LostWaltz

 

第5話

 

Ver.1.01

 

制作: GRNVKA

 

 

 

 ぽーん!
 警告音が鳴り、シートベルト着用のランプが点灯した。
『本機はあと二十分ほどで那覇空港に着陸いたします』
 機内アナウンスが流れる。
 日本航空所属のエアバスA340は、その大きな翼を傾かせ、旋回を開始した。窓にキラキラ光る海が大写しになる。
「わぁっ!」
 マルチがはしゃいだ声を上げた。窓に貼り付かんばかりにして、眼下の青い海に見入っていた。海を見るのは生まれて初めてなのだ。
「すごいです! ね、浩之さん、あかりさん!」
 隣に座っていた浩之とあかりは顔を見合わせた。まるで子供のようなマルチに、微笑みを浮かべる二人。
「あとで海に行こうな」
 そう言って、くしゃくしゃとマルチの髪を撫でる浩之だった。気持ちよさそうにしているマルチを、あかりは目を細めて見守っていた。

 結婚式から少し日を置いての新婚旅行だった。

 最初は、台湾に行くつもりだった。
 それが出発一週間前になって、旅行会社の担当者から電話がかかってきた。
 ココム規制という聞き慣れない輸出規約が、メイドロボの中国への持ち出しを制限していた。中国の属領となった台湾には世界有数の電子産業が存在しており、今更メイドロボに輸出規制をかけてどうなるものでもなかったが、法律は法律だった。
 ともかく、マルチを連れて行くには、メイドロボの仕様や搭載技術品のリストを添付した申請書を山ほど出さねばならないことが分かると、浩之は面倒はごめんだとばかり、あっさり行き先を沖縄に変更したのだった。

 ま、日本国内の方がコンセントの電圧とか考えなくて済むしな。

 浩之は、負け惜しみとも取れるような、そんなことを言ったが、案外悩みが減ってほっとしているのかも知れない。マルチの電源のことを浩之は心配していて、何度も来栖川電工のサービスセンターに電話しては、国内用の充電器で大丈夫なのかと問い合わせていたからだ。
 あかりは視線を落とした。左手の薬指を大事そうにみつめる。そこにはプラティナの指輪がはまっていて、慎ましいながらもダイアモンドが一つあしらわれていた。
 それは浩之が贈ってくれたものだ。
 指輪の渡し方が何とも浩之らしく、そのときのことを思い出すたび、おかしいような、切ないような、温かな気持ちになるあかりだった。



 大学の講義が終わって一緒の帰り道、公園の中を歩いていたときのことだった。
『お前、これ』
 ぽんと渡された小箱を開けたあかりはびっくりした。
『どうしたの、浩之ちゃん、こんな高いもの』
『一応、指輪』
『それはそうだけど』
 言いかけて気付いた。
『えっ、もしかして?』
 あかりは無意識に、自分の薬指を撫でていた。
 浩之は苦笑しつつ、
『ほら、俺たちの親が色々買ってくれただろ? あんまりいい気分じゃなくてさ』
『…』
 思えばおんぶにだっこだった。あっと言う間に結婚が決まったため、それにかかる費用や物品は結局親たちが負担することになった。
 親たちに一体幾ら遣わせたのか。
 あかりは計算しかけたことがあるが、恐ろしくて途中で止めた。式の費用から何から合わせると、五百万は優にかかったろう。
 出来ればこれ以上は頭を下げずに済ませたいが、片足を踏み込んでしまってどうにもならないでいる浩之と、両家から生活費やら物資やら援助して貰っていて、既に頭が上がらないあかりにとって、その話題は禁句だった。
 指輪での一悶着も思い出す。
 愛娘が嫁ぐことに決まったときから、父親は妙に意固地になってしまい、浩之側の両親の丁重な申し入れにも関わらず、『娘のものは俺が買う』の一点張りだった。『あなたのわがままで、お話をぶちこわしにしないで』と母親が一喝したが、効果無し。父親は、結婚に反対の気色を見せた浩之の両親に、わだかまりを感じていたのだろう。
 割を食ったのはあかりの母親だった。駄々っ子のように屈折してしまった父親と、過度に謙虚になった浩之側の両親との間で、彼女は、関係を取り繕うのにひどく苦労していた。『こんなに物わかりの悪い人だとは思わなかった』とブツブツこぼしながら、自分の夫に藤田家の申し入れを受けるよう何とか説得し、夫の要求については、何か別のものを買ってあげればいいでしょう、と代案を提示した。
 浩之にしてみれば、親たちの思惑で、婚約指輪まで買って貰ったことが我慢できなかったようだ。だが、無い袖は振れない。何しろマルチの購入代金もまだ返し終えていないのだ。今や浩之の貧窮ぶりが手に取るように分かるようになったあかりにとって、この指輪を買うための金をどこから工面してきたのか、全くの謎だった。
『ま、そういうことだから。持っとけよ』
『浩之ちゃん…』
 あかりは、そんな素っ気ない言い方をする浩之を、瞬き一つせず見つめ続けた。
 浩之は照れてそっぽを向く。
『通販ものだぞ。安物だからな』
 下手な嘘だ。このブランド、通販じゃ絶対扱ってないのに。
『…』
 浩之ちゃんの意地っ張り。
 あかりは指輪の箱を痛いくらい抱きしめていた。
 でも、嬉しい。
 あかりは有り難うと言おうとしたが、代わりに出てきたのは涙だった。
 突っ立ったままぐしぐしと泣くあかりに、浩之は慌てた。
 ちょうど通りすがった母校の高校生たちに、『あー、泣かせてるー』とか、『別れ話ー? サイテー』と、散々に言われる。
『くそ、好き放題言いやがって、最近の女子高生共は』
 女子高生たちの後ろ姿を見送る浩之は、本当に悔しそうだった。
 それがおかしくて、あかりは途中で吹き出した。涙を指で拭いながら、
『あの娘たち、私たちと三年くらいしか違わないんだよ?』
『だからどうしたよ』
 そんなふうにふてくされる浩之がたまらなく愛おしかった。
『浩之ちゃん』
 あかりは自分から抱きついていった。
『有り難う。大切にする』
『ま、無くしたら、また通販で買うから』
『…』
『なんだよ』
『浩之ちゃんのいじめっ子』



