると、あかりの手袋に包まれた手に自分の手をしっかりと重ねた。
「あかり」
 志保らしからぬ改まった口調。でも目はいたずらっぽく笑っている。
「結婚、おめでとう」

 結婚おめでとう。

 志保のその言葉がずんとあかりの心に響く。
 おめでとう…か。
 苦いものがあかりの心の奥に広がった。
「この前、雅史から聞いたときはびっくりしたわ。いやホント」
 あかりの気持ちも知らず、志保はうんうんと一人頷く。
「出来ちゃった婚なんだって? 奥手のあかりにしては上出来よね!」
 ヴェールの陰で頬を赤らめるあかり。
 下を向いて、お腹にそっと手を当てていた。まだ大きくなってはいないけれど、新しい生命が着実に育っている筈だった。
 そんなあかりの仕草を、志保は優しく見つめた。
「ね、あかり」
「えっ…?」
「綺麗よ。本当に綺麗。なんだか別人みたい」
 志保に押されるようにして鏡の前に立つ。
「ほら…」
 耳元で志保のささやく声。
 あかりは遠慮勝ちに目を上げ、そこでようやく自分の姿を真正面から見た。純白のウェディングドレスをまとった見知らぬ女性が、そこに立っていた。
 志保が肩越しにうなずく。
 あかり、素敵よ。
 まるでそんな風に言ってるみたいだった。
 あれが私?
 普段とは余りにかけ離れた姿に、現実感が湧かない。
 あかりは戸惑った。
 本当ならここで幸せを感じるところなのだろうが…。
 ぼんやりしたままのあかりに、やれやれと苦笑いを浮かべる志保。何か思い出したようにポンと手を打つと、あかりの背後から離れた。
 部屋の隅で、がさごそとバッグをあさる音がする。
 何だろう、とあかりがそちらを向きかけたとき、

 ぱしゃっ!

 乾いた響きが走った。
 志保がカメラを構えていた。カメラマンが使っている、業務用途のカメラだ。あかりを捉えたレンズが、きゅっと動くのが見えた。
「あかり、笑ってよ」
「恥ずかしいよ」
 あかりはどぎまぎして手を振った。
「いいから、いいから」
 ぱしゃ、ぱしゃっ!
 志保はあかりの姿を丹念にデータフィルムに収めていく。



 志保はどうしても撮っておきたかったのだ。
 あかりには内証にしていたが、志保が黒田のところに弟子入りできたのは、あかりのおかげだった。あかりの結婚式に出たいと言ったとき、黒田は、仕方ないねぇ、と寛容な態度で一時帰国を許してくれた。
 多分黒田は『続き』に興味が湧いたのだろう。結婚式に出るのはいいけど、お前の本分を忘れるんじゃないよと念を押した。
 押しの強い志保をもってしても、黒田の説得は難しかった。相手が志保の近所(と言っても電車で一駅離れていたのだが)に住んでいなければ、多分途中で諦めていただろう。
 日参する志保に黒田が根負けして、撮った写真を持ってきな、それで技量を見極めてやるわ、と言ったとき、志保はこれがギリギリ引き出せる譲歩だろうと踏んだ。それで選りすぐりの写真を数百枚、黒田に見せたのだが、黒田は一瞥して、「駄目だねぇ」と全部切り捨てた。
 他にないのかと言われ、しぶしぶ志保が出したのが、デジカメ用のメモリスティックカードだった。
 志保は日常の写真を撮るのが好きだった。取り回しのいいデジタルカメラを使って、友達や学校の風景を撮っていた。ただ、志保の使っていたのは一万円も出せば買える百五十万画素タイプの安物で、プロカメラマンが使っているような斜光式CCD搭載の数千万画素タイプとは、画質に於いて、雲泥の差があった。
 こんなものを見ても評価して貰えないだろう。志保はその時点で殆ど諦めていた。
 黒田は志保を家に上げ、書斎のパソコンで、そのメモリスティックカードを開いた。内容は志保が見てもあくびが出るようなつまらないものだったが、黒田は不思議なことにニマニマ笑いだした。
 このババァ、からかってんのかな。
 殺意に似た思いを抱き始めた頃、急に黒田のマウスを操作する腕が止まった。
 これはなんだい? そう訊ねた黒田に、パソコンの画面を見た志保はどきっとした。高校の修学旅行で北海道に行ったときの写真だった。
 そこにはあかりと浩之が写っていた。



「志保…もういいよ…」
 志保のしつこい撮影に弱音を漏らすあかりだったが、志保は全く気にしない。
「遠慮しないでよ。撮って減るもんじゃないでしょ?」
「それはそうだけど」
「もーちょっとだけ上向いてみて。うん、そう、そんな感じ」
 嫌がりながらも、つい志保の注文に応じてしまうあかり。
 ぱしゃっ、ぱしゃっ。
「あかり?」
 ぱしゃっ。
 志保はカメラから顔を離さず言った。
「想いが叶って、本当に良かったね。あの甲斐性なしが相手ってのが、ちょっと心配だけど、サ」
 シャッターを切り続ける志保にそんな風に言われ、あかりは複雑な表情を浮かべる。

 本当に想いは叶ったのだろうか?

 これから浩之との結婚式を迎えることを考えたとき、親友と居る安堵感からか、急に涙が込み上げてきた。
「ううっ…」
 喉奥から涙声が漏れる。
 そんなあかりに苦笑する志保。カメラを降ろし、腰に手を当てると、呆れたように言う。
「なによぅ、マリッジ・ブルーなの? どうしたどうした、あかり。もうすぐ結婚式なんだよ?」
「うん…」
「だったら。花嫁が悲しい顔しちゃ駄目じゃない。悩み事なら、この志保ちゃんが何でも解決してあげるからさっ」
「志保、ありがと…」
 鼻をすするあかり。
 志保はあかりの肩口を掴んで揺すった。
「ホントどうしたのよ。しっかりしなさいよ」
「…」
「…もう!」
 志保はやれやれと溜息をつく。
 あかりの間近に志保の顔がある。愛嬌たっぷりにウィンクして見せる様は、高校のとき笑い合っていた志保そのままだった。
「こら、あかり。あんた、私の分まで幸せになんなきゃ駄目だよ。そうでなきゃ」
 そう言う志保の目に何か複雑なものが過ぎったのは気のせいだろうか。
 めそめそするあかりに、志保は、参ったと言いたげに頭に手をやった。
 急に声を大きくした。
「ったく、なんなのよ! 甘えん坊あかり! グズグズ悩んでないで、さっさと結婚して幸せになんなさい? あの甲斐性なしの鈍感のせいで今まで報われなかった分、いっぱいいっぱい、いい目見なきゃ! ほら、しゃんとして! …ね?」
「うんっ…」
「よしよし!」
 志保の心地よい香水を感じる。目の前の志保の身体に思わず抱きつこうとしたあかりだったが、その途端、志保がぎゃあと悲鳴を上げた。
「えっ? な、何? 踏んだ?」
「違う違う! カ、カメラ!」
 志保は、あかりから守るように、カメラを宙に高く掲げていた。
「ごめん…」
 しょげるあかりだった。

 そのとき、不意にノックの音がした。

「あかり、入るぞ?」
 浩之の声だ。
 あかりの身体がびくんと緊張した。何処か不安げな、ためらう表情に変わったあかりに、志保の目が怪訝そうに細められる。
「あかり、どうしたの?」
「なんでもないよ…」
「…そぉ?」
 あかりの肩に置かれた志保の手に、心なしか力がこもった。
 ドアを開けて正装した浩之が入ってきた。

