LostWaltz

 

第4話

 

Ver.1.02

 

制作: GRNVKA

 

 

 

「すまん、マルチ…!」

 目の前で頭を下げる浩之を、マルチは茫然と見つめていた。

 さっきまであかりの母親がいた。
 玄関で浩之の出迎えを受けたとき、普段の笑顔が強張っていた。浩之を見るや、いきなり、あかりが妊娠した、と告げた。
 彼女は浩之が動揺したのを見て、一瞬、不機嫌な顔をした。が、高圧的な態度には出なかった。
 浩之にとってあかりの母親は近所の優しいおばさんで、小さい頃は良くお世話になったものだ。浩之が知る限り、彼女が感情的に怒鳴るのを見たことは今まで一度もない。あかりの母親もそれを承知しているように見え、自分のイメージを積極的に壊すようなことはしなかった。
 応接室に通されたあかりの母親は、浩之がおたおたと茶の用意に走るのを見て、お気遣いは無用と釘を差した。
 それよりも、と彼女はひざを乗り出し、浩之の両親の所在を尋ねた。
 仕事で留守だ、という浩之の答えに彼女は唖然とした様子だった。
 いつなら会える、と聞かれても、浩之は途方に暮れて、さぁ、と言葉を濁すしかない。
 あかりの母親は考え込んでしまった。
 一体ここの親は何を考えているのだ? 今日は休日なのに不在? それどころか、いつ帰るかも分からない? 仕事中毒にもほどがあるのでは? …と口に出しては言わなかったが、彼女の表情は、かなりそれに近いニュアンスのものだった。
 彼女は、浩之の両親の連絡先を確認した後、言った。
『あなたにとってはどうかわからないけど、女の子にとってはとても大切なことなの。一度あなたのご両親ともちゃんとお話ししないとね』
 そう、やんわりなじった上で、
『ねぇ、浩之ちゃん、あかりのことどう思ってるの? 好きだからこうなったんでしょ? だったら、あの子のこと、もう少し考えて上げてよ』
 と迫った。
 もう少し考えて、という言葉が指すところの意味は、浩之にも分かる。
 浩之は答えに詰まり、改めてご挨拶に伺わせていただきます、と答えるのが精一杯だった。



 藤田家からの帰り道、あかりの母親は浩之に小さな疑いを抱いていた。
 女の妊娠を知る男はいつだって取り乱すものだ。だが浩之の動揺は大きすぎた。
 娘とはただの遊びだったのだろうか?
 それは恐ろしい想像だった。
 そんなことを信じたくもない母親は、過去の記憶の中から浩之と娘の仲睦まじい光景を掘り起こし、その不吉な可能性を頭から追い払った。
 浩之が動揺したのは、いきなり親がおしかけたからかもしれない。
 考えてみれば当然だ。土曜日の朝にいきなり相手の親が玄関に立ったのだから。
 出しゃばりすぎたのだろうか…? ここは娘自身に任せて、当事者同士で話をさせるべきだっただろうか? 娘の口から直接、事実を伝えさせた方が?
 …いや、駄目だ。
 母親は心の中でかぶりを振った。
 そんなことが出来るはずもない。第一、妊娠が判明してからというもの、娘は泣くばかりで、とても言葉を交わせる状態ではなかった。
 一体何を案じているのだろう。
 彼女は娘の遠慮ぶりに溜息をついた。
 あかりの母親は、以前から、娘の健気な気持ちに気付いている。
 小学校に入る前からずっと続いてきたあかりの想いを、時には歯がゆく感じながらも、彼女はただ見守り続けてきた。
 浩之の成長した姿を見るにつれ、母親はあかりの目の確かさに感心したものだ。彼女から見ても、浩之はいい感じの男の子だった。こんな息子なら欲しい。そう思ったことも何度かある。
 だから、こういう結末になったとしても、『傷物にされた』と怒るつもりはない。むしろあかりの想いを遂げる良い機会だと考えていた。多少の障害は周囲が助ければいい。大事なのは、降って湧いた好機を逃さぬことだ。
 あかりに任せていたら、詰め切れそうで詰められないいつもの調子を延々繰り返すだけ、出来の悪いワルツに終わるだろう。大団円へと一気呵成に進むには、あかりに任せていては駄目なのだ。
 そこまで考えたとき、頼りにならない自分の連れ合いに腹立ちが込み上げる。
 あかりの父親は結婚に消極的で、取り敢えず将来の約束さえ取り付けておけば、無理に事を進める必要はないんじゃないか、と言い出したのだ。
 じゃあ子供はどうするんです? 母親の問いに、父親はちょっとたじろいだ口調で、産むにも時期というものがあるだろうと、ぼそり言った。母親は激怒した。あかりの幸せを考えてやりたいが、あかりを手放すのも嫌という、実に父親らしいエゴを感じ取ったのだ。
 嫁ぎ先なんてすぐそこじゃありませんか、顔が見たければ自分の足で歩いて行きなさいなと皮肉る母親に、父親は渋い顔で、結婚するにも子供を持つにもまだ若すぎる、社会経験も無いんじゃ家庭を持つには頼りない、と反論した。自分の考えを娘に押しつけるのは止めろ、とも言った。
 そこからは彼ら自身の夫婦喧嘩だった。
 場の雰囲気にいたたまれずあかりが逃げ出した後も、彼らは何時間も言い争った。
 母親は思うのだ。
 彼らはじきに二十歳ではないか。昔なら大人と言われていた年齢だ。なのに、さらに二年かそこら自由気ままな時間を過ごすために、中絶なんて言い出す人間の気が知れない。大体、中絶が母胎を傷つけるということを全然分かっていない。
 向こうの親ならともかく、娘の父親がそんなことを言うなんて正気を疑う。風邪の治療か何かと勘違いしているのではないか?
 自分が勤めている料理学校には、時々、あかりと同い年くらいの若い子が花嫁修業でやってくる。付け爪やマニキュアをしたまま包丁を握る姿はいただけないけれど、結婚するんだと華やぐ姿は見ていて微笑ましい。年齢なんて関係ない。
 そうだ。婚約なんてソフトランディングをやってたら、あかりは、浩之の気持ちがどうとか、絶対気後れしてぐずり出すに決まってる。
 浩之を疑うわけではないが…いや疑わしいところがないわけではないのだが…男の気持ちは移ろいやすい。最近の若者は、結婚と性交渉は別物と考えているのかも知れないが、好き合って関係を持ったのであれば、結婚したところで別に問題はないだろう?

 フィナーレだ。

 母親はこぶしを握りしめた。
 優柔不断なワルツの踊り手たちにフィナーレを贈るのだ。
 何と言われようと、彼女は娘のために一肌脱ぐ決意を固めていた。



 マルチの目の前で、浩之はずっと頭を下げたままだった。
 はっと我に返るマルチ。浩之の傍らに膝をつき、肩を揺する。
「浩之さん、そんな、お顔を上げて下さい」
「俺、お前に嘘ついちまった! あかりがああいうことにならなきゃ、ずっとお前を騙し続けてたかと思うと…! すまんっ!」
 また頭をすりつける浩之。
「私、嬉しいです」
 はぁ?
 その言葉に、浩之は思わず顔を上げた。マルチの顔を凝視する。
「お前、自分が何言ってるのか分かってるか? 俺は浮気したんだぞ?」
「そ、それは…」
 浮気と言われたときだけ、マルチの表情はほんの少し曇った。が、すぐぱっと晴れる。
「でも、浩之さんの子供が出来たんですよ?」
「…」
 一瞬思考停止する浩之。
 うーん、と浩之は唸る。なんと説明したものか。
「いや、だからな、マルチ。世間一般では、浮気相手に子供が出来ると、それは不幸なんだ。勿論、浮気も悪いことなんだけどさ」
「どうして子供が出来るのが悪いんですか?」
「どうしてって」
 そこで浩之ははっと気付いた。
「マルチ、お前、ひょっとして、子供が産めないとかどうとか、まだ悩んでるのか?」
 マルチは視線を下に落とした。
「だって…」
 消え入りそうな声。
「だって浩之さん、子供が好きじゃないですか…」



 浩之は子供に親切だ。
 迷子を見つけたときなんか特にそうだ。
 買い物や遊びに行くとき、浩之は泣いている子供を見つけるとすぐ『どうした』と声をかける。そして迷子だと分かると用事を放り出して、子供の手を引いて親を捜し始めるのだ。
 そんなときの浩之は、マルチに対するときとは違った優しさに満ちていた。
 子供が疲れたと言えば、肩車してやったり、おぶってやったりした。
 マルチは知っていた。
 親が無事に見つかって子供と別れるとき、浩之は喜びながらも、何処か寂しそうな、ちょっと悲しそうな顔をするのだった。



「なぁ?」
 浩之は膝を払いつつ、首を傾げる。
「お前、何か勘違いしてねーか?」
「してません」
 マルチの言葉はかたくなだ。
「浩之さんの子供が出来たんです。嬉しいです」
「…」
 頑固なヤツ。
 浩之には、何故マルチが子供に固執するのか分からない。
 確かに浩之は子供が好きだ。だが、自分の子供が持ちたいとか、そういう意味ではないのだ。小さい子が困っているのが我慢ならない性分だから、つい手助けしてしまうだけなのだ。
 その点をいつも浩之は口を酸っぱくしてマルチに説明するのだが、マルチは相変わらず子供にこだわり続けた。まるで、子供が幸せの象徴であるかのように思い込んでいる節があった。
 どうしていつもこうなんだ? 子供ってやつを理想化してないか? 子供ってのはな…。
 その思いそのままに、浩之は何気なく漏らす。
「お前さぁ、子供なら誰の子でもいいのかよ…?」
 尤も、さすがにこれはすぐ、
 言い過ぎた!
 と思った。
 自分の前言に浩之は内心慌てふためき、恐る恐るマルチの顔色を窺った。
 マルチは黙り込んでいた。じっと浩之の言葉について考えているようだった。
「すまん…言い過ぎた」
 取り敢えず謝る。
「…」
 マルチは静かに首を振った。
「浩之さんは子供がお嫌いですか?」
「いや、それは、嫌いじゃないけど、さ」
「だったら、どうしてあかりさんが産むのは駄目なんですか?」
「…こっちが望んで出来たわけじゃないからだ」
「でも、子供です。浩之さんの子供なんですよ?」
 マルチは言い立てる。
 浩之はだんだん腹が立ってきた。
「おい、もう止めろよ? 子供ってのはな、お互いが望んで初めて生まれるもんなんだぞ。この場合はそれとは違うだろうが」
「でも…」
「でもじゃねーって!」
 マルチは浩之の怒った顔を見てはっとした様だった。
「す、すみません」
 シュンとうつむくマルチ。

 最近はいつもこうだ。

 浩之は心の中でうめく。

 いつもこうなる。

 マルチと言い争いをするなんて、以前は考えられなかった。笑い合って毎日を過ごせると思っていた。
 浩之の心の中には、春の日差しのように朗らかな笑顔を絶やさないマルチの姿が、今も眩しく焼き付いている。

『浩之さん、浩之さん、今日はこんなことがあったんですよ』
『どうしたんですか、え? そ、そうなんですか?』
『ふぇぇん! また失敗ですぅ!』
『浩之さん、浩之さん』
『ねぇ、浩之さん』
『…』

 どこで道を間違えてしまったのだろう。
 浩之の思いは苦い。
「マルチ」
「…はい」
「あかりとのことは悪かった。もう一度謝る。この通りだ」
 浩之は深々と頭を下げた。
「子供のことは俺の方で何とかするから。だからマルチはなにも心配しなくていい」
「…」
 マルチは言おうか言うまいか迷っている様子だった。
「あの、浩之さん?」
 不機嫌そうな浩之に一瞬たじろいだマルチだが、声を励まして言葉を続けた。
「お子さんはどなたが育てるんですか…?」
「子供の話はもうナシだ。俺は子供なんて要らない。子供なんか無くても、俺はお前と一緒にいるだけで幸せなんだ」
 そう言って浩之はマルチの頭を撫でた。強引な撫で方だった。
「だからマルチ、子供が出来なくたって、何も悩まなくていいんだぞ? お前は人間だよ。俺はそう思ってるから」
 お前は人間だよ。
 その言葉を聞くたび、マルチは、浩之に認められた喜びと、自分はロボットだという変えようもない現実との間で、心が軋む思いがする。
 知らず溜息をついていた。
 そんなマルチに、浩之は不思議そうな視線を向けた。
「おいマルチ。どうした?」
「…何でもないです」
 マルチはか弱く首を振った。



『マルチ、今日は遊園地に連れて行ってやるからな』
 あの日、浩之は突然そんなことを言い出した。
『はっ、はい!』
 遊園地。知識としては知っていたが、行くのは生まれて初めてだ。
 マルチは嬉しくなった。
 浩之との生活が始まってから、一ヶ月ほどの時間が経っていた。
 浩之はいつも忙しそうにしていて、こうして外に『お出かけ』するのは、これが最初だった。