 エアバスは、嘉手納沖の氷山のようなメガフロートを右手に望みながら、那覇市目指して飛行を続ける。高度三千フィートを切ると同時に嘉手納航空局の高域誘導ビーコンの制御が外れ、那覇空港の近接誘導ビーコンにバトンタッチ。
 機械音を響かせながらフラップが伸びる。速度が緩やかに落ちていく。滑走路が視界に大きく見えてくると、エアバスは心持ち機首を上に傾けた。
 最終アプローチ開始。滑走路が迫る。
 どんっ。
 タイヤが弾む音がしたかと思うと、エンジンの逆噴射音が急激に高まった。
 しかしそれはほんの数秒続いただけで、乗客が感じていた圧迫感はすぐに消えた。
 あとは惰性で、エアバスは主滑走路から待避路へと入っていった。



 搭乗口が開く音が機内に響いた。スチュワーデスの「有り難うございました」の声が、客席の前後から聞こえてくる。
「さ、出よ?」
 頭上の手荷物ロッカーを開けながら、あかりは言った。
「手伝うよ」
 浩之が立ち上がり、あかりに代わって荷物を降ろしはじめた。
「ありがと」
「お前、気を付けろよな。もう、お前一人の身体じゃないんだから」
 それを聞いて、あかりはふふっと笑った。
「なんだよ」
 照れくさそうに浩之。
「ううん、浩之ちゃん、優しいなと思って」
「ばーか」
 なんだかんだと言いつつ、浩之は自分の荷物に加えてあかりとマルチの荷物も小脇に抱えた。
「マルチぃ、行くぞ」
「あっ、浩之さん、すみません」
 窓の外に見入っていたマルチが振り返り、慌てて立ち上がった。
 あかりに寄り添うようにして立つと、心配そうにあかりの顔を見上げた。それから、ほんの少しだが膨らみ始めた腹部を見つめた。
 キラキラと期待に満ちた目をしている。
「さわっていいですか?」
 その言葉にふわりとうなずくあかり。今日だけで五度目だった。
 マルチのおずおずとしたタッチをお腹の上に感じながら、
「まだまだ先だよ?」
 そう言い、マルチの髪に触れた。優しく撫でながら、またちらっと指輪に視線を遣る。指輪は銀色の落ち着いた輝きを放っていた。