 浩之ちゃん、やっぱり、かっこいい。

 凛々しさを漂わせた浩之の姿に、あかりはほんのひととき見惚れた。
 出来れば、こんな形で結ばれたくはなかった。このドレスみたいに真っ白な気持ちで、浩之の側に立ちたかった。
 あかりの瞳に悲しみが溢れる。
「ちょっとヒロ」
 志保がいきなり剣呑な声を出す。
「あっ、お前、志保じゃねーか。久しぶりだなー」
 何とものんびりした言い方。高校時代の一シーンを切り取ったような声だった。
「久しぶりだなーじゃないわよ。あんた、こっち来なさいよっ」
 志保は浩之の腕を取ると、ずんずん部屋の隅っこに連れていった。ひそひそとささやく。
「さっきからあかりの様子がおかしいのよ。…あんた、まさか、あかりを虐待してるんじゃないでしょうねっ!?」
「虐待、だぁ?」
 浩之はむっとした表情になった。
「何を根拠に」
「私だってこんなこと言いたかないわよ」
「…」
 浩之はちらっとあかりの方に視線を遣った。あかりはうつむいたままで、浩之の方をまともに見ようとしない。
 浩之はため息を付いた。
「志保、席を外してくれないか? あかりと話したいことがあるんだ」
「何よそれっ」
「色々打ち合わせがあるんだよ。…お前、お節介も『たまには』いいけどな、夫婦の間にクチバシ突っ込むな。そういうことばっかりやってると、しまいには誰からも声がかからなくなるぞ」
「ぐっ…」
 志保は二の句が継げず、悔しそうな顔をすると、ぷいと外に出ていった。


   *****


 ぱたっ、ぱたたっ。

 その音で目が覚めた。
 目を開けると天井が見えた。
 風邪薬が残っているせいか、何となく気だるかった。意識もぼんやりとしている。
 今、何時だろう?
 あかりは首だけ少し動かし、時計を見た。窓際に置かれたそれは静かに時を刻んでいる。
 二つの針が作る形を、瞬きもせず見つめ続けるあかり。
 ガラスに収められた振り子が機械的に振れる向こうには、どんより垂れ込めた空が広がっていた。窓ガラスには雨の筋が幾つも斜めに走っていた。大粒の雨がベランダの鉄柵に当たって、大きな音を立てるのが聞こえた。
 ぱたん、ぱたたん、ぱたたん。
 思考がはっきりにして来るにつれ、記憶もまた甦ってきた。

 辛かった。

 この前の出来事を考えただけで、また涙がこぼれ落ちそうになった。布団に顔を埋める。
 尽きぬ後悔。とめどなく流れる涙。
 この一週間、ずっとそんな調子で泣き暮らしていた。

 思えばあの一夜が運命の分岐点だった。

 浩之と共に過ごしたあの一夜の後、浩之のことは諦めたつもりでいた。それに、関係を持ってしまったために、もはや昔のように純粋な気持ちで浩之と向かい合うことは出来なかった。妙な気まずさが先に立って、昔のように気安く話を交わせなくなってしまったのだ。
 その辺りの気持ちは浩之も同じだったらしい。二人は何となしに互いを避けるようになっていた。教室では離れた場所に座り、講義が終わるとそそくさ教室から離れるのが常だった。
 以前のあかりならそうした状況を悲しいと思っただろうが、正直、今はそちらの方が気が休まった。
 夏休みが始まるまでの辛抱だ。夏休みを迎えれば、ちょうどいい冷却期間になる。
 その先には、避けるばかりの関係から脱却できるかも知れない。
 そう自分に言い聞かせていたあかりだったのだが…。



 それは夏休みが始まって間もないある日のことだった。あかりは、母親に言われ、夕食の料理を手伝っていた。
 菜箸を使って、こんがり焼けたフライを油切りの上に載せる。
 油の匂いがいつになくきつい。あかりはめまいがしそうだった。それに、さっきから喉元に違和感を覚える。
「ふぅ」
 そう言って何度も手の甲で額を拭うあかりに、母親はおやという目をした。
 背後ではプロ野球の中継放送がうるさく響いていた。大の巨人ファンである父親は、TVの音量を大きくして観戦するのが好きだった。だがその日はいつになく大きく聞こえた。耳ががんがんする。
 突然鳩尾がきゅうっと身体の内側に吸い込まれるような感覚を覚えたかと思うと、吐き気が込み上げてきた。
 菜箸を投げ捨てるように置いて、あかりは洗面所に駆け込んだ。
 暗い洗面所で何度も吐いた。

 来るべきものが来た。

 吐きながらそう思った。この三ヶ月の間、ずっと考えまいとしていたことが、現実になろうとしていた。
 これからのことを考えると恐ろしかった。
 ようやく顔を上げたとき、あかりは金縛りにあったように動けなくなった。
 鏡に母親が映っていた。
 表情は逆光でよく見えなかった。ただ、目だけが白く光っていた。
 恐る恐る首だけねじ曲げ、後ろを見る。
「悪いものでも食べちゃったのかな…」
 作り笑いを浮かべ、空々しい言い訳を口にする。
 母親は何も言わなかった。そっとあかりに歩み寄ると、あかりの背に触れた。
「大丈夫?」
 優しい声だった。
 ばれている。あかりは悟った。母親は何もかも見通しているのだ。
 また吐き気が込み上げてきた。
 激しく上下するあかりの身体を、母親は何も言わずさすり続ける。
「おい、どうした」
 居間の方から父親の声がした。心配そうだった。
「ええ、何でもないですから」
 母親の言葉は少しうわずっていた。
「そうか」
 父親はそれ以上追及しなかった。野球観戦に戻ったのだろう。アナウンサーの絶叫が巨人の攻勢を伝えていた。
 何度かの嘔吐の後、あかりは洗面台から身体を起こした。吐き気は収まったが、その代わりに、胸は重苦しいもので満たされていた。
 母親の横をすり抜けて洗面所を出ていこうとしたとき、母親が呼び止めた。
「あかり」
 その声は厳しかった。
「相手は誰なの?」



 その後のことは思い出したくもない。
 産婦人科に連れて行かれ、検査を受けさせられた。
 やはり妊娠していた。
 母親は相手について執拗に問い質したが、あかりはかたくなに沈黙するばかりだった。攻めあぐねた母親は、何を思ったか、浩之の名を挙げた。
 そのときのあかりの反応で、母親は全てを察したらしい。
 一度、向こうの家に相談に行きましょう、と提案する母親に、あかりは気が狂ったように反対した。これは浩之とは関係ない、浩之には言わないでと、あかりは縋り付かんばかりに頼んだ。
 いつもは温厚な母親が怒りだした。
 妊娠させられて、それでも何も言わず身を退こうとするのが信じられないらしく、高い声で叱ったり、おろおろと涙声になったり、ひどく取り乱した。
 唐突に普段無口な父親が口を開き、子供を堕ろすかと尋ねた。その言葉にあかりはショックを受けた。
 浩之の子供を殺せ。そう言われたのと同じだったからだ。
 動転したあかりが、子供は堕ろしたくない、自分一人で育てていく、と父親に哀願するのを聞いて、母親は、物凄い剣幕で、とんでもないと切り捨てた。
 未婚の母なんて少女的ロマンティシズムはいい加減捨てなさい、子供には父親が必要なのよ、とあかりの母親は主張した。
 結婚なんて考えてない、と言いかけたあかりの言葉を、母親は無視。むしろ結婚という単語を聞いた途端、あかりの母親は俄然元気付いた。
 あかりだって浩之ちゃんと一緒になりたいんでしょ? そう言い出した母親に、あかりは真っ青になった。
 そこで父親がまた口を挟んだために、話はややこしくなった。
 子供が出来たからっていきなり結婚はないだろう。やや口が滑った観もあるその物言いに、母親が猛然と噛み付いたのだ。
 娘を孕ませた相手に荷担するなんてどういうつもりなんですか、と。
 その夜、あかりの両親は遅くまで言い争っていた。朝食の席でも二人はむっとした表情のままだったので、結局意見はまとまらなかったのだろう。
 殆ど言葉の交わされない朝食の後、早々に浩之の家に直談判に赴いた母親は、浩之にあかりの妊娠のことを告げ、これからどうするつもりなのかと強く迫った。
 浩之は即答しなかった。考えさせて下さいと深々頭を下げて謝っただけだった。
 浩之自身の気持ちをじかに確かめたかった母親は、それが不満だったらしい。だが浩之をそれ以上責めるわけにもいかず、戦いは以降に持ち越された。