 遊園地は別世界だった。入場ゲートをくぐり抜けた途端、マルチは目を輝かせた。
 空中軌道をジェットコースターが走り抜けるたび、空から歓声が降ってきた。愛らしい格好の着ぐるみたちがマルチの前にやってきて、コンニチハと挨拶する。色とりどりの風船が空を舞い、陽気な演奏があちこちから聞こえてくる。
『さ、行こうか』
『はいっ』
 浩之はマルチの喜びに満ちた顔に満足した様子だった。
 浩之はマルチの手を取り、歩き出した。
 遊園地の中に設けられた公園に差し掛かったときだった。手を繋いで歩くマルチと浩之の姿を見て、ベンチに座っていた女の子たちがくすくすと笑い出した。
『何アレ〜。メイドロボと手繋いでるよ』
『ヤダ、ロボフェチ?』
『こわーい』
 それを聞くや、浩之はむっとした表情になり、急に歩く速度を速めた。ゆっくり歩いてくれとはとても言えない雰囲気だった。
『浩之さん、手を離して下さい』
 マルチが頼むと、浩之は、
『気にするなよ、あんな奴らの言うこと』
『でも…』
『そうだ。観覧車に乗ろう。な?』
 浩之のその言葉に引きずられるように、マルチは観覧車に乗った。
 さっきの女の子たちのセリフがどうしても忘れられなかった。
 マルチのセンサーアンテナを見て、ゴンドラの側に立っていた係員が奇妙な表情をした。そう言えば観覧車に乗るため並んでいるときも、後ろの方で笑い声がしていた。あれは自分たちのことを笑っていたのではないか?
 マルチはいたたまれない気持ちになる。
 何故? 何かおかしいのだろうか。
 浩之の行動に何か問題がある? いや、そんな筈はない。
 だとすれば。
 マルチは自分のセンサーアンテナに指を遣った。
 だとすればマルチ自身が悪いということになる。
 マルチは戸惑いを覚えた。
 何も悪いことをした覚えはないのに、何故嘲笑されるのだろう。気付かないうちに悪いことをしてしまったのだろうか。ただ、みんながしているように、手を繋いで歩いていただけなのに。
 マルチは女の子たちの嘲笑を浴びた瞬間のことを思い出した。
 彼女たちはメイドロボと手を繋いでいると言って笑った。そのとき、浩之は反論しなかった。何か後ろめたいことでもあるかのように、その場から立ち去ろうとした。
 メイドロボである自分と手を繋いで歩くのは後ろめたいことなのだろうか。浩之の求めに応じて人間の女の子の様に振る舞ってはいけないのだろうか。
 マルチは不安に襲われた。周囲から『お前はみんなとは違う』と責められたような気がしたのだ。
 そっと浩之の顔を窺う。
 険しい表情だった。地上に群がる人々を見おろす浩之の顔は厳しかった。
『浩之さん』
 マルチが袖を引っ張ると、浩之は我に返ったらしく、笑みを浮かべた。マルチを窓際に招くと、遠くの景色を指差した。
『どうだ、綺麗だろ』
『はい』
 そう答えたものの、マルチは上の空だった。拭いきれない疑問がマルチの心を塗りつぶそうとしていた。

 浩之は自分のことを人間として認めていないのかも知れない。

 その認識に到達したとき、マルチは少なからずショックを受けた。
 それまでの浩之は、マルチをロボット扱いしなかった。人間の女の子として接してくれたのだ。そのたび、マルチは、頭を撫でて貰っているようなくすぐったさを覚えるのだった。
 人間の女の子として生きてみたい。そんな夢見がちな思いを抱くようになったのも、浩之の影響が大きい。
 なのに何故今になって? 何故認めて貰えない?
 答えは決まっている。現実がそうだから。マルチはメイドロボだから。
 ではどうしたら浩之に認めて貰える?
 …答えはない。そもそもメイドロボは人間にはなれないのだ。
 気が付くと、ゴンドラは地上に近づいていた。
 降りるとき、浩之はマルチの方にさぁ、と手を差し出した。
 マルチは迷っていた。
 自分は笑われてもいい。でも浩之は? 浩之はどうなのだ?
 さっきの嘲り笑いが、浩之の険しい表情が、頭に浮かんだ。
 浩之を笑い者にするわけにはいかない。
 マルチはうつむいて首を振った。両手をスカートの前に組んだまま、浩之の手を握り返そうとはしなかった。
 そのときは自分でも気付かなかったが、マルチは深く傷ついていた。女の子たちから笑い声を浴びたとき、浩之は一瞬、手を振り解きかけたからだった。



『…行政府がお送りします』
 TVがさえずり始めた。気まずい沈黙を紛らすためだろうか、浩之が居間のテレビの電源を入れたのだ。
『さて、次の話題ですが、先日、人気女優、高原カレンさんの入籍会見がありました』
『高原さんと言えば、エイズ撲滅運動やデューム・キャンペーンなどの活動で知られていますが、一昔前は声優でも有名でしたよね』
『そうですね。今は社会派のイメージが強いですけれども、僕らの世代だと、声優としての認知度の方が圧倒的に高いですよね』
 コメンテータの言葉に相づちを打つゲスト。
 マルチも、浩之の横にちょんと腰を降ろして、テレビに見入る。
『高原さん、おめでとうございます』
『はい、有り難うございます』
『入籍のきっかけを教えていただけませんか』
『産婦人科で診て貰ったんですが、そのとき二ヶ月だって言われて。そしたら彼、結婚しようっていってくれたんです』
『我々もこのニュースは寝耳に水でして、昨日のFAXで驚かされた次第なんですが』
『驚かせてしまって申し訳ありません。特に事務所の方々にはご迷惑をおかけしまして、ほんとうに何と言っていいか』
『高原さん、お子さんの予定は?』
『沢山欲しいです。彼のために産んで上げたいの。彼、子供が好きだから。野球チームが作れるくらい、沢山の子供が欲しいな』
 インタビューを受ける女優は幸せそうだった。和気あいあいとしたやり取りが続く。
 浩之は急に顔をしかめた。
「なんだ、ろくな番組やってねーな」
 そう言うなり、ぷちんとTVを消した。
「あっ」
 マルチは思わず声を上げた。置かれたリモコンに手を伸ばし、もう一度電源を付ける。
「お前、何やってんだよ」
「観たいんです」
「くだんねー番組しかやってねーぞ」
「観ちゃ駄目なんですか」
 言葉に詰まった浩之はそっぽを向いた。
「…勝手にしろ」
 テレビではさっきの会見のやりとりが延々続いていた。
 それをまばたきもせず観続けるマルチ。観たいと言っていたのに、表情は憂鬱そのものだった。
 横でその様子をちらちら盗み見ていた浩之だったが、とうとう我慢しきれなくなった。
「なぁマルチ。ちょっといいか?」
 浩之はマルチの肩口を掴んで自分の方に向き直らせた。
 だがマルチは首を曲げ、テレビを見続けようとする。
 浩之は溜息をついた。
 リモコンを探ると、テレビのスイッチを切った。
「あのさ、お前、あかりのこと、怒ってるんだろ?」
 そう言われたとき、マルチは心ここにあらずという様子だったが、目の前の浩之が真剣な顔をしているのを見て、慌てて首を振った。
「そんなことないです」
「嘘付けよ」
「別に、嘘なんか付いてません」
 そう言いながらも未練がましくテレビの方をうかがうマルチ。
 マルチの素っ気ない口調に浩之は苦り切った。
「俺はお前に不満があった訳じゃないんだ。あかりとのあれは、その、色々事情があって、さ」
「別に、いいんです」
 リモコンは浩之の後ろにあって手は届かない。さすがに浩之を押しのけるわけにも行かない。
 とうとうあきらめた。
 マルチはすっと立ち上がり、台所に行きかける。浩之はその後を追った。
「なぁ、すねるなよ。悪かったって言ってるだろ」
「どうして私がすねなきゃいけないんですか?」
「お前何遠慮してるんだよ。…ほんとは怒ってるんだろ?」
「いいえ、そんなことありません」
「なぁ、マルチ」
 浩之は口を尖らせた。
「悪かったよ。ほんとに悪かった。もうあんなことしないから」
「謝らないで下さい。浩之さんは悪いことしてないです」
「したよ! 悪いことしたから謝ってるんだろ」
「浩之さん、私のことなら気にしないで下さい」
 マルチはちょっと考え、それから言った。
「私はロボットなんですよ? だから、浩之さんの好きにしていいんです」
 浩之は言葉を止めた。困惑が浩之の顔中に広がる。
「おいマルチ、お前は人間だって言ってるだろ。自分をロボットだとか卑下する言い方止めろよ」
「卑下する…?」
 その言葉を聞いた瞬間、マルチは立ち止まった。
 マルチの中でぶちんと何かが音を立てて切れた。
 キッと顔を上げるマルチ。
「わっ、私はっ」
 その声は震えていた。
「私はロボットなんです。浩之さんは私を人間みたいに思って接して下さいますけど、ロボットは人間にはなれませんっ!」
「マルチ、ど、どうしたんだよ、いきなり」
「浩之さんは何も分かってないです! ロボットは人間と違います! 人間にはなれないんです!」
 気圧され、言葉を失う浩之。
 マルチは涙をこぼしながら叫んだ。
「ロボットは、人間じゃないんですっ! ロボットだから、子供が産めないんですっ!」



 ぱん、とリレー回路の切断音がして、頭上のまばゆいランプが光を失った。
『終わったよ』
 センサースーツ姿で検査台に横たわるマルチを、長瀬が優しく見おろしていた。
 身を起こしたマルチの髪を、長瀬は慈しむように撫でた。気持ちよさそうに目を閉じるマルチ。
 その日、マルチは定期メンテナンスのために長瀬のもとを訪れていた。しかしそれも終わる。来週になれば、長瀬は北海道に旅立ってしまうのだ。
 彼のチームでこの研究所に残る者は居ない。マルチに携わっていた人間は、根こそぎ来栖川重工に転籍することになっていた。
 マルチの開発で目指された可能性を活かそうという意志は、来栖川電工という組織には存在しなかった。
『彼女がマルチですか』
 後ろに居た若い研究員が、物珍しそうな視線を送ってくる。
『そうだ。…試作型だがね』
 長瀬の言葉には陰りがあった。
 現在工場で量産されているマルチは、身体部品こそ同じものを用いているが、感情や記憶を蓄えるTS(トランスレット)RAMの容量が、大幅に減らされてしまっていた。複雑な電位シフト操作で莫大な記憶容量を実現するTSRAMは極めて高価な部品で、それ故真っ先にコスト削減の対象になった。
『彼は篠田君だよ。ウチに配属早々、転職扱いになる不幸なヤツだがね』
 長瀬の皮肉っぽい紹介の仕方に、その若い研究員は苦笑した。
『こんにちは、マルチちゃん』
『は、はじめまして』
 マルチの少しはにかんだ声に、若い研究員は眼鏡の向こうで柔和な目を細めた。
『君は本当に人間の女の子みたいだね』
 ぽっと赤くなるマルチ。そんなマルチの肩に長瀬の手が置かれた。
『彼女は人間の男性と暮らしているんだ』
『本当ですか』
『嫁にやったようなものさ。そうだね、マルチ』
 マルチは恥ずかしそうにうつむく。その仕草に研究員はほぅ、と感嘆の吐息を漏らした。
 長瀬は誇らしげだった。白衣の内ポケットからくしゃくしゃになったセブンスターを取り出し、曲がった紙巻き煙草を一本口にくわえた。
『これで消化機能と受胎機能があれば完璧なんだがな』
 ぽつり呟く長瀬に、研究員が肩をすくめた。
『消化機能はともかく、受胎機能は付けられないでしょう?』
『ああ、この国は法律屋がうるさいからな。何せセリオを無免許医扱いするお国柄だ』
『受胎?』
 物問いたげなマルチに、長瀬は微笑みかける。
『子供を授かることさ』



 マルチには分かっている。そう、十分に思い知らされてきた。
 自分は人間ではないのだ。どんなに学習しても、どんなに経験を積んでも、人間にはなれないのだ。
 人間になるためにはどうしたらいいのか? それは今まで何度も繰り返された問いだった。答えを求めて一斉にプロセスが走り出すが、答えは見いだせない。エラーが心のあちこちでこだまし、負荷が高まる。ブレイカーが落ちる寸前になるまで思考を集中しても、黒を白と言い通せるような…ロボットを人間と再定義できるような解答は見つけられなかった。
 そうして絶望がマルチの元気を奪い去っていく。
「浩之さんだって、ほんとは子供が出来たらって思ってるんでしょ…? 私がほんとの人間だったらって思ってるんでしょ…?」
 マルチはひっくひっくと泣き始めた。