 コンコースを抜けた三人は、空港の待合ロビーでベルトコンベアからスーツケースを受け取った。
「お前、何持ってきたんだよ」
 浩之の呆れた声にあかりは振り返った。
 あかりはレンタルしたスーツケースに二つ分の荷物を持ち込んでいた。浩之がそれを両手に持ってごろごろと転がしている。
「ったく、わかんねーよな、女ってのは」
 あかりに追いつこうと、足を速めつつ言う。
「三泊四日の旅行なのに、どーしてこんなに荷物が多いんでしょーかね」
「でも、一つはマルチちゃんのだよ?」
「なにっ」
 浩之はじろっとマルチの後ろ姿を睨む。マルチは浮かれていて、あっちこっちをよそ見しながら歩いては人にぶつかり、「すみません」とか「ごめんなさい」とか謝っていた。
「ったく」
 妙なところばっかり覚えやがって。そう言いたげに溜息をつく浩之であったが、そのくせまんざらでもないような風でもあった。
 あかりは肩をすくめたが、何も言わなかった。



 新婚旅行の前日は楽しかった。まるで修学旅行に行く直前のようだった。
 まだ薄暗さの漂う朝、マルチがあかりの家まで迎えに来てくれた。
 普段は浩之の家に住んでいるあかりであったが、新婚旅行前の二日間は実家に泊まっていた。父親が強くせがんだこともあり、家族と水入らずのときを過ごしていたのだった。
 あかりを迎えに来たマルチがベルを鳴らして「あかりさ〜ん」と呼んでくれたのはいいけれど、それはなんと朝も明けやらぬ頃。寝ぼけ眼のあかりがドアを開けるや、マルチが顔を出して元気良く、おはようございますと挨拶する。
 私が浩之ちゃんを起こしに行ったときも、こんな感じだったのかな。
 などと思いつつ時計を見ると、約束の時間より三時間も早い。
『マルチちゃん、早すぎるよぅ…』
 ふわぁぁと生あくびをするあかりに、マルチは驚く。時間は合っているのに変だなァというように首を傾げ、
『ち、違いましたか?』
 と不思議がる。どうやら六時と九時を聞き間違えていたらしい。
 それを言ったらマルチは飛び上がり、またやってしまいましたと大謝りに謝った。マルチの表情がころころ変わるのがおかしくて、あかりは眠気も吹き飛び笑ってしまった。
 家の奥からは、あかりの母親の立てる包丁の音が響いて来ていた。それを聞いていると、あかりにもスイッチが入る。
 腕まくりポーズをしてウィンク。
『じゃ、浩之ちゃんの朝食作りに行こっか?』
 と、まるで仲良しの妹に対するような口調のあかりであった。マルチはこれまた「はいっ!」と元気良く応えたものだ。
 あかりの腕まくりには他にも意味がある。明日に備えて、いろいろ前準備が必要なのだ。浩之は国内旅行だからと気を抜いているが、あかりに言わせればとんでもない話なのだった。
 新婚旅行の行き先が決まったとき、あかりの気合いの入れ方にげっそりした浩之は、「そういやお前、高校のとき、北海道を一日で回ろうとしたっけな」とツッコミを入れたが、あかりは平然と、沖縄は狭いから問題なかろと皇女の口調で切り返し、一撃で浩之を沈黙させた。
 それは冗談としても、あかりには、この沖縄でどうしてもやっておきたいことがあるのだった。



 空港の建物を出ると、まばゆい直射日光が降り注いでくる。
「あちぃな」
 荷物持ちの浩之は、早速そでをまくり上げ始めた。
「あかりさん、あそこです」
 マルチが指さす先に、ホテルのシャトルバスが停車しているのが見えた。
 係員に手伝って貰って、床下の荷物室にスーツケースを収める。
 バスの中は無人だった。
「オフシーズンだからねぇ」
 そう言って初老の運転手は苦笑い。
 あかりたちは、並んで座れるように、バスの最後部席を選ぶ。
 あかりたちが席に着くのを見計らい、バスが滑り出した。