 次の日、浩之の両親が浩之を伴ってやってきた。
 浩之の両親があかりの両親に何度も頭を下げるのを見ていると、あかりは罪悪感で身の置き場が無くなったように感じ、終始泣き通しだった。
 ところが、その泣き声は、他の者には別の印象を与えていた。特にあかりの母親はそれでますます闘志をかき立てられたようだった。
 異様な空気の中、なにぶんにも子供のしでかしたことで、とおずおず言いかけた浩之の父親の言葉を遮るように、あかりの母親が切り出した。二人とももう大人なのだし、気は早いかも知れないけど、この際どうでしょうねぇ、と。
 それを聞いたとき、浩之の両親はひどく動揺した様子だった。
 どうする、というように互いの顔を見合わせ、戸惑いを隠そうともしない。それを見れば彼らが結婚を想定していないことは明らかだった。
 浩之の父親は、ふてくされたように口を閉ざす息子を肩越しに見つめた。あかりの両親の方に向き直ったとき、彼の顔には、拭いようのない不安の色が浮かんでいた。突然、申し訳ありませんと頭を下げる浩之の父親。そのすぐ後に浩之の母親も続いた。
 机に額をすりつける彼らに、今まで沈黙していたあかりの父親が一言、申し訳ありませんとは一体どういう意味なのですか、とむっとした口調で問い質した。
 最近は往来がないとは言え、両家はそれなりに関係の深い間柄だ。その付き合いを考慮すれば、早急に事を進める必要は何処にもないじゃないか、というのがあかりの父親の意見だった。
 このときも、父親は父親なりに別の目算があり、母親とは違った落としどころを考えていたのだろうが、相手が逃げることしか考えていないのを見て、さすがに機嫌を損ねたのだ。
 場の雰囲気が険悪になりかけたそのときだった。

『責任をとらせて下さい』

 それまで両親に任せきりだった浩之が突然言った。
 確かにそう言ったのだ。

 あかりは思う。浩之をだましてしまったのではないかと。
 実際、限りなくそれに近い形を取ってしまった。一夜だけの約束が、浩之の一生を縛り付けようとしているのだ。
 あれ以来、余りに気まずくて、あかりは浩之とまともに話をする勇気がなかった。自分のせいで浩之が今も傷つき続けているのかと思うと、悲しくて仕方がない。
 恐らく、浩之は、窮地に陥った両親の体面を守ろうとして、結婚すると言い出したのだ。心の何処かでは、自分を厄介ごとに巻き込んだあかりを憎んでいるだろう。いや絶対憎んでいる。結婚をたてに、マルチとの生活に無理矢理割り込んで邪魔しようとしているのだから、それは当然というものだろう。
 未だに浩之を愛しているあかりにとって、浩之から憎まれているという想像は辛すぎた。
 かといって、子供を堕ろして何も無かったことにするのは、絶対に嫌だった。予期せぬ妊娠とはいえ、あかりの中に芽生えたいのちは、あかりにとって、何ものにも代え難い、大切な存在だった。たとえ浩之に堕ろせと言われても、あかりは拒絶するだろう。堕ろせる訳がない。この子は、あかりのこれからを支える、浩之との思い出の結晶なのだ。

 こんなはずじゃなかった。

 浩之に追い返された夜のことを思い出しては悔やむあかりだった。あのとき、マルチのことなど浩之に問いつめず、まっすぐ家に帰っていれば、お互いこれほど手ひどく傷つかずに済んだのだ。
 あかりはまくらに顔を埋めた。

 わたし、バカだ…。

 そのとき、階下で玄関が開く音がした。
 母親の声がする。少し華やいだ声。来客だろうか。
 あかりはぼんやりそれに耳を傾けていた。
 ややしたのち、足音が二つ、上がってくる。
 とんとん。
 部屋のドアが静かに叩かれた。
「あかり? 浩之ちゃんが来てくれたわよ」
 浩之ちゃん?
 浩之の名を聞いたとき、あかりは飛び上がりそうになった。動悸が急に高鳴った。
 浩之と顔を合わせる勇気は、ひとかけらすら持ち合わせていなかった。特にこんな不意打ちに近い状況では。
 寝たフリをしよう。
 そう思い、布団に深く潜り込もうとしたそのとき、ドアが開いた。
「何、起きてたの? だったら返事なさい」
 母親の軽く咎める声。布団が動いたのを見られてしまったらしい。
 あかりはのろのろと布団から顔を出した。
 浩之が母親の後ろに立っていた。あかりと視線が合うと、よっ、と言うように片手を挙げた。その何気ない仕草にさえあかりは怯えた。
 浩之と母親が何か小声で話している。それが終わると母親はにっこりし、じゃ、あとでね、と言い残して階下に降りていった。

 行かないで、おかあさん。

 母親の階段を踏む音を聞きながら、あかりは布団の中で縮み上がっていた。

 浩之ちゃんと二人きりにしないで。

 あかりは浩之の一挙一動に耳をそばだてる。かちんかちんに固まり、布団の上から視線を上げることすら出来なかった。
 浩之は無言のまま。あかりに声を掛けることもなく、部屋を歩き回る。
 窓際で浩之の足音は途切れた。写真立てを見つけたようだった。そこには浩之と志保、雅史が仲良く並んで写っていた。
 ことっ。写真立てが置かれる音。
「あかり」
 浩之の声が響いたとき、弾かれたようにあかりは叫んでいた。
「浩之ちゃんごめんなさい、私のせいでこんなことにっ!」
「お、おい…」
「本当にごめんなさいっ」
 その場で土下座したい気分だった。いや実際にそうしようとベッドを降りかけたあかりを、浩之は押し戻した。
「待て待て、人の話をちゃんと聞けよ」
「でっ、でもっ」
「あかり、お前、何か勘違いしてねーか?」
 え? あかりはそのときはじめて浩之の顔をまじまじと見つめた。
 浩之は怒っていなかった。以前と同じ、飄々とした顔だった。
 あかりを見て、苦笑すらしている。
「え? ええ?」
 あかりは混乱した。

 どういうこと? 浩之ちゃん、私のこと憎んでいたんじゃ…。

 あかりの戸惑いは浩之にも伝わったらしい。
 浩之は頭をかいた。目を天井のほうにそらした。
「あのさ」
 ああ。やっぱり来た。
 あかりは心の中で嘆息した。
 それは、言いにくいことを口にするときの浩之の癖だ。
 何か言われる。絶対言われる。あかりの中で恐怖が高まっていく。
 『お前のせいで人生台無しだ』とか言われたらどうしよう。それでもって『このストーカー女め、小さい頃からずっとつけ回してきやがって。俺を捕まえられて満足か、ええっ』とか怒鳴られたらどうしよう。