 マルチの言葉には拭いようもないコンプレックスがあった。

 マルチは浩之を愛していた。だから浩之の愛に応えたかった。マルチなりに愛のあり方を考え、周囲で暮らす人々と同じ愛の形を浩之に与えようとした。周囲が浸っているのと同じ幸せを浩之に受け取って欲しかった。
 浩之がマルチに人間の女の子としての役割を期待するなら、それを叶えて上げたい。
 そう願ってもいた。
 しかし周囲はマルチを人間として見ていなかった。それだけでなく、マルチを人間のように扱う浩之を、滑稽な道化であるかのように嘲り笑った。
 苦しみはそれで終わらなかった。
 マルチは、ロボットである自分には永遠に手の届かない現実に気付いてしまったのだ。

 子供が出来ない。

 結ばれるまではどうでも良かったその事実が、事ある毎にマルチの心を打ちのめしていた。
 浩之が住む一帯は平凡な住宅地だった。ごく普通の家庭が人口の大半を占める場所だった。だから、子供の姿はそこここで見かけることが出来た。
 たとえば裏の家には小さな三人兄弟が居て、庭越しにいつも歓声が聞こえてくる。
 マルチが草木に水をやりに庭に出るとき、隣の芝生の上で、ボールを追いかけて遊ぶ兄弟の姿がよく見られた。そのうち一人が転んでしまい、大泣きする。すると、お勝手のドアが開いて、母親が出てくるのだ。
 顔を真っ赤にして泣く子供の膝小僧を払ってやり、ちちんぷいぷいとおまじないをする母親に、他の二人の兄弟たちも甘えてしがみつく。
 自分にまとわりつく三人の甘えん坊たちに、母親は困ったように声を上げるが、怒ってはいなかった。その反対だった。溢れるような笑顔で子供たちを両手で包むと、さぁ、と家の中へ導き入れる。
 そのうち甘いホットケーキの匂いが漂いはじめ、子供たちが大騒ぎを始める。
 静かに食べなさい、と優しく叱る母親の声がすると騒ぎはひととき収まるが、誰かが横取りしたとか何とかで小さい声の言い合いが始まり、ばたばたと駆け回る音やら泣き声やら母親のたしなめる声やらで、一層賑やかになるのだった。
 お向かいに居るのは、おしゃまな女の子だった。
 お出かけするときは両親に手を繋いで貰い、澄まして歩いていた。
 一階の屋上には、シロツメクサを絨毯のように敷き詰めた庭園があって、女の子は大抵そこに居た。花壇に咲く花々を使って綺麗な黒髪に花飾りをつけてみたり、手すりに頬杖して遠くを見つめたりしていた。
 時折両親が上がってくると、女の子は長い時間掛けてシロツメクサの首飾りを作り、両親の首に掛けた。そうすると父親の方が女の子を抱き上げて、頬ずりするのだった。おひげが痛いよと女の子が言うと、父親は大慌てで頬ずりを止め、その代わりに高い高いをする。
 女の子はそれが大好きで、きゃあきゃあと歓声を上げた。母親はその様子をにこにこと笑顔で見守っていた。
 そんな彼らがマルチには羨ましかった。
 子供たちと一緒に居る親たちは、満ち足りているように見えた。
 彼らが我が子に見せる笑顔を見ていると、マルチは自分の中の欠け落ちた部分を強烈に意識させられる。
 親たちは子供を持てて幸せなのだ。
 そう思うと辛くてたまらない。
 人間たちはみんな子供を持つ幸せを楽しんでいるのに、自分だけは仲間外れだ。
 そんな自分が、浩之も巻き添えにしている。
 浩之の気持ちを考えると、マルチの身体は恐怖にすくんでしまう。
 本当は、浩之も子供を欲しがっているのかも知れないのだ…。
 浩之は、はじめて出会ったときから、マルチを人間の女の子のように扱ってくれた。一緒に住むようになってからも、それは変わらなかった。一人の人間として扱うことで、人間の女の子としての幸せを与えようとしてくれた。
 しかし子供を産めないという現実は変えられない。マルチと一緒に居る限り、浩之は子供を持てないのだ。あの親たちのような幸せを手に入れることは出来ないのだ。
 子供を持てないことを浩之はどう思うだろう。今は良いかも知れないが、将来は?
 …分からない。ただはっきりしているのは、浩之が子供好きだということだけ。いつか、時が経てば、自分の子供を持ちたいと願い始めるかも知れない。
 前に一度、浩之と子供の話をしたことがあった。迷子の男の子を親のところに送り届けた帰り道だった。
 まさか言い争いになるとは思っていなかった。
 ずっと男の子の相手をしていたマルチは、親の側で手を振る男の子に別れを告げた後、何気なく、浩之の子供を産めたらいいのに、と漏らした。それだけだったはずなのに、浩之はそんなもの要らないと強く反発した。子供が好きなのにどうして、と突っ込んで聞いたマルチも悪かったのかも知れないが、浩之はそれで怒ってしまったのだ。

 子供なんてくだらない。産むとか産まないとか、お前そんなこと考えるなよ。

 早口でまくし立てる浩之に、マルチは沈黙するしかなかった。浩之は、何かにひどく苛立っているように見えた。足に絡まった目に見えないものを払い除けようとして、それが上手く行かなくて腹を立てているかのようだった。
 そのときの浩之を思い返すたび、マルチは思うのだ。
 幸せってなんだろう?
 今こうして浩之と暮らしているのは本当の幸せなんだろうか?
 自分たちの生活は、あるべき姿の幸せから外れているのではないだろうか?
 もし外れているのだとしたら、マルチはともかく浩之にとってこの生活は不幸と言えるのではないか?
 浩之を愛すれば愛するほど、マルチの中のその思いは膨れ上がっていく。
 浩之との生活が楽しかったのは、ほんのひとときに過ぎなかった。それから後は少しずつ大きくなっていく疑念に苦しんだ。
 ロボットである自分と生活し続けて良いのか? そう疑問を浩之にぶつけることもあったが、答えは得られなかった。いつもはぐらかされ、ごまかされた。浩之は、お前のことをロボットだとは思ってないと繰り返すばかりだった。そんなときの浩之の顔は、マルチへの慈しみに満ちた言葉とは裏腹、破滅すら厭わぬという悲壮な決意に満ちているように思えた。
 その決意がマルチには悲しかった。
 浩之にそう決意させてしまう自分が悲しかった。



「マルチ…」
 泣きじゃくるマルチに、浩之は途方に暮れた様子だった。
「俺と一緒にいるだけじゃ、駄目なのか?」
 その言葉には、無念の響きがあった。
「俺だけじゃ、お前を幸せに出来ないのか?」
「…」
 マルチは首を振った。
「ならどうして…」
 答えは返ってこない。
「子供なんて、俺はお前に求めてないよ。お前さえ居れば、俺はどうなったって…」
 激しく首を振るマルチ。違う、違うというように。
「何でだよ…俺の生き方は俺自身で選んで…何でそんな」
 浩之はマルチに近づく。おぶさるようにして抱き寄せた。
「なぁ、マルチ…」
 マルチの頭にあごを載せ、ささやく。
「寂しいのか…? 俺がいつもバイトばかりしてるから」
 何も言わないマルチ。
 その代わり、浩之の腕にマルチの手がそっと添えられた。
「もっと一緒にいる時間を増やすよ。努力するから。だから、な?」
「…」
 小さくしゃくり上げる。
「マルチ、寂しくしてごめんな、ごめんな」
 ちゅっちゅっとマルチの髪にキスする浩之。
 突然、浩之の中のマルチがくるっと翻った。
 浩之に抱きつく。つらく厳しい冬の風に飛ばされまいとするように。
 浩之は微笑みを浮かべた。
 言葉の代わりに頭を撫で続けた。


   *****


「ごめんなさい」
 ぽつっと謝るマルチ。
「謝るのは俺の方だ。マルチのこと、考えなかった俺が悪いんだから」
「そんな」
 マルチは浩之の腕からするりと抜けた。
「浩之さん」
 真剣な声だった。
「これからどうするおつもりですか?」
「おつもりですかって、何を?」
「あかりさんとのことです」
 こいつ、子供のことをまた蒸し返すつもりか。
 うまくなだめたつもりになっていた浩之はうんざりした。
「あかりさんのお母様には、何と御返事するおつもりですか?」
「知るか」
 内心の苛立ちが声に出ていた。
「浩之さん!」
 強い言葉に浩之は思わずぎょっとする。マルチは怒っていた。
「あかりさんのお母様なんですよ? そんな無責任なこと言わないで下さい」
「わかった、わかったよ」
 ふてくされる浩之。
「後で謝りに行こうと思ってる。子供は、可哀相だけど、堕ろすしかないだろ」
「堕ろすって何ですか?」
 浩之は言葉に詰まった。
「つ、つまり、なんだ」
 マルチのまっすぐな瞳を見ていると、自分が極悪人に思えてくる。
 浩之の声は段々小さくなっていった。
「子供を…生まれさせないってことだよ」
「生まれさせない?」
 マルチは少し考え、その意味に思い至ったように、目をはっと見開いた。信じられないというように後ずさる。
「マルチ、お前の言いたいことは分かる。けどな」
「駄目です、そんなの!」
 マルチは叫んでいた。悲鳴に近い声だった。
「俺だってやりたかねぇよ! でもしょうがねーだろ! 子供が出来ても、誰が育てるんだよ。あかりか? あいつに未婚の母やれって言うのかよ」
「私が育てます!」
「ばかっ! 子供を育てるってのはな、大変なんだよ。お前が夢見てるみたいに簡単には行かねーんだよっ! それにな、子供が生まれたら生まれたで、親権だ、何だって、家同士がもめるもんなんだ! 犬か猫みたいに、子供下さい、ハイあげますってわけにゃいかねーんだよっ!」
「じゃ、浩之さんがあかりさんと結婚すればいいじゃないですかっ! お一人では大変でも、お二人でなら、きっと、お子さんを育てることができますよ!」
「お前、ほんッとーに何も考えてねーんだな! 俺たちまだ学生なんだぞ!? 結婚!? いきなり子育てかよ!? うまく行きっこねーだろが!」
「でもっ」
「でもじゃねぇ! 大体、お前の立場はどーなるんだよっ! この家に置いて貰えなくなるかもしれねーんだぞ!? 別の女が一緒に住んでて、それでもニコニコ笑ってる嫁さんが居るわけねーだろ!?」
「お子さんのためなら、私、追い出されてもいいです! いえ、そのほうがいいんです!」
「なっ…」
 浩之は絶句した。
「ふふふ、浩之さん、おかしい…!」
 マルチは笑っていた。泣き笑いだった。
「だって、私のこと、まだ人間みたいに思ってる…! お…おかしいですよっ…!」
「お前、何言ってんだ!? お前は…」
「違いますっ!」
 マルチは烈しく浩之の言葉を遮っていた。
 夢物語はもう終わりにしなければならなかった。
「私は人間にご奉仕するためのロボットなんです! 人間じゃありません!」
 マルチの叫びを聞いたとき、浩之の頬は殴られたかのようにびりっと引きつった。
 よろよろとマルチから離れ、壁に背を付いた。
 深い嘆息。
「何言ってんだよ…」
 やっと言葉を吐き出す浩之。
「…お前は人間だよ…!」
 耐え難い頭痛を必死にこらえているように表情が歪む。
「そんじょそこらの人間より、よっぽど人間らしいよっ! だから好きになったんだよ!」
 血を絞り出すような悲痛な叫びだった。
「愛してるんだよっ!」
 それを聞いたとき、マルチは瞬きを忘れた。
 マルチの顔に喜びがきらめいたのは、ほんのひとときに過ぎなかった。みるみるうちに、悲しみと苦痛の色がマルチの表情を覆った。
 澄んだ碧の瞳から、とめどなく涙が溢れ出ては、頬を伝い落ちていく。
 こらえきれずマルチは、くしゃくしゃになった顔を両手で覆った。指の間から細い細い掠れた声が漏れた。悲鳴にも聞こえる哀しい泣き声だった。
 崩れるように浩之はソファに腰を降ろした。カーペットに視線を落とし、苦悩そのままに頭を抱え、歯を食いしばる。

 言葉が途切れた。

 沈黙を破ったのはマルチだった。
 そっと涙をぬぐうと言った。
「もう人間扱いはやめて下さい。私はロボットなんですよ? ロボットは、ご主人様が好きなようにしていいんです。何の遠慮も要りません。もし私を捨てたいと思ったら、捨てて構わないんです。…人間のための機械なんですから!」
 そう言って、マルチはぎこちなく微笑みをつくった。
「…もう、こんなこと、終わりにした方がいいと思います。ロボットとこのまま人生を過ごすなんて良くないです。そうですよ、良い機会ですから、あかりさんと結婚してください。そしてお子さんと幸せに…」
 浩之は顔を跳ね上げた。
「お前!」
 本気で怒っていた。
「いい加減にしろよ! なんで子供の話からその話になるんだよ! なんでお前と暮らしているのにあかりと結婚なんだ!? かっ、関係ないだろがっ!」
「浩之さん」
 マルチは怯まなかった。
「お子さんを堕ろしちゃ絶対に駄目です。どんなことがあっても、そんなことはやってはいけないと思います。…そのためなら私は、私はっ!」
「もういい! 勝手に言ってろっ!」
 寝る! 乱暴にそう言い残し、浩之はマルチに背を向け、大股で居間を出ていった。階段を荒く踏み鳴らす音。
 バタン! 叩き付けるような大きな音がして、浩之の部屋のドアが閉まった。