 沖縄は繁栄していた。
 米軍が撤退したのが大きかった。
 長年県民の間でくすぶり続けてきた反基地感情を考慮して、というのが表向きの理由だったが、本当は、台湾が中国に帰属したことにより、沖縄の後方基地としての位置づけが微妙になってしまったからだった。
 寧波と台北の直接攻撃圏に収まる沖縄が、根拠地として機能するのは困難だった。
 中国本土である寧波は、米中双方が躊躇を覚える場所だが、公式には未だ独立国家である台湾は、その限りではない。互いの本土を聖域と見なす限定戦争ともなれば、台北に配備されたERGM群が、沖縄目掛けて降り注いでくる可能性は十分にあった。
 また、そうでなくとも、米軍が海外に積極的に打って出る時代は過ぎ去ろうとしていた。
 米軍が去った後の沖縄の変貌ぶりは凄まじかった。
 僅か五年で、那覇市街は高層建築が立ち並ぶ都会に変貌した。海岸線までホテルのビルが林立する様は、ハワイのようだった。
 日本国政府は沖縄経済の建て直しのために、様々な地域法を上程した。対アジア交易の玄関口たれと願うこれら法律が制定されると、華僑を中心にした海外投資家が、どっと沖縄に押し寄せた。
 人口も異常な速度で増加した。余りに人口が多くなってしまったせいで水道給水が追いつかず、夏ともなると節水タイムが設けられるほどだった。
 車の窓から見る那覇の街は、近代高層建築と工事現場のモザイク模様で、ここが成長中の街であることをうかがわせていた。住んでいる人種もモザイク模様である。沖縄は、今や人口の三十%近くが外国籍となっていた。



「すげぇな」
 浩之が唸る。
「こりゃ、香港とかわらん」
 浩之が言っているのは、道路を横断するように掲げられた色とりどりの広告看板のことだ。沖縄県庁前を東西に貫く国際通りは、かつてとは全く変わってしまった。道幅は拡張され、その名に恥じず異国情緒豊かな姿となった。通りの賑々しいネオンや看板は、香港に引けを取らない、アジア的な派手さに満ち満ちていた。
 マルチはさっきから窓に貼り付いて、むさぼるように外に見入っている。時折上げる「わぁ」とか「あっ」とかいう感嘆の声に、浩之はニヤニヤしていた。



 浩之があかりと結婚してから、マルチは憑き物が落ちたように朗らかになった。
 あの悲しげな表情は嘘のようにかき消え、高校のときのマルチに、浩之が出会った頃の、あのマルチに戻っていた。
 マルチの言葉は、今から振り返ると、悲鳴に満ちていたような気がする。
『私は人間じゃありません、ロボットなんです…!』
 泣きそうになっていたマルチの顔が、浩之の脳裏に浮かんだ。
 お前は人間だよ。
 浩之のその言葉を聞いたとき、マルチは喜ぶよりもひどく苦しそうに見えた。
 人間として生きてくれ。
 マルチは、浩之のその願いに応えたくても応えられない自分を責めていたのだろうか。こちらの気持ちばかり押しつけて、つらい思いをさせていたのかも知れない。
 そんな後悔が浩之にはあった。
 だから、最初こそあかりとの結婚に乗り気でなかった浩之だったが、今ではあかりに感謝していた。
 あかりは優しい。
 マルチの言った通りだった。浩之の家に来たあかりは、マルチにつらく当たりはしなかった。マルチに対して見せる表情は、あるときは友達のようであり、姉のようであり、母親のようでもあった。
 そんなあかりをマルチは慕い、なついた。マルチにとってあかりは、自分に欠けていたものを補ってくれる、かけがえのない存在だったのだろう。二人は、何処に行くにもいつも一緒だった。



「どうしたの?」
 気が付くと、あかりがどぎまぎした表情になっていた。
「…何か変かな?」
「ん?」
 さっきのニヤニヤ笑いのまま、ずっとあかりを見つめていたらしい。
 浩之は片目を閉じてみせる。
「いーや、何でもない」
 昔ならそこで迷わず、『相変わらずタレ目だな』とか何とか、憎まれ口をきいていたかも知れない。
「変な浩之ちゃん」
 笑みを崩さない浩之に呆れたのか、あかりはつんと窓の方を向いた。外を流れる沖縄の景色に見入るあかりの頬は、少し赤かった。


   *****


 あかりの予約したホテルは、那覇市街から十キロほど離れた、嘉手納宇宙センターの近くにあった。
 南欧風の名前と外観を持つそのホテルからは、嘉手納宇宙センターの方角をまっすぐ見通すことが出来た。
 世界で最も人家に近い打ち上げセンター。マスコミはそう言って揶揄したけれど、花火好きな日本人はロケットも間近で見物したがった。
 まぁ、それには安心感もあったのかも知れない。嘉手納にはいわゆるロケットは存在しておらず、普通の飛行機のように滑走路から離陸する、低軌道用の宇宙往還機が居るだけだった。
 『すばる』と名付けられたロシア生まれの機体がやってきたとき、このホテルは見物の航空ファンでごったがえした。初めて来日した際、パイロットが茶目っ気を発揮して別の民間空港に降りたことで、世間の大注目を浴びたのだ。確かに、ポケモンジェットの横をタキシングする宇宙往還機というのは、なかなか見られる光景ではなかった。
 ただ、それも、今となっては珍しくも何ともない。セルスターをはじめとする低軌道衛星の打ち上げのため、この機体は、既に数百回以上のミッションをこなしていた。
 このホテル自体も幕を閉じようとしていた。この一帯は、まもなく始まる嘉手納宇宙センターの第二次拡張工事で取り壊されることが決まっていた。