「あのさ、お前、マルチのこと、好き?」

 それが余りに唐突な質問だったので、あかりは耳を疑った。言葉を失ってしまう。
 浩之は重ねて言った。
「だから、マルチが好きか?」
「え?」
 聞き返すのがやっと。
 頭の中が軽くパニックになっている。
「おい、聞いてるか?」
「う、うん」
「どっちなんだ?」
 あかりは真っ白になった頭の片隅で一生懸命考える。
 好きか、嫌いか。
 マルチは浩之を奪った。だから嫌い…?
 ちょっと違うような気がする。
 好き?
 あのマルチを?
 嫌いじゃないけれど、好きと言うほど好きじゃない。
 だって普通、恋敵を好きとは言わない。
「き、嫌いじゃないよ…?」
 無難に答えたつもりのあかり。まだ言葉の何処かにおどおどした調子が残っていた。
「あ、そう。ふぅん、そうか。うん、うん」
 浩之は上の空で頷く。
 しばらく考える様子で沈黙した後、また聞いた。
「なぁ? お前、結婚する気ある?」
「え?」
 どういう意味なんだろう。
 あかりには浩之の意図が理解できない。
 また想像が頭をもたげる。
 ひょっとして、浩之ちゃん、友達か誰かに私を押しつけるつもりなのかな。実はお前のこと好きなやつが居てさ、そいつがお前とどうしても結婚したいって言ってるんだ、とか何とか言い出したらどうしよう。
 その人物は喫茶店で待ち合わせしていて、あかりを伴って現れた浩之を見ると立ち上がる。その人物は遠慮がちに言うのだ。はじめまして○×です、あかりさん、ずっとあなたを見てました。事情は全て分かっています。でも好きです。愛してます。僕と結婚して下さい…。
 多分そうなったら、うん、と頷いてしまうだろう。浩之ちゃんがそうしたいのなら、と。
 自業自得とは言え、あかりは寂しい気持ちになる。上目遣いで遠慮がちに訊ねた。
「誰と結婚するの…?」
 これには浩之はムカッとしたらしい。
「お前、なにボケてんだ。俺とに決まってるだろ」
「え、えっ!? ごめん」
 あかりは思い切り悩んだ。自分のひじを痛いくらい握り締める。
 浩之と結婚したいか?
 以前の自分なら、「したい」と間髪入れず叫ぶに決まってる。
 でも、この場合、結婚するということは、浩之とマルチの間を裂くと言うことだ。
 あかりはうなだれた。
 したい。でも出来ない。
 出来ないよと言いかけたあかりの口を何かが塞ぐ。
『ねぇ?』
 誰かがささやく。
『浩之ちゃんが責任取るって言ったとき、どうしてあなたは黙ってたの?』
『本当に悪いと思っているなら、どんなことをしてでも償おうとするはずでしょ?』
『結婚が決まる前だって、やろうと思えば反対できたはずでしょ? 何故何も言わずに居るの?』
 それは。あかりは言い訳した。
 お母さんが…。
 別の誰かが嘲笑する。
『違う違う。そりゃ嘘だよ。お前は期待してるんだ。ほんのちょっぴりの可能性を、ひょっとしたら浩之に愛して貰えるかも知れないって期待を持ってるんだ』
 どきっとした。
 中学生のとき聞いた母親の言葉を不意に思い出した。
『夫婦って不思議なものでね、ずっと一緒に居るうちに気持ちが固まってきて、互いのことを大切に想うようになるの』
 台所に立った母親は、スープを味見しながら、夫婦についてそう語ってくれた。前日の晩、父親と母親は激しく夫婦喧嘩をしていただけに、母親の確信のこもった言葉はあかりの心に感銘を与えた。夫婦とは想像以上に深い何かなのだと教えられたような気がした。
 母親のその言葉が、長いこと心の奥底に、澱のように積もっていた。忘れていたはずのその言葉が、いつの間にか甦って、あかりの心に微かな期待と希望を生み出していたのだ。

 ああ、そうかも知れない。

 そのことに思い至ったとき、あかりは小さく呟いていた。

 私は、ひょっとしたら浩之ちゃんを変えられるかもって思っていたのかも知れない。

 そうだ。一緒に居続けることで、凍て付いた浩之の感情を、いつか溶かせる日が来るかも知れない。あの京都のときのように、浩之があかりを受け入れてくれる日が来るのかも知れない。そして心から笑い合える日が来るのかも。
 でも…。
 あかりの心は迷い続ける。
 今はどう返事するべきなんだろう?

 浩之は、小出しの質問があかりを混乱させていることに気付いて、迂回路からの質問攻撃を止め、正面攻撃に切り替える決意を固めた。
「実はな…」
 そこでまた言葉を止める。よっぽど言いにくいのだろうか。
「ね、浩之ちゃん。言って。私、大丈夫だから」
 あかりは覚悟を決めていた。何を言われても耐えられる。そう思った。
 浩之は頷いた。言葉を続ける。
「実は、マルチと話し合ったんだ。俺とお前の結婚について。で、マルチがな、お前が来るのは大歓迎だって言ってる。一緒に暮らしたいって言ってるんだ」

 え?

 あかりは思考が停まってしまった。
 ぼーっと呆けてしまう。
「おい、あかり?」
 気が付くと、浩之があかりの目の前で手をかざして振っていた。
「あ、ごめん。…えっと…何だっけ?」
 あかりはやっとそれだけ言った。
 マルチはあかりと一緒に暮らしたいらしい。
 浩之の言葉は確かにそう聞こえた。

 浩之ちゃんと、マルチちゃんと、一緒に暮らす?

 何度も心の中でそれを繰り返すが、実感が湧かない。
 浩之は自信無さそうに訊ねた。
「やっぱり嫌か?」
「え? そ、そんなことないよ」
 首を振ってはみるものの、半分意識は飛んだ状態だった。
 何しろ、さっきまで、浩之から憎まれ、マルチを嘆かせる修羅場を想像していたのだ。あかりは、暗いトンネルを抜けて突然まばゆい日光に晒されたような、周囲が真っ白になったような感覚を覚えていた。
 あかりの放心した様子を見た浩之は、ますます自信をなくしてきた。
「おい、あかり?」
「うん、ちょっと驚いただけ。…大丈夫、分かってるから」
「ならいいけど、さ」
 浩之は壁にもたれて腕を組んだ。
「マルチちゃんは本当に納得してるの?」
「ああ」
 あかりは伏し目がちになった。
 浩之はああ言うが、マルチのことだ。きっとあかりに気兼ねしてそう言っているだけなのだろう。
 自分の腕の中で小さく震えていたマルチのことを思い出していた。何をしたらいいのか分からず、一人疲れ切っていたマルチ。あかりがあの家に押し掛けたら、余計に気苦労が増えるだけではないのか。
「浩之ちゃん」
 ためらいながらあかりは言った。
「私、マルチちゃんを泣かせるようなこと、したくないよ?」
 その言葉を聞いた浩之は、はっとした表情であかりを見つめる。今度のあかりは目を反らすことなくまっすぐ見返していた。
 暫く見つめ合った後、浩之は急にニコッとした。
「やっぱりな。やっぱりそうか」
 浩之がベッドの横に来た。浩之の大きな手があかりの頭をぽんぽんと叩く。
「お前、あいつが言ったとおり、優しいのな」
「?」
「マルチのことなら心配ない。あいつの気持ちはちゃんと確かめた。大丈夫だよ」
「…」
 ホントに?
 あかりはまた目を伏せた。
 何も言えなくなってしまったあかりだった。
 迷っていた。浩之の言葉を信じたい一方で、何か間違ってるという気もした。
 マルチなら、浩之の言うとおり、心からあかりとの生活を望んでいるのかも知れない。しかし、あの息の詰まるような疲労感から逃げたい余り、支払うべき犠牲も考えずに、あかりを迎えると言っているだけなのかも知れないのだ。
 だとしたら。
『だとしたらどうする?』
 意地悪く誰かが問いかける。
『浩之を諦めるのか? お前が浩之に費やした年月を無駄にするのか?』
 酷い声だ。あかりは、自分の奥から響いてくる、皮肉に満ちたエゴむき出しの言葉に耳を塞ぎたくなる。
「あかり、結婚はどうするんだ? OKなのか?」
 浩之がせかす。
「う、うん」
 あかりは、布団に隠れた自分のお腹をそっと撫でていた。
 子供には父親が必要だ。母親の言葉が思い出される。
 確かにそうだ。
 子供が産まれたとき、父親は居た方がいい。たとえ自分は愛されてないとしても、子供は愛して貰えるだろう。…多分。
 あかりは目をつぶった。少しためらった後、思い切ってこくっと首を縦に振る。
 浩之はほっと吐息を漏らした。
「そうか」
 ただそれだけ言った。