   *****


 また浩之を怒らせてしまった。
 今度の怒り方はいつもと違った。
 浩之と口論になることはあっても、席を蹴って出ていくようなことは今まで一度もなかったのだ。
 マルチは浩之のためを思って言っているのに、どうして浩之はあそこまで怒るのだろう。
 これからどうすれば良いのか、マルチには分からない。
「お昼ご飯の支度しなきゃ…」
 そう呟きはするが、胸が一杯で何も手に付かなかった。

 トゥルルルル…

 玄関で電話が鳴り始めた。
 のろのろと立ち上がるマルチ。
 受話器を手に取ろうとしたとき、浩之から電話は取るなと言われていたことを思い出した。浩之はいつも家を出るとき留守番電話をセットする。まるで誰かを避けているかのようだった。
 普段なら、応答音の後「只今留守にしています…」というメッセージが流れるはずだが、電話は鳴り止まない。
 マルチは操作パネルを覗き込んだ。留守番電話ボタンがオフになっていた。浩之はまだ家にいるから、留守番電話をセットしなかったのだろう。
 どうしよう。取った方が良いのだろうか。
 天井を見上げるマルチ。
 今の浩之に電話のことを告げても余計怒るだけだろうという気がした。寝る、と言い捨てた浩之の声が耳にまだ木霊していた。
 ようやく決意して受話器を取る。
「はい、藤田です」
 受話器の向こうは沈黙していた。
「どなたですか?」
 電話の主は名乗らない。
 何かをすする音。
「あの…」
 故障しているのだろうか。受話器を置こうとしたとき、声がした。
「ごめん…なさい…」
 殆ど聞き取れないような、微かな声だった。
「ほんとに…ごめんなさい…」
 語尾が乱れる。
 思い当たる名前があった。
「ひょっとして…あかりさんなんですか?」
 答えはない。
「あかりさん?」
 嗚咽を残し、そのまま電話は切れてしまった。
 あかりさんだ。
 マルチは居ても立ってもいられなくなった。
 あかりに会って話をしたかった。でもマルチはあかりの住所を知らない。浩之は知っているだろうが…。
 マルチはまた上を見上げた。
 あかりに会いに行くと言ったら、浩之は前に増して怒るだろう。勝手なことをするなと叱るに違いない。
 マルチは肩を落とす。
 浩之は浮気、浮気と言うが、マルチはあかりを責めるつもりなどない。
 浩之は知らないのだ。マルチが浩之をあかりに託そうとしたことを。
 今回のことだって、マルチが『浩之を任せたい』などと期待を持たせるようなことを言わなければ、あかりは一線を越えたりしなかったろう。マルチ自身があかりをここまで追い込んでしまったのだ。
 マルチは、あかりを家に招いたあの晩のことを思い出していた。酷いものを見せつけられ、ショックで茫然自失しているあかりの姿を思い浮かべただけで、心が激しく痛んだ。
 マルチにとって、あかりは一つの理想の形だった。優しくて家庭的。浩之のことが好きで、昔から浩之のことは何でも知っている幼なじみ。
 あかりなら、きっと浩之を幸せにしてくれる筈だ。
 マルチにはそんな確信があった。
 あかりは料理も上手だった。
 今でこそバリエーションは増えたものの、マルチは初めて作った料理のことを悔やんでいた。
 マルチが浩之のために作った初めての料理はスパゲティだったが、まるでピザのようにコチコチに固まってしまった。浩之は残さず食べてくれたものの、もし自分があかりならこんな失敗はしなかった筈だ。きっと見事な出来映えになっただろう。浩之は心から美味しいと言ってくれたに違いないのだ。
 それに。
 マルチは自分の中に羨望が広がるのを抑えられない。
 それに…あかりは人間なのだ。

『マルチちゃん』

 下校のとき、浩之の側で包み込むような笑顔を向けてくれたあかり。
 掃除はメイドロボの仕事とばかり、クラスメイトはさっさと家に帰ってしまうために、マルチはいつも一人で掃除をしていた。
 小さい身体で一生懸命モップを動かすマルチを見て、浩之とあかりは仕方ないなぁと顔を見合わせ、腕まくりして、掃除を手伝ってくれたものだった。

『掃除を済ませたら、一緒に帰ろ?』

 モップに体重を掛けて、三人一緒に走った。浩之流の掃除方法だった。広い廊下がみるみる綺麗になっていった。最初は恥ずかしそうにしていたあかりだったが、掃除が終わった後は、額に光る汗を拭いながら、おかしそうに笑っていた。

『綺麗になったね。良かったね』

 あかりもまたマルチのことを友達だと言ってくれた。
 友達。
 甘美な響きだった。
 今此処にいるマルチは独りぼっちだった。
 マルチが浩之のもとに戻ったとき、既に二年余りの年月が流れていた。
 マルチが学校に通っていた期間は短かく、クラスメイトに友達が出来るということもなかった。それに、クラスメイトはマルチを便利なメイドロボとしてしか見てくれなかった。多分彼らは街に居る量産型マルチと級友だったマルチを区別も出来ないだろう。
 他人と関わることが殆どないマルチの日常は単調そのものだった。
 マルチは浩之を送り出した後、大好きな掃除と洗濯に取り掛かる。洗い物を干し、家中をぴかぴかにし終えると、しばらくぼんやりと家の中で過ごす。おやつの時間になり、裏の子供たちが騒ぎ始める辺りになると、いつものスーパーで夕食のお買い物。日が傾いてきたら干した洗濯物を取り込む。夕食の支度を終えたら、浩之の帰宅をじっと待つ。それの繰り返し。
 孤独感を癒そうにも、浩之はバイトでマルチを余り構ってくれない。
 マルチの瞳に翳りが差した。
 近頃の浩之はやつれて見えた。無理にバイトを詰め込んでいるために、いつも疲れた顔をしていた。週末もバイトに出かけるか、遅くまで泥のように眠っていた。
 浩之がバイトに明け暮れる理由をマルチは知っている。浩之はマルチを買うとき、両親から大きな借金をした。それを返済しようとしているのだ。
 浩之の両親は、息子がメイドロボを買うとは予想だにしていなかったらしい。久しぶりに彼らが帰宅したとき、浩之の傍らにマルチが居るのを見て、彼らは大いにあきれた。そして無神経にも、マルチが居る前で無駄遣い呼ばわりした。そのことを、浩之は内心腹立たしく思っていたのだ。こんな金はさっさと返すとばかりに、バイトに奔走するようになってしまった。
 浩之は意地っ張りだったが、ここ数ヶ月は特にそれが高じてきていた。
 無茶の仕方は何処か自暴自棄的でもあり、進んで何かに身を投げ出さないと気が済まないようでもあった。浩之の体調を心配してマルチが色々言っても、浩之は大丈夫だと取り合わない。諦めるしかなかった。
 静まり返った家の中で、マルチは、浩之が帰ってくるのをずっと待ち侘びていた。寂しい日々だった。
 そんなとき、マルチはあかりと再会したのだ。
 公園であかりを偶然見かけたとき、マルチは罪悪感をおぼえる一方、嬉しくもあった。かつての自分を知る人と会えたのだ。それも、自分のことを友達と言ってくれた人と。
 マルチに子犬のようにまとわりつかれて、あかりは戸惑った表情をしていた。
 前日浩之に追い返されたあかりの悲しみのことを考えると、マルチは何と言えばいいのか分からなくて、ろくに話も出来なかった。けれど、誘うと一緒に帰ってくれた。
 それだけではない。
 マルチは自分の身体を抱きしめる。
 あかりはマルチを助けてくれた。家に来て、マルチの話をずっと聞いていてくれた。励ましてくれた。

『二人で考えて、いい方法見つけよ?』

 あかりの言葉に心が震える。
 そう言ってくれたあの優しい人が、自分のせいで泣いている。
 電話の向こうの身もだえするような嗚咽を思い出すたび、マルチはいたたまれなくなる。
 マルチはあかりを酷い目に遭わせてしまった。好きな人が他の誰かと抱き合っているのを間近で見せつけられて、あかりはショックを受け、家を飛び出していってしまった。
 そもそも自分は人間に奉仕するために作られたロボットなのだ。そのロボットが、人間をあんなにも悲しませて良いのだろうか?


   *****


 浩之は、ベッドに仰向けになり、じっと天井を見上げていた。
 何をするでもない。ただ天井のクロス地を見つめ続ける。
「サイテーだよ…」
 そうぶつぶつ呟く。

 悪いのは俺だよな。浮気して、子供が出来てしまって、向こうの親御さんに押し掛けられて。それなのに、逆ギレか? 格好悪いよな、ほんと。

 浩之はマルチのことを思った。
 少し言い過ぎた。マルチを傷つけてしまったかも。
 今頃はきっと泣いているだろう。声を潜めて悲しみに暮れているマルチの背中を想像するだけで、浩之の心は痛んだ。
「でも、だからって、子供は無理だよ…」
 浩之は頭を抱える。
 百歩譲って子供を産むことにしたとしても、問題は山積している。第一、浩之はあかりと結婚するつもりなど無い。なのに子供を産んでくれと言えるのか? 絶対無理だ、そんなこと。

『浩之ちゃん』

 あの夜のあかりの声が、耳元で聞こえたような気がした。

『この前はひどいこと言って本当にごめんね…。でもずっと想ってたんだよ?』
『…俺の方こそ、ずっと何も言わなくて…ごめんな』
『いいの。もう大丈夫だよ? ほんのひとときでも浩之ちゃんに愛して貰えたから。思い出を貰ったから。頑張って、生きてみるから』
 そう言ってあかりは、浩之の下で切ない笑顔を見せた。

 いや、あかりのことだから、子供を一人で育てるとか言い出すかも知れねーな…。

 あかりは浩之を立てて控えめに振る舞うのが常だったが、こうと決めたら頑固に押し通すところがあった。その彼女が浩之の子供を堕ろすことに同意するかというと、それはとてもあり得そうにない気がしてきた。
 浩之は袋小路に追い込まれたような気になる。浩之があかりにしたことは、結局、安易な同情は却って人を傷つけるという、典型的な例だった。
 考えがまとまらないまま、そよ風に揺れるレースのカーテン越しに通りを眺めた。
 のどかで平和な風景だった。庭に水をまく音や、ぱんぱんと布団を叩く響き、AMラジオのものらしいのんびりした声が聞こえてくる。そこにはありふれた日常生活が、平凡だが心休まる人間の営みがあった。

 昔はこの家にも、そんな日常の音が響いていた。

 浩之は思い返していた。
 うっすらと目覚めかけた朝、下から聞こえてくる洗濯や料理の音に、どれほど安らぎを覚えたろう。廊下から伝わってくる両親の話し声を耳にしながら、ベッドの中で微睡み続けるあの満ち足りた時間。やがて階段のきしむ音がして、ドアがそっと開く。
 浩之、浩之、起きなさい。ご飯出来てるよ。
 そんな優しい声が浩之を包むのだ。
 浩之の表情が曇る。
 その日常こそが幸せなのだと気付いたのは、両親がこの家を去ってからだった。
 もう四年以上もこの家は静かだった。浩之以外誰も声を立てない。物音一つしない。まるで無人島に設けられた牢獄のようだった。

『浩之ちゃん、朝だよ。早く起きてよ』

 またあかりのことを思う。
 高校時代、あかりは毎朝浩之のために呼び鈴を鳴らし、浩之の名を呼んだ。近所迷惑だ、恥ずかしいと言っても止めようとしなかった。
 あかりは浩之が嫌がっていないことを知っていたのかも知れない。浩之が怒ると困ったように小さく笑い、ごめんね浩之ちゃんと言うのだが、また次の日になると同じことを…浩之の名前を大きな声で呼ぶことを繰り返すのだった。

『浩之ちゃん! もっと早く起きないと遅刻しちゃうよ!』

 そうだ。静まり返った家の中にあかりの声が響くたび、暗い闇が払われ光が射し込んできた気がして、浩之は救われた心地になった。監獄から解き放たれて、自由になれるような気がした。
 もしあかりが居なかったら。
 浩之は目を伏せる。
 …あかりが居てくれなかったら、俺は。