 部屋に通された後、実家に電話を入れていたあかりは、ふと、浩之とマルチが居なくなっていることに気付いた。

 どこに行ったんだろ?

 部屋の鍵を持っているのはあかりだけだ。
 ひょっとして迷ってしまったのだろうか?
 置き去りにされたような気がして、あかりは不安になる。
 部屋で待っているべきなのだろうが、探しに行くことにした。



 二人は中庭を見下ろせるテラスの陰に居た。何か話し合っているようだ。
 屋内なのに、何故かマルチは麦わら帽子をかぶっていた。
 彼らの後ろにこっそり近づいたあかりは、明るく声をかけた。
「なぁに? 私に隠れて内緒話?」
 ぎょっと振り向く浩之。
 それと同時に、マルチはぱっと浩之から離れた。
 一瞬のことだが、マルチの瞳は不安げに見えた。声の主があかりだと知るや、それが安堵したように緩み、マルチは帽子を取った。
 冗談のつもりだったあかりは、二人のリアクションに少し驚いた。
 な、なに? 何なの?
 胸のドキドキを鎮めるように、指輪をいじる。
「ばか、勘違いするんじゃねーよ」
 と、浩之。怒った口調だった。
 その言い方にあかりは少し戸惑う。

 そういう意味で言ったんじゃないのに。別に私、嫉妬なんかしてないよ。

 あかりは苦笑した。
 浩之は、自分とマルチのことであかりが誤解していると思ったのだろう。
 でも、そんなことを言ったらきりがない。あかりと浩之は大学で一緒に学んでいる。二人だけで話もするし、じゃれ合いもする。それもやめろと言うことになってしまう。
 あかりは浩之を責めるつもりはない。ただ、女の子二人と平等に付き合うって大変なんだな、という、同情に似た思いは抱く。
 困ったような表情を浮かべたまま何も言わないあかりに、浩之の怒りもすぐ尻すぼみになった。
「ったく」
 ブツブツ。
「あのっ」
 浩之の陰ではらはらしていたマルチが、急に声を上げた。
「あかりさん、海に行きませんか?」
「海?」
「はいっ」
 見るからにうずうずしているマルチの背後からは、行きたい、行きたいオーラが立ちのぼっている。帽子の影で強張っていた、無表情とも取れる顔は、今は何処かへと消えていた。
 にっこりするあかり。
「じゃ、行こっか!」
 わぁ、と歓声を上げるマルチ。



 外に駆け出していくマルチを見送ったあかりは、浩之の背をつんつんとつついた。
「浩之ちゃん」
「ん?」
「あんまり気を遣わないでね。私、焼き餅やかないよ?」
 もじもじと言いにくそうにあかり。照れ隠しか、しきりに指輪を撫でるようにしていた。
「何言ってんだ、お前」
 むっとする浩之。
「ったく、余計な気ィ回し過ぎなんだよ」
 そう言うと浩之はいきなり、拳骨でぐりぐりあかりの頭を捻るようにした。悲鳴を上げながらも嬉しそうにするあかりだった。


   *****


 ホテルから海まではほんの少し歩く。
 海岸へと続く白いコンクリートの道。その両端には、買収済みと赤く書かれた看板が立ち並んでいた。錆びかかった鉄条網の中では、伸び放題の雑草が風に揺れていた。
 海岸はちょっとした崖になっていた。ひび割れた階段が、下の砂浜へと伸びている。
「気を付けろよ」
 浩之があかりに声を掛ける。
「うん」
 赤錆の浮いた手すりを握りながら、あかりは頷いてみせた。
 浩之はあかりの歩調に合わせ、二段下をゆっくりと降りていく。しきりに振り返ってはあかりの様子を確認。あかりが足を滑らせはしないかと気を配っているのだ。
 浩之ちゃん、ほんとに心配性なんだから。
 あかりは呆れながらも、その気遣いを有り難いと思う。