   *****


 雨模様を眺めながら調子っぱずれの口笛を吹いている浩之を見ていると、さっきまでの緊張感がほどけて、安堵感がじんわりと広がってくる。
「お前、身体の具合はどうなんだ?」
「うん…。お薬貰ったから大丈夫だと思う」
「悪かったな。病気のとき押し掛けて」
 あかりは首を振った。
 浩之の思いやりが嬉しかった。
「ね?」
「ン?」
「その、浩之ちゃんとマルチちゃんと一緒に暮らすって話、いつ決まったの?」
 あかりは何気なく訊ねた。
 浩之はちょっと考えた後、
「うーん、お前が妊娠したってお前んちの母さんが怒鳴り込んできた日かなぁ」
「えっ」
 即断即決。
 あかりは強い脱力感を覚えた。
 つまりそういうことだったのだ。あかりの両親を前にして、浩之が毅然と責任をとりますと言い切ったのには、そういう背景があったのだ。
 愕然とするあかりの気持ちも知らず、浩之は無頓着に言う。
「ま、こっちの方も色々あって、気持ちの整理が付かなかったんだ。バイトも挟まってたし、なかなか言い出せなくてさ」
 そう言われても、正直なところ、割り切れないものがあった。決まっていたのなら、すぐ教えてくれれば良かったのにと思った。両家の前であれだけ大見栄切っておいて、今更気持ちの整理もないだろうに。
 考えれば考えるほど腹が立ってくる。せめて電話で連絡してくれてもいいではないか。どうして一週間も連絡なしに放っておくのだろう。煮え切らない浩之のせいで振り回された自分が惨めだった。
「で、でも、そういう話があるんだったら、あの場ではっきり言ってくれたって良かったよ? 私、そうして貰った方が」
 言い募るあかり。
「お前な」
 呆れたように浩之が言った。
「マルチがどうとかって話、俺たちの親には絶対聞かせられねーだろが」
「そ、それはそうだよ? そうだけど」
 あかりはまだ納得できない。
 あかりは随分悩んだのだ。あの日からこっち、胃痛と睡眠不足に苦しみ続けた。この風邪だってきっと睡眠不足で体力が落ちたせいだ。
 あかりは、臥せっている間ずっと、大学を辞めて家出するという、夢のような計画を建てていた。
 あてはなかった。なかったが、自分の料理の腕を活かして、住み込みで働かせてくれる場所を見つけるつもりだった。非現実的なことは百も承知だったけれど、浩之にこれ以上迷惑をかけたくなかった。
 この風邪が良くなったら。
 目が覚めるたび、眠りに就く前、天井を見上げて心の中で誓いをたてていた。
 身体が良くなったら、家出の準備に取りかかろう。何処か遠い場所に逃げて、そこで子供とひっそり暮らそう、と。
 そこまで思い詰めていたのに、蓋を開けてみれば、あかりの独り相撲だったのだ。
 恨みがましい顔をするあかりを見て、浩之はだんだん不機嫌になる。
「あかり、言っちゃ何だが、お前も悪いんだぞ」
 浩之はぶぅぶぅと不平を鳴らした。
「いきなり親寄越しやがって。こっちはあの後親から絞られた上に、お前ん家に連れていかれて謝り通しだったんだからな。言いたいことも言えやしねーや」
「そ、それは」
 それを言われるとつらい。
 母親が浩之のところに押し掛けたのは、あかりの意志ではない。だが、母親はあかりのためを思って浩之の家に行ったのだ。そしてその結果、浩之がこうして此処にいる。
 あのとき母親が妊娠に気づかなかったら、あかりは悩むばかりで何も解決できなかっただろう。もっと悪い事態になっていたかもしれない。それを考えると、母親を悪く言う気にはなれなかった。
 浩之と浩之の両親が謝罪に訪れたあの日、浩之が責任を取ると宣言したことで、風向きが変わった。
 頭を下げていた浩之の両親は息子の変心に仰天し、浩之の方を振り向いた。
 浩之っ、と息子を制止しようとする母親の声は、悲鳴にも似ていた。父親は信じられないと何度も首を振り、眼鏡を置くと、目頭を揉んだ。その手は微かだが震えていた。
 両親の掣肘を受けても、浩之は動じなかった。覚悟を決めた人間のように口を閉ざし、身じろぎ一つしなかった。
 その後の展開は一方的だった。もし何だったらウチの婿に来なさいと言い出しかねないあかりの母親に、浩之の両親は、息子の不始末を詫びに来たという手前もあって、満足な抵抗も出来ぬまま押し切られてしまった。
 勝利を収めたあかりの母親は、一瞬ではあったが、勝ち誇った顔であかりの方を見た。娘の幼い頃からの夢の実現に邁進した彼女は、これはこれである種の少女的ロマンティストであったのだ。
『あかりも悪い』
 誰かがいたずらっ子のようにささやく。
「ご…ごめんね」
 あかりはしょんぼりと肩を落とした。
「ったく。お前、いつもそうな」
「そんなことないんだよ? 私だって色々考えてたんだよ?」
 一応弁明するあかり。浩之はじろっと眉を上げた。
「何考えてたんだって?」
 家出…。
 浩之はくだらないと一蹴するだろう。
 あかりはますますしおれた。
「な、何でもないよ…」
「どうせくだんねーこと考えてたんだろ」
「うっ…」
 言葉に詰まるあかりに、浩之はわざとらしく大きな溜息をついた。


   *****


 雨は止まない。
 まだ四時過ぎなのに、外は真っ暗だった。窓を打つ雨粒の音が途切れることなく続いていた。
 あかりの心はしかし晴れやかだった。
 浩之ちゃんと結婚できる。
 そのことを考えると夢のようだった。知らず心が浮き立つ。
 何しろ浩之との結婚は小さい頃からの夢だった。その夢が叶うのだ。
「あかり」
 突然浩之はあかりを呼んだ。
「なぁに? 浩之ちゃん」
 浩之はニコニコするあかりを見つめると、ためらいながらもきっぱり言い切った。
「一応言っておくけど、マルチを諦める気はないからな。それは分かっていてくれよ?」
 それを聞いたとき、あかりの心に痛みが走った。勘違いしないでくれよ、と念を押されたようなものだったからだ。
 さっきまでの笑顔がこわばっていく。あかりは耐えるようにぎゅっとシーツを握りしめていた。
 浩之は続ける。
「もし、それが嫌だったら、俺は別の形で責任とるよ。無理に結婚することはない。今からでも止めていいんだし、子供が要らないっていうなら…」
 この人はマルチを愛している。それは分かっている筈だったが、改めて聞かされるとやっぱりショックだった。