『浩之ちゃん、ちゃんと食べてる?』

 あかり…。
 いつも浩之を見守っていてくれたあかり。妹のように、本当に近しい存在だった。
 浩之のことを見ていないようで見ていてくれた。時々頼みもしないのに家に来ては、料理を作ってくれた。料理の本を見ながら一生懸命料理に向かうあかりの姿は頼もしかった。まるでこの家に家族が戻ってきたみたいで嬉しかった。
 こんな関係がいつまでも続いてくれたらいいのに。
 いつもそう思っていた。
 あかりが浩之に好意を持っていることは薄々分かっていた。志保が時々ヒステリックに怒るのも、浩之があかりの気持ちに見て見ぬふりをするからだった。
 浩之は恐かったのだ。
 幼なじみという心地よい関係を壊されるのが恐かったのだ。
 浩之には距離を詰める自信が無かった。幼なじみという関係を越えてあかりと向き合うことから逃げていた。それがどれほどあかりを傷つけ続けてきたか、知らぬままに。
 それでも、このまま行けば、いつかは、あかりと結ばれていたかも知れない。

 だが、あの運命の日、浩之はマルチと出会ってしまったのだ。

 あの日、ふらつきながらも一生懸命重い段ボールを運び上げようとしていた下級生を、浩之は見つけた。
 段ボールに運ばれていると言った方が、表現として正しそうだった。
 危ういものを感じた浩之が彼女に近づいたそのとき、彼女は狙い澄ましたかのように足を滑らせた。
 落ちる!
 その次の瞬間には、彼女は浩之の腕の中にいた。間一髪、浩之が抱き留めたのだ。
 尤も、彼女の方はその間もずっと落ち続けているつもりでいて、浩之の身体の中で落ちる、落ちると叫び続けていた。浩之に声をかけられて、そこでようやく助けられたことに気付いたのだった。
 それが、浩之とマルチの最初の出会いだった。
 浩之にとってマルチは新鮮だった。その純粋な心にたちまち惹かれた。マルチもまた、浩之の存在に心を揺らすようになる。
 二人が一緒にいた時間は二週間と短かったが、それだけに恋は激しかった。
 浩之は未だにその恋の鎖に囚われている。
 来栖川電工の倉庫に永久保管されるはずだったマルチが奇蹟のように浩之のもとに戻ってきたとき、浩之は進んで身を投げ出し、その鎖にがんじがらめに自らを縛めた。人生の全てをマルチとの愛に捧げようと誓ったのだった。

 マルチとの生活は楽しかった。

 二人の生活が始まった頃のことを思い出し、浩之は微笑む。
 マルチのおかげで、家の中は一転してぱっと華やいだように思えた。
 朝、とんとんとん、と階段を上がる軽やかな音。
『浩之さん浩之さん、早く起きて下さい! 大学に遅れますよっ』
『…あと十分』
『駄目ですよ。ほんとに遅刻しちゃいますよ』
 ゆさゆさ揺すってもなかなか起きない浩之に、マルチは困ってしまう。
『マルチぃ』
 浩之は実はもう目覚めている。誰かに起こして貰うのが嬉しくて、マルチの声が聞こえたときには目がぱっちり冴えてしまっているのだ。
『アレしてくれよ、アレ』
『えっ…』
 マルチは真っ赤になり、つんつんと人差し指どうし突き合わせながらうつむいてしまう。
『してくんなきゃ、起きねーからな』
『わ、分かりました』
 布団から顔を出した浩之の頬に、マルチはちゅっとキスをする。
『…おい。場所が違う』
『で、でも』
『いつもやってくれてるところじゃなきゃ、起きない』
『…いじわるですぅ』
『早くしねーと遅刻しちまうぞ』
『あぅぅ、それじゃ行きますよ』

 ちゅっ。

 しかし…気がかりもあった。
『浩之ちゃん、最近忙しいんだね』
 大学で顔を合わせるとき、あかりはいつも寂しそうだった。
 マルチが家に来てから、浩之はどことなくあかりに後ろめたい思いを抱くようになった。
 だからバイトを口実に距離を置こうとしたなのかもしれない。
 そうして、時間が全てを解決してくれるのを待とうとしたのかもしれない。
 あかりが何も言わないので、うまく隠し通せていると思っていた。あの夜、あかりがマルチのことを口にするまでは。
『変だよ! あの子、メイドロボなんだよ!? そんなことするの、おかしいよっ!』
 悲しい叫びだった。
 ひょっとしたら、『そうだったの?』と冷静に受け止めてくれるのではないかという淡い期待はうち砕かれた。浩之の予想を遙かに超えて、あかりの想いは強かった。

『あの子、メイドロボなんだよ!?』

 それは痛い言葉だった。
 浩之が見まい見まいと思っていた現実だった。
 マルチとのことは、いつかは両親にも発覚するだろう。周囲から猛反対される時期がやってくるだろう。
 それでもいい、構わないのだと自分に言い聞かせる浩之の心の奥底には、社会の冷たい視線を浴びる事への恐怖が潜んでいた。その恐怖を意識していたから、あかりの言葉を聞いた瞬間浩之はカッとなり、あかりを怒鳴ってしまったのだ…。



 浩之の物思いはそこで途切れた。
 通りの向こうから、タクシーが一台来るのが見えた。
 通り過ぎるのかと思いきや、キィと窓の下で車の停まる音。

 うちに客? いやそれは無いだろ。きっと近所のだ。

 そう思ったとき、玄関のドアが荒々しい音を立てて開いた。

「浩之っ!」

 げっ、母さん!
 跳ね起きる浩之だった。
 階下を走る音がした。居間に行き、応接室のほうに行き、玄関まで戻ってくる。
 どたどたどたと階段を駆け上がってくる響き。その足音の主の感情が尋常でないことはすぐに知れた。
 多分、あかりの母親は、浩之の親の勤め先にも電話を入れたのだ。『逃げないように』。何とまぁ、念の入ったことだろう。

 やられた。

 不謹慎ながらそう思った。
 普段のあかりの母親からは想像できない積極果敢な電撃作戦に、浩之は顔を手で覆い、呻いた。格闘家の、畳み掛けるようなラッシュ攻撃を食らった気分だった。
「浩之!」
 ドアが開いた。浩之の母親が仁王立ちになって息を弾ませていた。
「浩之っ、聞こえてるなら返事くらいしなさいっ!」
「か、母さん、何だよいきなり…」
 浩之は作り笑いで迎える。
「何か用? 仕事、忙しいんじゃ…」
「仕事ぉ!? それどころじゃないっ! 浩之、胸に手を当てて、何しでかしたか、よーく考えてみなさい!」
「だから何だよ?」
「あかりちゃんのお母さんから電話あったのよ! 母さん、恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらいだったんだからね!」
 やっぱりばれてる。
 浩之の顔から血の気はとうに引いていたが、更にそれが進んで、顔色が血抜きをしたように真っ白に変わる。
「ちょっとおいでっ!」
 つかつか母親は歩み寄ると、浩之の耳をぐいとひねり、引っ張った。
「イテ、イテ、イテテテ! やめてくれよ母さんっ!」
「馬鹿息子にはいい薬!」
 母親に引きずり降ろされ、居間に連れて行かれる。
 母親はばんとソファを叩き、座れと命じた。
 不承不承そこに腰を降ろす浩之。
「浩之、あなた一体どういうつもり?」
「…」
 あかりにせがまれてやむを得ず、とは言えない。かといって、ただの遊びでしたと言ったら半殺しにされる。
 浩之は首を垂れ、口をつぐんだ。
「あなたねぇ…」
 母親の嵐のような説教が始まった。
 放任が裏目に出ただの、いつも弛んでいるだの、くだらない高額商品を買ってお金をどぶに捨てるような真似をしているだの、母親からボロカスに言われる。
 『高額商品』…それはマルチのことだ。
 受験のとき、浩之は公立に進むことを条件に、五百万円貸してくれと持ちかけた。てっきり車を買うものだとばかり思っていた両親は、息子がメイドロボを購入したのを見て、呆れ果てた。

 母親はマルチに好感を持っていなかった。
 女性型をしたロボットというのが、現役バリバリの仕事人である彼女には、生理的に我慢ならない。メイドロボを見ると、「女性は家庭に引っ込んでいればいい」と言われているような気がするのだ。
 それに、浩之が買ったマルチには、別の意味でも嫌悪感が募った。妙に人間くさい分、媚びられているような気がして、虫酸が走るのだ。
 メイドロボならロボットらしく仕事をこなしていればそれでいい。人間らしい仕草をする必要性など何処にもない。それが、何ともまぁかわいらしく笑い、おドジなところも見せてくれる演出のあざとさよ。何なんだ、このロボットは。人間らしさを追求した? 人間の友達になれるロボット? ハッ、ばかばかしい。何処の思い上がった研究者が考えたか知らないが、その分をわきまえない無節操ぶりには反吐が出る。

 たまりかねた浩之が反論しようと口を開きかけたそのとき、
「お帰りなさい、お母様。お茶はいかがですか?」
 当の『くだらない高額商品』であるマルチが母親の背後に立った。
「…」
 母親は、ああ、メイドロボかという目でマルチを見たあと、何も言わず、トレイの上のコップを取った。マルチの目がちょっと赤いことには気付いていなかった。
 マルチは数歩下がって大人しく控えた。その仕草は量産型マルチとうり二つだった。

 マルチはこの母親が苦手だった。石ころを見るような冷ややかな視線を浴びると、それだけで萎縮してしまうのだった。
 初対面からして失敗だった。浩之の家に来て間もない頃、母親が家にやってきた。ついうっかり、いつもの調子で朗らかに接してしまったマルチに、母親はみるみる不機嫌になっていった。しまいには邪魔だと追い払われた。
 浩之は一部始終を見ていたが、黙ったきりだった。
 ただ、その後の空気は険悪だった。さりげない言い回しにすらつっかかるようになった息子を持て余した母親は、気疲れが高じたのか、こめかみを押さえ、殆ど何も言葉を交わさなくなった。

 母親はのどを湿した後、ふぅと一息入れた。
「で、どうするつもりなの?」
「どうするって…」
「あかりちゃんとのこと。まさか結婚するとか言わないでしょうね」
「え!?」
 驚きの声を上げてしまう浩之。いやそれは誤解だ! その言葉が思わず出かかる浩之だった。
 だが母親は別の意味に…意図を言い当てられて驚いたように…受け取ったらしい。
 彼女は息子をじろっと睨んだ。
 母親は何かと浩之の面倒を見てくれるあかりを好ましく思っている。高校の時は息子をよろしくとお願いしたこともあった。敢えて言えば、あかりは浩之のお嫁さん候補と言ってもいい存在だ。
 しかし時期が悪い。幾ら妊娠したからと言って、彼らは、まだ十九歳になったばかりの、全くの子供ではないか。ままごとではないのだ、結婚は早すぎる。
 母親が思うに、浩之は世間知らずで尻の青い子供なのだ。それが、親の学資で大学に通い、親の仕送りでのうのうと生活しているだけでは飽き足らず、とうとう近所の娘まで孕ませてしまった。
 まぁ何と、何と思慮のおぼつかぬことか。
 母親は慨嘆する。
 自分の行いのツケが、巡り巡って親のところに来るということすら分かっていない。全くどうしようもない子供だ。こんな子が結婚? 私と同じ親になる? 馬鹿げている。すぐ音を上げて破綻するのがオチだ。
 良い機会だ。はっきり言っておかねば。
 母親はきっと視線を張り詰め、浩之を見据えた。
「あなたたち学生なんだからね。学生結婚てのは、考えるほど甘く無いんだからね」
「母さん、それは」
「子供、どうするの? まさか、産むとか言わないわよね?」
「だ、だから」
 浩之はそのとき強い視線を感じた。母親の後ろからだ。
 マルチだった。
 マルチが浩之をひたむきな目で見つめていた。
「その…」
 浩之は言葉を濁した。
「子育ては大変よ? とっても手がかかるし、学生しながらじゃ、やってけない。学生の今しか出来ないこと、一杯あるんだから。勉強だって今しかできないのよ? 堕ろすなら今のうちなんだからね。母さんたちは忙しいから、子育てなんて手伝って上げられないわよ?」
 母親の言葉の圧力がどんどん高まる。
「本当に大変なんだからね? 生まれてすぐはミルクで四時間毎に起こされて、母親は寝不足になるし、むずがればあやさなくちゃいけないし。とってもつらくて、今夢見ているようには絶対行かないんだからね? 学生しながらなんて、絶対うまくいかないに決まってるんだからね?」

 子育てはつらい…。そうなのか?
 浩之は無意識に引っかかったその言葉を反芻している。
 さっきマルチに対して言ったのと同じ内容を母親が言っていることに、浩之は気付かなかった。
 俺のときも、そうだったのか…?
 浩之は考え続ける。

「浩之。中絶なさい」
 無言のままの浩之に母親は言う。
「費用は、仕方ないから出したげる。先方にも一緒に行って詫びるわ。冷たい言い方だけど、浩之、あなたとあかりちゃんのためなんだからね?」
 浩之はうつむいた。母親の言葉より、マルチの食い入るような視線が痛かった。
 浩之の様子に、母親は腰に手を当て、溜息をついた。
「あかりちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「そ、それは…その」
 口ごもる浩之。
 俺が愛しているのはマルチなんだ。
 そう言えるわけもない。言えばあかりを妊娠させたどころの話ではなくなる。
 煮え切らぬ浩之に、母親は少し考え、閃いたという調子で言った。
「じゃあこうしよ? 取り敢えず、婚約という形にしておいて、大学を出たら結婚。これでいいでしょ。子供は邪魔にならないときにまた考えればいいわよね」

 また、母親の言葉にひっかかるものがあった。
 邪魔?
 浩之の心に波紋が走った。
 なんだよ、それ。邪魔って。
 浩之の中で過去の記憶が弾けた。

『母さんたち、プロジェクトの立ち上げで忙しいから、あっちに移るわ』

 両親からその言葉を聞いたとき、正直、覚悟はしていた。
 中学校のときから、父親は家に居ないことの方が多かった。ティーエムディーとかいう大規模システムに関わっているのだと聞いていたが、詳しくは知らない。
 母親も父親と同じ職場で働いていたが、浩之が中学にいる間は、どんなに遅くなろうとも、必ず帰宅してくれたものだ。だがそれは長続きしないことを、浩之は薄々感じていた。
 状況が変わったのは浩之が高校に入ってからだった。まるで肩の荷が下りたと言いたげに母親は本格的に働き始め、家を空けることの方が多くなった。
 極めつけは両親が職場の近くにマンションを借りたことだ。彼らはそこで寝泊まりするようになり、家に帰る頻度は激減した。
『浩之も大きくなったんだから、自分のことは自分で出来るだろう』
 眼鏡の向こうでちょっとすまなそうに微笑む父親と、
『仕事が暇なときは必ず帰るから』
 と出来もしない約束をする母親の前で、浩之はただこういうしか無かった。
『俺は大丈夫だよ。心配しないでいいよ』
 何も言えなかった。寂しいなんて言えなかった。
 男の子だから? 違う。
 嫌われたくなかったのだ。
 中学の頃の母親はいつもイライラしていた。家庭と職場の行き来で疲れ果てているように見えた。そんな母親を見ていたから、浩之はいつも手のかからない子供であろうと努力した。
 浩之の努力は報われた。両親は浩之なら一人でも大丈夫と安心し、自分たちの仕事にますますのめり込むようになる。
 そうして浩之は孤独という報酬を手に入れたのだった。

「…ってなんだよ」
 最初は消え入るような呟きだった。
「何? 聞こえないわ?」
 母親は首を傾げる。
「母さんっ!」
 浩之は拳を握りしめ、目をつぶって叫んだ。
「邪魔ってなんだよ!」
「ひ、浩之?」
「ちょっと待ってくれよ。何でいつもそうやって勝手に決めんだよ!」
 子供が邪魔か。
 だからか。
 だから、こうやって、俺はいつもいつも放り出されていたのか。
 その認識が浩之を憤激させる。
「母さんは、子供が邪魔なのかよっ!」
 母親は絶句した。
 浩之の言う『子供』が誰のことか、分かったからだ。
 哀しい顔をした浩之がそこにいた。捨て犬のような目で彼女を睨んでいた。
「ち、違うのよ? 浩之…別にそんな」
 急にしどろもどろになる母親。
「ばかね、そんなこと誰も言ってないでしょ…」
「子供をものみたいに言わないでくれよ!」
 恨みが入る分、浩之の反撃は凄まじかった。
「俺を捨てて仕事に没頭した母さんが、なんで今さら親面するんだよ! 子供はものじゃない! つじつま合わせで妙なシナリオ作らないでくれよっ! い、いつもそうだ…! 父さんも母さんも自分のことしか考えてないじゃないか! そんな親がなんで、子供をどうこうしろって言えるんだよっ!」
「な、なに怒ってるのよ。私はね、浩之のこと考えて、それで一番いい方法をって言ってるだけなのよ?」
「だから考えさせてくれよ! 本当にそれしかないのか、考えさせてくれよっ!」
 母親はもう何も言い返さなかった。
 ただ、深い溜息を一つついただけだった。

 ピロリロ、ピロリロ。

 沈黙を裂くように、着信音が響いた。
 母親はハンドバッグから携帯電話を取り出すと、それを手で覆うようにして、背を向けた。
「はい、藤田です。…土萌さん? どしたの? うん」
「なにィ!? 落ちた? うそっ!?」
 母親の声が一オクターブ高くなる。
「月野さん出して! 泣いてちゃわかんないでしょ、ええ? 緊急入院?! さっきまで元気だったじゃない? 盲腸かもって…え、今まで薬でごまかしてた!? ちょ、ちょっと、ウチの旦那出して!? はぁ繋がらない!? 今すぐ戻るから待ってて!」
 母親は携帯電話を仕舞い、振り返った。
「浩之」
「あ…?」
「母さん、用事が出来たから戻る。でも、明日、何が何でも先方にご挨拶に行くからね。さっき母さんが言ったこと、浩之も良く考えて。あなた一人が頑張ったって、出来ることと出来ないことがあるんだからね?」
 母親は泣きそうな顔をしていた。
「母さん、浩之がそんな風に思ってたなんて、知らなかった。だけど、母さんは浩之のこと、邪魔だって思ったこと一度もないから。それだけは信じてちょうだい」
 やっとそこまで言うと、母親はハンドバッグを肩に掛け、小走りで居間を出ていった。
 玄関が静かに閉まった。パンプスの靴音が足早に遠ざかっていくのが聞こえた。


   *****


 ソファに腰掛けたまま下を向く浩之の腕に、マルチがそっと手をかけた。
「?」
 顔を上げる浩之。
 マルチが微笑んでいた。
「私、嬉しいです」
「…何が?」
「子供は堕ろさないって、浩之さん言ってましたよね?」
「…違う」
 浩之は静かに首を振る。
「そんなこと、誰も言ってない」
「でも、さっき浩之さんは考えさせてくれって…」
 こいつは、もののはずみとか、言葉の綾ってのが、分からないのかも知れないな。
 浩之は心の中でそう一人ごちた。
「マルチ、そこに座れ」
「は、はい」
 マルチはいつもと違う浩之の言葉に緊張した。言われるまま、浩之の隣に腰を落ち着けた。
「ずっと一人だった」
「え?」
 最初は独り言のように聞こえた。思わず聞き返すマルチ。
「俺のことだよ。俺は、お前が来るまで、ずっと一人だった。正直言うと、少し寂しかった」
 浩之は何を言いたいのだろう。
 マルチの顔を困惑が覆った。
 浩之はそんなマルチに優しい笑顔を見せた。
「今は違う。俺はもう一人じゃない。家族が出来たんだ。それがお前だ、マルチ。お前がいれば、俺は寂しくない。だから、子供のために出ていくとか、捨てられてもいいなんて言わないでくれ。俺を一人にしないでくれよ」
 そんな…。言いかけるマルチを押しとどめ、浩之は続ける。
「マルチが子供を大切にしたい気持ちは分かる。でも俺は、お前一人だけ見つめていたい。俺にとって大切なのはマルチ、お前だ。お前さえそばに居てくれたら、俺は何も要らない。な、マルチ、約束してくれよ。いつまでも俺の側に居るって。死ぬまで一緒に居るって」
 浩之はマルチの耳元でささやく。
「借金を返し終えたら、何処か遠くの町に行こう。誰も知らない場所でさ、二人きりで暮らそう。もう一度やり直すんだ。な? マルチ?」
 浩之の言葉は魅惑的だった。
 マルチは軽い電気ショックを浴びたように思考が飛ぶのを感じた。
 何もかも忘れて、大好きな浩之とずっと一緒に暮らす。
 この土地を離れて、もう一度最初からはじめる。
 それもいいかも知れない。
 マルチは心の中で呟いていた。
 何処か遠いところにある、楽園のような場所。そこへ行けば、マルチたちを咎める者は居ないかもしれない。ひょっとしたら、マルチを開発した研究室の人たちのように、笑顔で迎え入れてくれるかもしれない。
 うなずいてしまいそうになったマルチを引き戻したのは、あかりの声だった。

『ごめんなさい…』

 その声は、電話の向こうでむせび泣いているだろうあかりの姿を、マルチの思考に焼き付けていた。
 あかりさん…。
 浩之はあかりをどうするつもりなのだろう。
 急に落ち着かなくなる。
 訴えるように見上げたマルチに、浩之はただ微笑みを返すばかりだった。
 浩之のその無邪気さが、つかの間の幸福な気持ちを空しいものに変えていく。
 多分浩之はあかりも子供も無かったことにするつもりなのだ。
 マルチの心に拒絶のシグナルが灯り始めた。
 リセットボタンを押したように、何もかも無かったことにする。
 浩之の言葉に従えば今までのことも全て無かったことに?
 そんなことが本当に可能に?
 マルチの心にまた一つ、悲しい痛みが甦った。

 あれはいつのことだったか。
 そう、紅葉の季節だった。
 遠く箱根まで足を伸ばした。
 その帰り道、鄙びた場所にあるレストランに立ち寄った。
 国道に面していたそのレストランは、近くに住む人々で意外に賑わっていた。
 マルチは食事が出来ない。食べ物が消化できないから、水しか飲めないのだ。
 だから浩之は飲み物だけ注文した。ワインの小さなボトルを注文し、気持ちだけマルチのグラスに注いだ。
 マルチはほんのり赤く染まったグラスを捧げ持ち、浩之のグラスと合わせて乾杯した。
 今日の良い思い出に。浩之の瞳がそんな風に語りかけたように感じた。
 そのときだった。
『メイドロボがレストランに居るよ!? お食事してる!』
『これっ、指差しちゃいけません』
『ははは。あいつおかしいんじゃないか』
『お父さん、もう、酔っぱらってるんだから』
『なんだよ。ほんとのことだろ』
 二人は、隣に居た家族連れから、心ない言葉を浴び続けた。
 マルチは恐ろしかった。
 浩之の顔を見るのが恐ろしかった。

 そう、夢は夢でしかない。
 現実は厳しい。現実がマルチに辛いものである限り、場所を何処に移そうと、その辛さは変わらない。
 マルチが浩之の恋人として傍らに居る限り、そして浩之がマルチを人間の女の子として扱おうとする限り、社会はマルチを拒絶するだろう。
「浩之さん」
 マルチは改まった口調で浩之の名を呼んだ。
「私を愛して下さって本当にありがとうございます。…でも、嘘は駄目だと思いますよ?」
「嘘って何のことだよ」
 マルチは浩之の瞳をまっすぐ見つめた。
 少しためらった後、言った。
「浩之さん、私のこと、お母様に言えますか? お母様でなくてもいいです。他の人に、私たちのこと、言えますか?」
「それは」
 一瞬浩之は答えに詰まる。
「ね?」
 マルチは哀しく笑った。
 マルチの変化に浩之の顔色が変わる。
「言えるさ! 言えるって!」
 うわずった声で断言する浩之に、マルチは首を振った。
「浩之さんの気持ち、分かります。私も恐いんです。みなさんから責められるんじゃないかって」
「違う、そんなの関係ないだろ、マルチ!」
「みなさんから反対されるんですよ? メイドロボと一緒にいるのはおかしいって言われ続けたら、浩之さんだって」
「周りは関係ねーよ!」
「でも」
「でも、じゃ」
「聞いて下さい」
 マルチは浩之の言葉を遮った。
「私とのこと、まわりのみなさんに知れたら、浩之さんの人生は滅茶苦茶になっちゃうんですよ? みなさんから色んなこと言われて、泣いちゃいたいくらい、とってもつらい目に遭うんですよ?」
「し、しかし、それは」
「私はつらいです。浩之さんがそんな風に傷つくの、見てるだけでつらいです」
「マルチ…」
「私は浩之さんに幸せになって欲しいんです。だから、これ以上一緒に居るのは、もう…」
 浩之はむっつりと押し黙った。
 マルチが真剣だということは浩之にも分かる。浩之を思ってくれていると言うことも分かる。
 だからといって、マルチの言葉をそのまま受け入れられるのか? マルチを捨てろと? そしてあかりと…?
 押し寄せる絶望感に心ひしがれ、浩之は髪を掻きむしる。
 そんな未来、一体何の意味があるんだ?
 浩之は、一人暮らしの寂しさを思い返した。
 マルチを失ってしまったら、浩之はまた一人になってしまうのだ。たとえあかりと結婚して子供と一緒に暮らしても、彼らに対して何の感慨も持ち得ない以上、一人で居るのと同じなのだ。心に空いた隙間は埋められないだろう。
 その一方で、浩之はマルチを失ったことを後悔し続ける。恐らく一生の間。
「…マルチ」
 浩之は力無く呟く。
「お前、俺を捨てるのか…?」
「違います。そんな、捨てるんじゃありません…」
「一緒じゃねーか! 俺を捨てて何処に行くんだ!? そんなの認めねーぞ! 絶対に嫌だ!」
「浩之さん!」
 もう聞きたくない。聞きたくない。浩之は耳を塞ぎ、喚いた。
「駄目だ! 絶対許さないからな! マルチ! これは命令だ! 俺の側から」
 離れるな…。
 浩之の言葉は急に弱々しいものに変わる。
 命令。それは浩之が一番口にしたくない言葉だったのだ。
 主人から命令だと言われれば、マルチは従うしかない。何故ならマルチはメイドロボなのだから。主人への忠誠を義務づけられた存在なのだから。
 突然、浩之は意味不明の叫びを喉から迸らせた。
 何度も何度も壁を殴りつける。
 ゴッ。ゴッ。
 鈍い響きのたび、赤いものが白い壁面に飛び散った。
 マルチは真っ青になった。
「や、止めて下さい! 止めて、浩之さん! 怪我しちゃうっ!」
 浩之の腕に飛びつくマルチ。浩之が壁に拳を叩き付けるたび、投げ飛ばされそうになりながら、それでも必死にしがみついていた。
「浩之さんの側に居ます! 居ますからもう止めて下さいっ!」
 最後は泣き声だった。
「もう、止めて下さいっ…お願いします…!」