 ズルいよ浩之ちゃん。

 あかりは心の底で小さく呟いていた。
 言う順序が逆だよ。そっちの方を先に言って欲しかったよ。別な誰かを愛している人のところにわざわざお嫁に行く人なんて、普通居ないよ。
 先に結婚しようって言われたら、嫌だなんて言える筈ないよ。私、浩之ちゃんのことが大好きなんだもの。諦めるなんて絶対できないよ。
 それが言い訳に過ぎないことは、あかり自身よく分かっている。
 たとえマルチが居ても、あかりは浩之の側に居たいのだ。
「いいよ、浩之ちゃん」
 同意していた。
「結婚しよ?」
 浩之を失うくらいなら、どんなことだってする。
 あかりの中では、諦めたはずだった浩之への想いが激しく燃え上がっていた。
「わたし…浩之ちゃんの愛人でもいいよ?」
 首を傾げ、健気に微笑んでみせるあかりだった。
 どんな形だっていい。浩之の側にいられるなら耐えられる。耐えてみせる。
「愛人て…お前、そこまでひどい扱いしねーよ」
 浩之は苦笑いした。
「なるたけ平等に愛するように俺も努力する。ただ法律上はあかり、お前が正妻。そういうこと」
「う、うん」
「色々あると思うけど、妬くなよ」
「努力してみる」
「…ホントに大丈夫かよ」
「うん…」
 こっくりうなずくあかり。枕元に腰を据えた大きなクマのぬいぐるみを引っ張って抱き寄せ、その背中に顔を埋める。
 その仕草を見て、浩之はやれやれと肩をすくめた。
 そのぬいぐるみは、受験直前のある日、図書館からの帰り道に浩之が贈ってくれたものだった。時期的にそろそろクリスマスだし、いつも勉強につき合って貰っているお礼だというのだった。
 玩具店に連れて行かれ、欲しいもんがあるなら言えよ、とぶっきらぼうに言われた。
 あかりは戸惑った。いきなりそんなこと言われても、と思った。
 そのとき、棚からはみ出しそうになっていたクマと目が合った。ふっくらと太った愛くるしいクマで、棚の縁にちょこんと腰掛けるような格好で置かれていた。
 思わずあかりは見とれた。
 でも高そうだった。
 幾ら何でもあれを欲しいとは言えない。
 あらぬ方に視線を向けようとしたとき、浩之がスタスタとそのクマのところに歩いていった。
 お前、こういうの、好きだろ?
 浩之は笑いながら言った。
 悪いよ、浩之ちゃん。気を遣わなくていいよ、浩之ちゃん。
 あかりは何度も遠慮したけれど、浩之は取り合わなかった。
 そのぬいぐるみに包装紙が丁寧に巻かれ、赤いリボンが付けられ、二抱えもあるような大きな手提げ袋に入れられる様子を、あかりはじっと見守っていた。
 手渡されたとき、意外なほどの重さによろけた。
 浩之がまた笑った。
 貸せよ。持ってってやるから。

 幸せな時期だった。

 あのときは受験よ早く終われと念じていたけれど、浩之とはいつも一緒に居られた。浩之を独占出来ていた。
 本当に得難い日々だった。
 これからはどうなるのだろう? 三人で暮らすのだ。浩之をマルチと分かち合わねばならない。浩之は平等に愛するよう努力すると約束してくれたけれど、実際にはどんな生活が?
「浩之ちゃん」
 あかりはぬいぐるみに顔を埋めたまま言った。
「なんだよ?」
「浩之ちゃんはマルチちゃんが好きなんだよね?」
 肩の荷が下りてほっとしていた浩之は、またかと顔をしかめた。
「何で女ってのはまとまった話をいちいち蒸し返したがるんだ?」
「聞いておきたいの」
「ああ、好きだよ」
 渋面を作ったまま、投げやりに答える浩之。
 あかりは顔を上げた。ちょっとためらったあと、また訊いた。
「私は?」
 浩之は腕組みする。まじめな顔で考え、
「嫌いじゃない」
「…」
 嫌いじゃない。好きと言いきれるほど好きじゃないということだ。
 それは浩之の偽らざる気持ちなのだろう。
 思わずうつむいてしまうあかり。
「あかり。泣くな」
「う、うん」
「俺は嫌いなやつとは、ああいうことはしないから。それは誓ってもいいから」
「そうだよね。浩之ちゃん、昔からそういうところあったよね」
「お前とこういう関係になるっての、慣れてないんだ。最初のうちは色々あると思うけど、我慢してくれ」
「うん…」
 浩之の言いたいことは分かる。浩之はあかりを親しい友達として見てしまうと言っているのだ。
 幼なじみなんだからしょうがない。そう思う一方で、最後まで幼なじみでしかなかったことに一抹寂しい想いを抱くあかりだった。
 あかりの表情に気持ちが出ていたらしい。浩之は急にためらう素振りを見せた。
「あかり。こういう結婚生活って、やっぱり嫌なのか?」
「そ、そんなことないよ。きっと大丈夫だと思う。…でも、ほら…」
 あかりはその先を言うのが恥ずかしい。
「ん? なんだよ」
「…夜のこととか、あるでしょ。浩之ちゃんはどうするの? マルチちゃんと一緒にいたいんだよね?」
 盗み見るように浩之の表情を窺うあかり。
 この手の話は本当は苦手なのだ。志保とコンビニで立ち読みをしていたとき、エッチなページになると急いで飛ばすあかりに、志保はにたにたと笑って、あかり、予習しておかないと後で大変よぉ? なんてからかったものだった。
 夜の生活を期待するわけではないけれど、せめて何夜かは浩之と一緒に過ごしたい。しかし浩之の心は元々マルチの方に向いていた。あかりが割り込めるものではなかった。
 このまま行くと、難しい言葉を使うなら、『孤閨をかこつ』ということになるのだろうか。一人寂しく寝ている同じ屋根の下で浩之とマルチが愛し合っている光景を想像すると、あかりは落ち込んでしまう。
 あかりの言葉に、浩之は憮然と、
「それについては、頑張るとしか言えん」
「が、頑張るって…?」
「あかり、お前、自分のことしか考えてないだろ」
 浩之は情けない声を出した。
「俺は、昼間は学校、それからバイトでくったくたに疲れて帰ってきて、夜は夜で運動量が二倍になるんだぞ?」
「あ…そだね、うん」
 浩之の言う『二倍』の中に自分も含まれてることに気付いて、あかりはボッ!と真っ赤になった。慌てて付け加える。
「大丈夫だよ。私、これからお腹大きくなるし、…その、そういうこと…出来なくなると思うから」
「まぁ、そのときになったら、いろいろと考えるってことで」
「それとね」
「なんだよ。まだあるのか」
 すごく言いにくい。あかりはもじもじした。だが気になるものはしょうがないのだ。
 やっと、言葉に出した。
「その…いつも三人で…するの?」
「あかりぃ」
 案の定、浩之は呆れた声を出した。
「お前、結構エッチな」
「あうっ」
「まぁ、今度いっぺんやってみっか」
「えっ? ええっ?!」
「ばーか。冗談だよ。本気にすんな」
「浩之ちゃんのいじわる…」
 死ぬほど恥ずかしがるあかりの様子に、浩之は吹き出した。つられてあかりも細い笑みを浮かべた。
「あかり、もう大丈夫だな?」
「うん」
「もう辛気くさい顔するなよ」
 これでも一人寂しく暮らすよりはずっといい結末だ。
 あかりは心の中で、そうぽつりと呟いた。