   *****


「くそっ。いてぇ…」
 ぼやきながらも、オキシフル液で消毒手当を受けている間、浩之の顔は晴れやかだった。
 ピンセット先の脱脂綿が浩之の傷に触れるたび、シュッ、という微かな泡の音が起こる。
「うう、しみる…」
「大丈夫ですか?」
 大げさにうめく浩之に、マルチは心配そうに聞く。
 浩之は照れ臭そうに笑った。
「何だよ。大丈夫だよ。ほら」
 そう言って、両手を握ったり開いたりしてみせる。骨はおかしくなっていないようだった。
 マルチはほっとした様子で、薬箱に器具をしまい始めた。
 戸棚に薬箱を戻しに行くマルチの後ろ姿を眺めながら、浩之は何気なく訊ねた。
「なぁ、マルチ。これからも俺と一緒に居るんだよな?」
 浩之にとって、この問いかけに余り意味はない。
 何故ならさっきマルチは約束したのだ。いつまでも浩之の側にいる、と。
 何と言うことはない、ただの形式的な再確認の筈だった。
 浩之の目は、しかし、次の瞬間、怪訝そうな光を帯びる。
 薬箱を置こうとしていたマルチの動きが一瞬止まったのだ。
 浩之が期待した答えは返ってこない。
「おい、マルチ?」
 マルチはちらっと浩之の方を見た。
 悲しそうな目をしていた。だがそれだけではなかった。非難めいた色も其処にはあった。
 マルチは戸棚をパタンと閉めると、無言で居間を出ていった。

 …何なんだよ。

 今まで見たこともないマルチの振る舞いに、浩之は不安に駆られた。
「おいマルチ?」
 小さな足音が階段を登っていく。
「マルチ。どうしたんだよ」
 浩之はその後を追って二階に上がった。
 マルチは浩之の部屋に居た。
 布団を上げ、シーツを引き剥がそうとしていた。
 力任せに引っ張るのでなかなか取れない。
 ドアにもたれ、マルチのそんな後ろ姿を見ていた浩之は、苦笑しつつ近づいた。
「駄目だろ、マルチ。そんな風にしちゃ」
 マルチに手を貸そうとした浩之を、マルチは無視した。
「一人でやります」
 何の抑揚もない言い方だった。マルチは浩之の方を振り返ろうともせず、シーツを引っ張り続ける。
 ようやく取れた。
 青と白の二色柄のそれをくしゃくしゃっと丸め、小脇に抱える。
「どいて下さい」
 マルチは浩之を押しのけ、部屋を出ていく。
「マルチ、怒ってるのか?」
「…」
「なぁ、どうしたんだよ」
 マルチは黙ったまま、洗面所の洗濯機にシーツを放り込んだ。スイッチを入れると踵を返す。掃除機のホースを手に取ると、ころころ転がしながら居間に向かった。
「マルチ! 何とか言えよ!」
 浩之の苛立った声に、マルチはようやく立ち止まった。
「さっき、あかりさんから電話がありました」
 ちらっと玄関の方に視線を走らせ、背中で続ける。
「とても悲しんでおられました。ごめんなさいって、何度も」
「あかりが?」
 浩之は口の端を曲げた。
「分かった。あかりには後で俺が話をする。マルチが話をする必要はない」
「本当にそれでいいんですか?」
 マルチは振り返った。すがるように問いかける。
「浩之さん、あかりさんに何て言うんです? 何て言うつもりなんですか?」
「マルチには関係ない。…これは俺とあかりの問題だっ!」
「そんな…」
 マルチは次の言葉を断ち切られてしまった。
 これは俺とあかりの問題だ。
 そう言ったとき一瞬閃いた浩之の表情。それが意味するところを、マルチは長い間考え込んでいた。
 何度も迷い、言いかけてはためらう。それを繰り返した後、マルチは漸く心を決めたようだった。
「浩之さん」
 マルチは言った。
「私は浩之さんのお側にいます。でも、あかりさんも幸せにして上げて下さい」
「な、なに?」
「あかりさんは浩之さんのことを愛しておられます。きっとあかりさんも、浩之さんと一緒に居たいんです」
 マルチは笑った。笑いながら泣いていた。
「私はあかりさんが好きです。浩之さん、あかりさんと結婚して下さい。私、浩之さんとあかりさんのお子さんが見たいです。浩之さんとあかりさんのお子さんをずっとお世話したいです」
「駄目だっ!」
 熱湯に触れたように浩之は激しく反応した。
「そんなこと、聞けるか! マルチ、もういい加減、あかりと子供のことは忘れろ! 俺のことだけ考えて生きるんだ!」
 マルチの顔がこわばった。
「…」
 ぱちゅん!
 マルチの内部で小さな音が弾けた。
 今までにないブレーカー動作だった。それによって、主電源ではなく、マルチの思考回路の一部が遮断された。
 マルチの表情が静止する。
 瞬き一つ、身じろぎ一つしない。
 浩之はマルチの異変に気付いた。
「おい、マルチ…?」
 マルチの瞳は無機質に浩之を捉えたまま。
「マルチ?」
 何か反応が返ってくるものと思っていた浩之は、ショックで思わずよろけそうになった。
 彼がそこに見いだしたのは、機械の表情をするマルチ。
「マルチッ!?」
 浩之の呼びかけにも、マルチの瞳は何の感情も浮かべてはいない。二つの瞳の形をしたカメラが、浩之に焦点を合わせるだけだった。
「ご主人様。命令を繰り返します。これ以降、マルチは、ご主人様のことだけを考えます。よろしいですか?」
 その声は冷たかった。
 まるで街に沢山居るメイドロボのように。
 全ての感情をはぎ取られ、浩之との愛の思い出までも奪われてしまった、あの量産型マルチのように。
「…」
 浩之の肩が落ちた。
 何度も「そうだ」と言いかけ、口ごもった。
 込み上げる感情に頬が引きつった。
 たまらず天井を仰いだ。
 しばらく見上げ続けていた。
 やっと、口が動く。
「…どうして」
 浩之の声は掠れ、くぐもる。
「どうして、お前は」
「ご主人様の幸せを願うのが、私たちロボットの役目です」
 マルチの無機質な言葉は、何処か揺らいで聞こえた。

 これは悪い夢だ。

 浩之はぼんやりそう考えていた。
 マルチはこれ以上浩之との生活は続けられないと言うのだ。

 何故? 何が悪い?

 浩之は言葉を思い付けぬまま、マルチの形をした小さな機械を胸に抱き寄せた。放心したまま、その髪をなで続ける。
 碧の瞳が閉じられた。
 涙がすぅと流れた。


   *****


 突然、インターフォンが鳴った。
 マルチは自分を取り戻したようだった。慌てて浩之から離れる。
 インターフォンのところにぱたぱた走っていくと、何かやり取り。
 浩之は、インターフォン相手に何度もお辞儀するマルチをぼんやり見つめていた。
「新聞屋さんの勧誘でした」
 袖で顔を拭いながら報告するマルチ。まだ目が潤んでいた。
「いつもいらっしゃるんですけど、お断りしてるんです。お金がありません、家の人は留守ですって」
「…」
 浩之は聞いていなかった。さっきのマルチの言葉を考えていた。
 マルチはあかりと結婚しろと言う。そして自分はあかりの子供を世話したいと言う。

 …冗談だろ。

 浩之の中にひねくれた思いがこみ上げてくる。

 何で俺があかりと。
 あかりを嫁さんにして、好きな女をベビーシッターにするってのか?
 こいつ、それで俺が幸せだって、ほんとにそう思ってるのか?

 腹が立ってきた。
「おいマルチ、確認するけどな、結婚の意味、分かって言ってるのか?」
「一緒に暮らすって事でしょう?」
「それだけじゃねーよ」
 浩之は言った。
「夜が来ても、お前とじゃなくて、あかりと一緒にいるかも知れねーんだぞ」
 マルチは黙り込んでしまった。
 何かを考えている様子。
 浩之は溜息をついた。
「ほらみろ。イヤだろーが」
「いえ、別に構いません」
 マルチの表情は思いの外明るかった。
「あかりさんは浩之さんのことが大好きなんですよ? 私だけ浩之さんと一緒にいるのは申し訳ないです」
「おいおい!」
 何だよそりゃ! 両手を上げる浩之だった。
「お前、ほんとにそれでいいのかよ」
「はいっ」
 にっこり。
 浩之は舌打ちした。大げさに頭を抱える。
「で、お前の意見の何処に俺の気持ちが入ってるんだ? いくらお前が良くても、俺は納得出来ん。大体、ここは外国じゃねーんだぞ? 嫁さんは一人、そう法律で決まってるんだ」
「でも、私と浩之さんは結婚してないです」
「そ、それはそうだけど、心情的に、だな」
「浩之さんは、あかりさんがお嫌いですか?」
「好きとか嫌いとか、そういうことじゃ…」
 浩之はちょっと口ごもる。
「お前のことを考えるとさ…。もし結婚したとしても、色々つらいことになると思うぞ。さっきも言ったけど、ひょっとしたら、あかりがお前を追い出そうとするかも知れねーし」
「大丈夫です」
 マルチには確信があるようだった。
「あかりさん、この前私に言って下さいました。浩之さんと暮らし続けるためにいい方法を一緒に考えようって、そう言って励まして下さいました。あかりさんは本当にお優しい方です。私、あの方が家族になって一緒に暮らして下さったら、どんなに楽しいかと思います!」
 場違いと知りつつも吹き出してしまう浩之。
「お前、やっぱり分かってないだろ」
「え?」
「お前が幾ら良くても、あかりは内心じゃ、お前と暮らすのいやがっているかも知れねーぞ? 本音と建て前ってのが、人間にはあるんだからな」
「…」
 マルチは困ったように眉を寄せた。
「あかりさんが嘘を言ってるんですか?」
「そうじゃねーけど、そういうこともあるんだよ。大体、嫁さんが二人居て旦那を仲良く半分こなんて、いつの時代の話なんだよ。フツー、そんなの絶対認めねぇよ」
 ところがマルチはめげなかった。
「でも、あかりさんなら、話せば分かって下さいますよ」
「その自信の根拠が知りたいね」
 半分投げやりな口調である。
 噛み合わぬやり取りに、浩之はほとほと疲れ果ててしまったのだ。大きく背伸びをすると、床の上に大の字にひっくり返ってしまった。
 マルチは浩之の頭の横に正座すると、軽く浩之を促した。
 マルチの膝枕に頭を載せ、気持ちよさそうに目を細める浩之。
「ねぇ浩之さん」
 マルチは浩之を見おろし、ささやくように言った。
「さっき、私言いましたよね? あかりさんが励ましてくれたって」
「ああ」
「その少し前なんですけど、私、壊れちゃうところだったんです」

 一瞬間があった。

「な、なに?」
 閉じかけていた浩之の目がばちんと開いた。
「今なんて言った? 壊れるって?」
「あ、違うんです」
 マルチは慌てて言い足した。
「そんなに大した事ではないんです」
「ばか! 大したことだろが!」
 膝枕の上から浩之が怒る。半信半疑な様子ではあったが。
 マルチは浩之の髪を撫でながら続ける。
「違うんです。その、あかりさんと交差点で信号待ちをしてて、ダンプカーが通るのを見てて思ったんです。このまま飛び込んだら、あっと言う間に壊れちゃうんじゃないかなーって」
「それで?」
「気が付いたら、足が前に出てたんです」
「ほぅ」
 浩之の顔がどんどん険しくなる。
「そしたらあかりさんが引き戻して下さったんです」
「おい、まるっきり自殺じゃねーか、それ」
「そ、そうでしょうか?」
 戸惑いながらマルチは言った。
「そんなつもりは全然なかったんですよ? ただ、色々考えてて…あかりさんと公園にいたとき、親子連れの方をお見かけしたんです。ああ、家族っていいなって思ったら、急に悲しくなっちゃって」
 微笑むマルチ。
「どうして自分には家族が出来ないんだろうと思うと、とっても胸が苦しくなっちゃって。何だかどうでもよくなっちゃって。…気が付いたら、私…」
「マルチ」
 浩之の手がマルチの頬に触れた。
「お前…」
「私が言いたいのはそういうことじゃないんです。あかりさん、ご自分がおつらいのに私のことを気にかけて下さって…私のために…でも私は…私はあかりさんに何もして差し上げられない…」
 マルチの言葉には深い悲しみがにじんでいた。
「…浩之さん、こういうとき、どうすればいいんですか?」