   *****


 雨の音が静まり始めていた。
「俺、そろそろ行くわ」
 外の様子を窺っていた浩之が、よっと腰を上げる。
「え?」
「今日の夜、バイトだからな」
 慌ててあかりはベッドから起き上がった。
「寝てろ」
「うん」
 浩之はあかりのパジャマを見てあきれた。
「お前、ほんとにクマが好きな?」
 言われて気付いた。今来ているのはクマ柄がプリントされたパジャマだった。大学生にしては子供っぽい柄だった。
 あかりは顔を赤らめた。
「う、うん」
「顔にも居るぞ」
「えっ?」
「ここだよ」
 浩之は親指であかりの目の下をごしごしこする。慌てて鏡を見ると、確かにくまが出来ていた。
「お前、本当に大丈夫か?」
「うん」
「そうか。…じゃ、またな」
「うん」
 そう言いながらベッドを降り、スリッパに足を落とすあかり。
「…付いてくるなよ」
「うん」
「だから、付いてくるなって」
「うん。玄関まで見送るだけだから」
「…」
 はんてんをごそごそ羽織るあかりをみて、溜息をつく浩之。
「見送ったらすぐに休めよ」
「うん」
「…お前、ボケてる?」
「うん」
「うん、じゃねーよ。人の話聞いてるのか?」
「うん」
「うん、うん、ってな…」
 浩之の手があかりの額に当てられる。
「まだ熱っぽいな。しっかり休養して、身体なおせよ」
「うん」
「…ったく」
 浩之が急にあかりの側に立つ。ひょいっと抱き上げられたとき、宙に浮遊したような不思議な感覚がした。
 熱が出ているのかも知れない。それとも、緊張が解けたからなのかも。
「やっぱり寝てろ。な?」
 浩之はあかりをベッドに寝かしつける。
「うん」
「…じゃあ、な」
「うん」
 と言いながらまた起きあがるあかりに、浩之は顔をしかめる。
 あかりは慌てた。はんてんの襟を引っ張り、
「これ脱ぐだけだから。そしたら寝るから」
 言っているうちに急に眠くなってきた。話している間も、うつらうつらと身体が傾ぐ。
 とろんとしたあかりの目を見て浩之は苦笑。あかりが布団を被るのを確認してから、音を立てないようにドアを開けた。
「おやすみ、あかり」
「うん…」
 その言葉に誘われるように、あかりはすぅっと眠りに落ちていった。


   *****


「落ち着いたか?」
 頭の上で浩之の優しい声がした。
「うん…」
 浩之の正装姿を見たとき、思わず涙を流してしまった。泣いている間、浩之は何も言わず、あかりを抱いていてくれた。自分一人が空回りしていたような気がしてあかりは恥ずかしかった。そっと目尻を拭うと、浩之から離れた。
 あかりのウェディングドレス姿を前にした浩之は居心地悪そうだった。もぞもぞと身じろぎしては、うーんと唸る。
「な、なに?」
 浩之の態度にどぎまぎするあかり。
「いや、馬子にも衣装かな、と」
「…」
 どうして素直に綺麗だよと言ってくれないのだろう、この人は。
 ぷっと吹き出しながらも、そんな思いを抱くあかりだった。
 ひどいなぁ。口の中でもごもごっと愚痴るあかり。
 浩之は照れ笑いを浮かべかけたが、急に顔を引き締めた。
「あのさ」
 浩之は心配そうに後ろのドアの方を見やり、
「あいつに何か言った?」
 志保に? それは自殺行為だ。
 あかりは思いっ切り首を振った。大親友でもこればっかりは絶対に話せない。志保はとんでもなくおしゃべりな子なのだ。こんな美味しい秘密を知ったらどうなるやら。
 浩之はほっと安堵の溜息をついた。
 窓際に立つと、カーテンをつまんで外を覗いた。
「結婚式、もうすぐだな」
「うん」
「大丈夫か?」
「…うん」
「引き返すなら今のうちだぞ?」
「答えは変わらないよ。浩之ちゃん」
「本当にいいんだな」
 浩之はくどいくらい念を押す。
 あかりは頷いた。『浩之ちゃんはこれでいいの?』とは聞き返さなかった。ほんの少しでも未来が変わってしまうことを恐れていた。
 そうだ。もう決めたのだ。たとえどんなことがあろうと浩之と共に生きていこうと。
 あかりは、心の奥底から響いてくる声を、罪を咎める声を押し殺した。
 迷ってはいけないのだ。
 あかりは浩之に近づき、きゅっと服の端を握る。
 連れてって、浩之ちゃんの未来に。私、何処までも一緒についてく。一生ついてく。
「そうか」
 浩之は柔らかく微笑んだ。
「じゃ、行こうか」


   *****


 控え室から出てきたあかりと浩之を見て、志保は目を見張った。
 あかりの表情から憂いは綺麗さっぱり無くなっていた。
「むぅぅ、女の友情よりオトコの一言ってやつ…?」
 悔しい現実に唇を噛む志保であった。もっとも、浩之は幼なじみという強力なポジションに居たわけで、志保が勝てないのは当然すぎる結果なのだが。

 結婚式が始まった。
 父親に手を引かれバージンロードを歩くあかりは本当に美しかった。こんなに美しい子だったかと思わず何度も目を疑ったほどだ。
 志保はやっと巡ってきたチャンスに、ここぞとばかりシャッターを切り続けた。
 ファインダーの中のあかりは、よく見ると、喜びと達観が入り混じったような、不思議な表情をしていた。人生の目標を達成した、という充実感から来るものだろうか。いやそれにしては…。
 あかりを追いながら、志保は黒田が興味を持った写真のことを考えていた。



 あのとき雨が突然降り出し、みんなはキャアキャア大騒ぎしながら雨宿りできる場所を探して走り出した。
 そこはポプラ並木のある小道だった。畜産研究所まで一本道で、左右は北大の試験農場が広がっていた。雨宿りする場所は見あたらない。仕方なくポプラの木に殆どへばりつくようにしていたが、ポプラは横に広がりのない樹なので、余り雨宿りの役には立たない。
 雨に濡れそぼるあかりに浩之が制服の上を脱いでかぶせた。
『これかぶってろ』
『でも浩之ちゃん』
『お前に風邪ひかれたら、ナビするやつが居なくなっちまうだろ』
 その会話を聞きながら、志保は何とはなしにシャッターを切っていた。最初は雨に降られて逃げまどうお間抜けたち、というテーマにするつもりだったのだが、ファインダー越しにあかりを見たとき、これはシャレにならないと思った。
 あかりは浩之を特別な目で見ている。そのことは知っていた。だが、幼なじみ特有の兄妹に近い関係かも知れないとも考えていた。何しろ浩之とあかりは、幼稚園の頃からの付き合いなのだ。そこまで一緒だと、赤の他人とは言えないくらい親密になって当然だろう。
 一方、志保もまた、浩之に対しては心のもやもやを感じることがある。それが恋愛感情に近いものであることも、何となく分かっている。浩之とぎゃあぎゃあ言い合うひとときは、何だかんだ言って楽しい。浩之も志保を嫌いだと言いながら、何かと絡んでくる。
 ほら、昔から、喧嘩するほど仲がいいと言うではないか。ひょっとしたら。ひょっとしたら浩之は…。
 しかし、ファインダーの中のあかりを見ていると、そんな期待が揺らいでくる。そこから伝わってくるあかりの想いの強さは、志保が太刀打ちできるようなものではなかった。
 うーん、これはシャレにならない。
 軽いショックを覚えながら、志保はシャッターを切り続けた。
 ファインダーの中であかりの想いが移ろっていく。
 途方に暮れて空を見上げていたあかり。髪の毛に水滴をまといつかせ、寒そうに肩をすくめていた。
 浩之が上着をかぶせると、あかりは驚き、それから嬉しそうに瞳を輝かせ、その後すぐに雨に濡れた浩之を心配げに見上げた。
 ばぁか、気にすんなよ。浩之はそう言うようにあかりの頭をぽんぽんと叩いた。そのたびに雨の滴があかりの髪から離れて周囲に散った。
 浩之の肩が濡れてTシャツが透けていることに気付いたあかりが、ハンカチを取り出して拭こうとする。
 いいって。そんな風に浩之の口が動く。
 浩之はハンカチを取り上げると、あかりの濡れた前髪を丁寧に拭いてやり、あかりの手にハンカチを押し込んだ。あかりの顔が真っ赤になる。
 雨が止むのを待つ浩之の傍らで、ひたむきに浩之を見つめ続けるあかり。なのに浩之は無視して雅史とバカ話。あかりのことなど見向きもしない。
 その後、雨が小降りになる。
『オラッ! 行くぞっ!』
 浩之の声でみんな走り出していく。
『浩之ちゃん、ありがとう…』
 あかりの声は浩之に届かない。寂しいような、悲しいような、切ない目で浩之の後ろ姿を追い続ける。
 最後の写真を撮り終えた志保は、深い溜息をついた。
 可哀相なあかり。どんなに想っても報われない。それも、あんな甲斐性無しなんかに惚れたりするからよ。
 この一途な親友のことを考えると心が痛む。
 自分は深入りするまい。
 そう思った。浩之へのもやもやが、ときめきに変わる前に引き返すのだ。あかりのように悲しい思いをする前に。
 そうよ。あんな甲斐性無しに人生振り回されるのなんて、まっぴらごめんだわ。
 …せめてあかり、あんただけは幸せになれるといいね。
『あかりっ』
 暗い表情になりかけていたあかりは、志保の方を見てびっくりした。
『と、撮ってたの!?』
『あかりのてるてる坊主姿、ゲットォォ!!』
 そう言われて初めて、あかりは自分の姿に思い至った。浩之の制服をかぶった姿は、てるてる坊主というよりは北国の雪ん子に近かったが、どちらにしても恥ずかしい。
『や、止めてぇ!!』
 素っ頓狂な悲鳴を上げるあかり。
『だーめ』
『アルバムには載せないでぇ!!』
『しーらない』
 キャハハと笑いながら志保は走り出した。それを必死に追いかけるあかり。
『お前ら何じゃれてんだよ』
 向こうで浩之が呆れていた。
『志保! 待ってよ、志保!』
 後ろからあかりの声が追いすがる。
『志保!』

 はっと我に返った。
 あかりの声だった。あかりが志保の名を呼んでいた。
「え…?」
 さっきまで式がとり行われていた教会風建築物の入り口に、あかりが立っていた。志保が気付いたのを見計らったように、あかりの手が大きく動く。
 天からぱさり、志保の胸元に何かが舞い降りる。慌ててカメラと一緒にそれを抱き留める志保だった。
 それを手に取った志保は目を丸くした。
 ブーケ?!
「さっきはありがとう! 志保も頑張ってね!」
 ナ、ナイスコントロール…。
 笑顔で手を振るあかりの隣に、浩之が立っていた。ブーケを手にしたまま、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で居る志保を、まるで珍獣でも見ているみたいにニヤニヤと観察している。
 これにはちょいマジにむかついたが、公衆の面前だ。いつもの調子で罵倒するわけには行かない。
「はは…」
 苦笑いするしかない志保だった。それからハァと溜息をついた。

 この鈍感カップル、こっちの気も知らないで、よくやってくれるわ。

 それでも志保はすぐに気を取り直し、ブーケを振りながら叫んだ。
「あっりがとーっ! あかり、ついでにヒロ、おっ幸せにねーっ!」
 ついで、と言われた浩之が一瞬ムッとするのが分かった。
 してやったりとばかりにガッツポーズを見せると、向こうの浩之は、お前にゃかなわんと言いたげに肩をすくめた。傍らのあかりと何か言葉を交わし始める。
「会場へ移動して下さーい」
 係員の誘導する声が、ホテルの中庭に響く。
「移動をお願いしまーす」

『あの子の想いが成就したんだねぇ…』
 バスクのカフェでくつろぎながら、しみじみと黒田が言った。黒田は志保が持ち込んだ写真のことを覚えていた。
『行っといで。志保の弟子入りを助けてくれた子なんだろ? 行って見届けてきな』
『いいんですか!? 姐さん』
『姐さんはいいけど、飛行機代は自腹だからね?』
『そりゃもう! ありがとうございますっ!』
 志保の喜ぶ姿に、テーブルの向こうの黒田は、柄にもないことをしたと、照れくさそうに笑った。

 写真はカメラの値段で決まるもんじゃないさ。

 志保の持ち込み作品を見終えたとき、黒田はそう言ったものだった。
 心の一瞬一瞬を切り取ったような作品が、あたしゃ大好き。
 何を講釈してんだろう、と志保が不思議に思ったそのときだった。
 黒田は、仕方ないねぇ、あんたみたいな下手くそちゃん、放っておいたら上手くなるもんも上手くならないわねぇ、と言った。
 遠回しに志保の弟子入りを認めたのだった。

 師匠、見届けましたよ。

 志保は心の中で呟く。

 でも、何だか寂しいや。

 志保は思っていた。今、自分はどんな顔をしているのだろう、と。
 カメラを自分に向け、ブーケに頬ずりするようにポーズを取り、一枚、二枚、撮ってみる。どうか笑顔で写っていますように。
 と、背後にばたばたと足音が響いた。
「志保、遅れてごめん!」
 その声に志保は顔をしかめて振り向いた。
「遅いわよ、雅史。ったく、あかりの人生の晴れ舞台をなんだと思ってるの!?」
「これでも試合が終わってすぐ駆けつけたんだから許してよ」
 佐藤雅史だった。あかりと浩之の幼なじみだった男の子。人一倍サッカーが好きで、志保と同じように大学を辞めて、好きな道に進んだ人。
 相変わらず女の子みたいな可愛い顔しちゃって。顔の前で両手を合わせて平謝りの雅史を見ていると、志保はついついいじめたくなる。
「で、勝ったの? 負けたの?」
 詰問する志保に、
「…」
 がっくり肩を落とす雅史。どうやら彼の愛するガンバ大阪は負けたらしい。若きJリーガーは申し訳なさそうだった。
 志保は聞こえよがしに溜息をついた。
「雅史、あんたホント気が利かないわね」
「え?」
「ここいらでびしっとゴールを決めてさ、チームを勝利に導いたらどうなの? それでヒーローインタビュー受けてさ、友人の浩之君とあかりさんにこのゴールを捧げます、結婚おめでとう! とか何とか劇的な演出しようって発想無いの? あっきれた」
「ヒーローインタビューって…そんな、プロ野球じゃないんだからさぁ」
「じゃあ今からプロ野球に転向しなさいよ」
「無茶苦茶だよ〜」
「そんだけ走り回ってるんだから、盗塁くらいこなせるでしょ。頭が固いんだから」
 雅史に言いたいだけ言うと、ちょっと気が晴れた。
 両親らしい年配の夫婦と会話を交わしているあかりたちを横目でチラリ見た後、片目をつぶり、明るく叫ぶ。
「さぁ雅史、披露宴で久しぶりの志保ちゃんコンサート、行くわよっ」
「あはは、ほんと久しぶりだね」
 しょげていた雅史がにっこり笑った。
 脳天気なヤツ。
 志保はじろっと雅史を睨んだ。意地悪く、
「雅史。あんたも歌うのよ。あたしとデュエット」
「い? ぼ、僕は駄目だよ。志保みたいに歌うまくないもん」
 雅史はぶるんぶるん首と手を振って拒絶。
「遅刻したんだから、その埋め合わせ! イヤとは言わせないからね」
「僕だって遅刻したくてしたんじゃ…」
「大丈夫、大丈夫。雅史は有名人なんだから、マイク握るだけでみんな満足してくれるってば」
「そんな…勘弁してよぉ」
 雅史とじゃれ合ううち、色んな思いが込み上げてきて、何だか涙が出てきた。


【続く】

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