   *****


 静寂に満ちた家の中に、裏手から微かな声が忍び込んできた。
 お母さん、お母さん、おやつちょうだい。
 子供たちの声だった。
 マルチは居間に置かれた時計に目を向けた。
 三時を少し回っていた。
「浩之さん」
 浩之に顔を近づけると、マルチはささやいた。
「お買い物に行きます。何がいいですか、浩之さん」
「…付き合う」
 無愛想な浩之の一言に、マルチはにこっとする。



 マルチは背後で浩之が門を閉める音を聞いていた。
 暑い夏の午後だった。
 蝉があちこちでやかましく鳴き声を立てていた。
「…待たせたな」
「いいえ。全然待ってません」
 マルチはかぶりを振った。
 嬉しそうにしていたマルチだったが、通行人の話し声に気付くと急に笑みを消し、遠慮がちに浩之から距離を置こうとした。
 浩之は顔を背けた。
「…ほらよ」
 そう言って、浩之はマルチに麦わら帽を突き出した。
 つばの広い帽子をかぶると、センサーアンテナが隠れる格好になる。遠目には人間の女の子のように見えるのだ。
 最初は不思議そうだったマルチの目がはっと見開かれ、それからほんの少しだけ潤んだ。
 それはまるで、居場所をようやく探し当てた、迷子の小鳥のようだった。
「浩之さん…」
 浩之は小さく鼻を鳴らした。
 マルチが帽子をかぶったのを見計らい、訊ねる。
「で、どこに行くんだ?」
「いつものスーパーに」
「たまには別の場所にしようぜ?」
 マルチの足が止まった。
 マルチは小首を傾げ、では何処に行きましょうか?とたずねた。
 ジーンズの尻ポケットに手を突っ込んだ浩之は、面倒くさそうに、
「歩いていれば、何か見つかるだろ」
「そうですね」
 浩之の大雑把な言い方が何だかおかしかった。口に手を当ててくすくす笑うマルチだった。
 二人は歩き始めた。
 横断歩道のところに来た。
 あの日、マルチがあかりに救われた場所であり、浩之があかりを助けた場所であった。
 信号待ち。
 陽炎の揺らぐ道を、ひっきりなしに車が往来していた。
「なぁマルチ」
 浩之は空から視線を戻した。
「いっそこのまま逃げるか。…そうだな、恋の逃避行」
 おしまいの方は、おどけたような、明るい言い方だった。
「そんな…」
 困った表情を浮かべるマルチ。
 冗談だよ。深刻にとるなよ。浩之はそんな風にマルチの帽子をぽんと叩いた。
 そのとき浩之が見せた優しい笑顔に、マルチは思わず、
「はいっ」
 と大きく答えていた。
 信号が青に変わる。
 歩き出そうとしたとき、突然、浩之がマルチの手を握った。
 驚いて浩之を見上げるマルチ。
 浩之は遠くに目をやったままだった。
 浩之に手を取られたまま、どんどん歩いた。
 何度か人とすれ違った。そのたび、マルチは帽子をしっかり押さえた。
 帽子の影にある瞳は不安そうに後ろを振り返り、向こうがこちらを見ていないのを確認する。
 浩之は黙ったままだった。
 広い車道を避け、住宅街の中の道に入った。
 公園の横を通り抜け、煉瓦風タイルを敷き詰めた遊歩道を行く。
 並木が風にざわめく。
 それらの影が、熱いアスファルトの路上に踊る。
 マルチは目を細め、人影のまばらな午後の白い風景に見入った。
 こんなに歩いたことはなかった。いつもは歩いてせいぜい十五分程度といったところだ。遠くに行くときは電車を使っていた。…随分前の話だけれど。
 それにしても一体何キロ歩いたのだろう。
 マルチはしかし、不安を感じなかった。
 何故なら、そばには浩之が居るから。彼がマルチと一緒にいて、手を握っていてくれるから。

 ふと、気付いた。

 車が大きな音を立ててそばを通り過ぎるとき、浩之の手に力が込もるのだ。
 まるで守られるように引き寄せられるたび、マルチは泣いてしまいそうになった。浮かんだ涙をそっと袖で拭った。
 このまま逃避行もいいかも知れない。
 そんな風に思った。
 空を見上げた。
 青い青い空だった。遙かな高みに、蜘蛛の巣を散らしたような雲が流れていた。風が吹くたび、蝉の声が後ろへと消えていった。

 いつまでも、いつまでも、こうして浩之の側にいたい。

 それは、ずっと抱き続けていた、密やかな願い。

 もしもそれが叶うなら。
 もしも…本当にそれが叶うのなら。

「マルチ」
 浩之は振り返らない。
「手が痛い」
「ごっ、ごめんなさい」
 知らないうちに、強く握り返していた。
 慌てて離そうとしたマルチの手を、浩之の手がまたしっかりと掴み直した。
「ずっとだ。ずーっと一緒だぞ」
「…はいっ」
 マルチが鼻をすするのを浩之は聞いていたが、何も言わなかった。


   *****


 急に左右の家並みが切れた。
 小さな草地が目の前に広がっていた。その先は土手だった。
 二人は風にそよぐ青い草をかき分け、土手を上った。

「あっ」

 土手の向こうは川だった。鈍色の水がゆったりと流れていた。
 遠くの鉄橋を、青いストライプの入った電車が、河原の空気を騒がしながら渡っていくのが見えた。鉄橋のたもとにはボートが幾つも浮かんでいて、川の流れを楽しんでいるようだった。
「こんなところに川があったなんて…」
「電車で見たことあるだろ?」
 マルチは言葉を返さず、川辺へと歩んだ。そっとかがみ込んで、手を水に浸した。
 そこに居た小さな魚の群が、算を乱して逃げ散っていった。
 初めて見た、魚たちの微笑ましい世界。
 マルチは周囲を見回した。
 葦原が風にうねり、さざめいていた。
 それをかすめるようにして、あれは何という種類だろう、綺麗な白い鳥が弧を描いて舞い降りてきた。続いて二羽、三羽。水辺にくちばしを入れては、翼をはためかせ合い、不思議な声で鳴き交わしていた。
 それもまた、マルチが経験しなかった世界だった。
「私…何も知らないです」
 マルチは麦わら帽子をとった。
 風に髪をなびかせながら、か細く漏らした。
 少し寂しげだった。
 浩之はマルチの傍らに立った。
「マルチがうちに来てまだ一年だろ。先は長いんだから、これからどんどん覚えていけばいい。それに、俺だって知らないことは一杯あるよ」
 浩之は平たい石を拾った。
 横手に振りかぶり、投げた。
 ぱしゃっ、ぱしゃっ、ぱしゃっ。
 水切りの音が川面を遠ざかっていった。
「な、おもしろいだろ?」
 次の石を捜す浩之。
「浩之さんはお上手ですね」
「お前もやるか、マルチ?」
 マルチは首を左右に振った。
「…そうか」
 言いながら浩之の腕が空を切る。
 ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃっ。
「お、やりぃ。四回ジャンプ」
 浩之はぱちんと指を鳴らす。
「見てろよ。どんどん行くぞ」
 マルチは小さく頷いた。
 浩之の後ろにしゃがみ、膝の上に頬杖をついて、浩之の姿をじっと見守っていた。
 何度投げただろう。
「マルチ」
 突然浩之は背中でマルチを呼んだ。呼びながらモーションに入った。
 黒い影が浩之の指先から離れ、水面を跳ねる。
 ぱしゃっ、ぱしゃっ、ぱしゃっ。
「さっきはごめんな」
「そんな。謝らないで下さい。浩之さんは悪くないです」
 浩之は別の石を拾い、構えた。
「俺って最低だわ。…軽蔑したろ?」
 その言葉には自嘲の響きがあった。
 マルチは黙って遠ざかる水音を追った。
「ホントうまくいかねーよな。世の中ってさ」
「…」
 また投げた。
 タイミングが狂っていた。
 浩之の石は放物線を描いて、惨めにも川面に墜落した。
「あれっ、飛ばねーな。なんでうまく飛ばねーんだ?」
 再び投げる。
 失敗。
 浩之はむきになった。
「くそ!」
 投げる。
「くそ、くそっ!」
 投げ続ける。
 何度も何度も。
 空しい水音が重なるばかりだった。
 マルチは耳をかたく塞いだ。
 浩之が水面に石を叩き付けるたび、思考がかき乱された。
 浩之の手が止まる。
「…くそっ!」
 とうとう諦めた。
 力無く垂れ下がった手から、石の黒い影が落ちた。
 浩之は肩で荒く息をついていた。
 その背中はひどく小さく見えた。
「何でだ…何でっ…!」
 歯噛みするようなその呟きに、やり場のない悔しさが滲んでいた。
 マルチは、ぼやける目で、川面に広がった波紋が崩れていくのを、ただただ見つめていた。



 橋桁を揺らす列車の響きが遠かった。
 対岸に聳える高層マンションに夕陽が照り映えて、まるで黄金の壁のように綺麗だった。
 気温も下がってきたようだった。
 暗がりに沈み始めた河原を見回した浩之は、のろのろと腰を上げた。
 一緒に立ち上がろうとしたマルチだが、急に足がふらついた。
 慌てて抱き支える浩之。
「おいっ、しっかりしろマルチ!」
「…浩之さん」
 マルチの言葉は弱々しい。
「バッテリか?」
「は、はい…そろそろ電圧が」
 浩之はマルチに背を向けてしゃがみこんだ。
「ほら、おぶされ」
「すみません…」
 マルチは浩之に素直に従った。
 浩之はマルチを背負いながら、
「マルチ。お前、重くなったな」
「えっ!?」
「と言いたいとこだけど、軽いな」
 ひどいですぅ、とマルチはむくれた。
 浩之は笑った。
 笑いながら、歩き始めた。
 土手の上で、もう一度河の方を振り返った。
「マルチぃ」
「…はい?」
「考えてみると、今日はずいぶん仕切ってるよなー、お前」
「す、すみません」
「…いいけどよ」
 あ〜っ、と浩之は思いきり悩んだ声を出した。
「さっきの件な、俺にも考える時間をくれ。あかりは嫌いじゃない。つーか、お前と出会わなかったら、あいつと結婚してたような気もする。そういう気はするけど…」
 浩之は溜息をついた。
「俺の気持ちの整理がつかん。お前の言ってるのは、嫁さんを二人持てってことなんだぞ? 分かってるか、マルチ?」
「あかりさんと、お子さんのためだと思って下さい」
「お前にそう言われると、振られたみたいで俺はとても寂しい」
「私は浩之さんが大好きですよ? どんなことがあってもそれは変わりません」
「じゃ、せめて焼き餅やくくらいしろ」
 マルチは微かにくすっと笑った。返事の代わりに、浩之のうなじにコツと額を当てた。
 なんだかなぁ。ぼやく浩之。
 そんな浩之をなだめるように、マルチは浩之の横顔を追いかけ、そっと頬を押し付けた。
 浩之は立ち止まる。頬で受け止めたマルチの温かさを、黙って味わい続ける。

 昼間の炎熱を微かに残す風の中、二人の想いは、しばし一つに溶け合っていた。

「…なぁ?」
 浩之は気弱な声を漏らした。
 マルチの帽子を拾い上げると、自分の頭に載せた。
「お前、さっきからあかりが賛成するみたいに言ってるけど、あかりが何て言うかわかんないだろ…。どうすんだよ、三人で暮らすの、反対されたら」
「大丈夫です」
 マルチはどこまでも一直線だった。
「あかりさんなら絶対分かって下さいます。ほんとに大丈夫です」
 余りに確信に満ちているその言葉に、浩之は遂に折れた。
「…分かった。お前の勘に賭ける。話すだけは話す。いつか」
「早い方がいいと思います」
「だから、仕切るなよ」
「ごめんなさい」
 マルチは浩之の背で目を閉じた。電圧低下の警告シグナルが、マルチの意識内で明滅を始める。そろそろ声を出す機能も停めねばならない。
「ったくよ…」
 夕暮れの空の下、静かになったマルチを背負い、浩之は家に向かって歩き始めた。


【続く】

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