 海岸は無人だった。
 白い砂浜の先に波が砕けていた。
 古びたビーチパラソルが幾つか雨ざらしになっている。
 あかりはそのうちの一つを選び、コンビニで買ったビニールシートを敷いた。ずれないように、自分が重石代わりに座る。
 向こうでマルチが手を振っていた。
 今行く、と手を振り返す浩之。
「あかり」
「私はいいよ。ここで見てるから」
「そうか」
 浩之はぽりぽり頬をかいた。それから結婚指輪を外して、
「あかり、これ預かっといてくれ」
 無造作に放り投げて渡す。
「あっ、…あッ!?」
 キャッチしたものの取り落としそうになって慌てるあかり。
 浩之は意地悪く、
「ほんとトロいのな、お前」
「もう! 大事なもの、投げて渡さないで!」
 浩之の笑い声が遠ざかっていく。
 砂を蹴立てて走っていく浩之の背中を、あかりは見送っていた。



 来年にはお母さんになる。

 その認識は面映ゆいものだった。
 彼方の水平線を眺めながら、あかりはそっと自分のお腹を撫でた。

 お母さんかぁ…。

 浩之の母親のことを思い出していた。
 結婚式の後、彼女はあかりの手を取ると、浩之をお願いしますと、何度も何度も頭を下げた。あかりが恐縮しても止めようとしなかった。
『俺、頑張るから。父さんや母さんみたいに立派な親になるから』
 赤い目をした浩之のその言葉を聞いたとき、浩之の母親は人目をはばからず号泣した。
 浩之の腕にすがり、許してと涙ながらに詫びる彼女の姿に、あかりは貰い泣きをしたものだった。心の片隅で、何故『許して』なんだろう、と疑問に思いながら。

 風が出てきた。ビーチパラソルの色褪せた防水布がばたばたと鳴る。
 この南国でも、海風は少し冷たい。
 あかりはカーディガンを羽織り直した。
 また物思いに戻る。
 子供が産まれる。出産はうまく行くだろうか。
 そんな心配がふと心を過ぎるが、あかりは笑って首を振った。
 生まれてくるのはどんな子だろう?
 そちらの方がずっと気になった。
 男の子だろうか。女の子だろうか。
 健やかに育ってくれるだろうか。引っ込み思案だったらどうしよう。やんちゃだったら大変だ。
 お腹を撫で続けながら、思いを巡らせた。
 お母さん!
 そう呼ばれる日が待ち遠しかった。
 もう一つ忘れてはいけないことがある。子供が産まれれば、浩之もお父さんになるのだ。
 あかりの瞳は潤む。
 本当に若いお父さん。子持ちにはとても見えないだろう。
 この前なんか、バイト先で若い女の子たちに逆ナンパされて、『わりぃな』と指輪を見せて断ったと、得意げに言っていた。
 浮気は駄目だよ、浩之ちゃん。
 あかりはちょっとむくれて見せたけど、本当は嬉しかった。声を掛けてくれた女の子たちの目は確かだと思った。贔屓目でなくとも、浩之はあかりが愛した浩之のまま変わらない。その変わらない姿を、もうすぐ生まれてくる我が子に見せることが出来るのだ。
 無愛想で恐そうだけど、よく見ると結構いい感じのあの面立ち。ちょっと寡黙で人付き合いが悪そうな気もするけれど、本当はとても優しいあの声。あかりが愛した浩之の姿を、赤ん坊に見せてこう言いたい。
 この人が浩之ちゃんだよ。どう? 素敵な人でしょ? お母さんはこの人のことが小さい頃から大好きだったんだよ?
 おいおい、子供に浩之ちゃんなんて呼び名、教えるなよ。きっと浩之は照れて、そんな風に言うに違いない。
 じゃあなんて呼ぼう? パパ? 少し他人行儀に感じる。お父ちゃん? これは泥臭くて、浩之に似合わない。あなた? ちょっと上品すぎる感じ。
 …何だかんだ言っても、結局浩之ちゃんて呼んでる気がする。それに倣って子供も浩之のことをそう呼んだりして。
 あかりは楽しい想像にくすりと笑みをこぼした。
 だとしたら、父親参観のときなんかは大変だろう。
『あ、浩之ちゃん』
 教室の後ろに立っている、まだ学生の面影を残した父親は、我が子の無邪気な呼びかけに赤面するだろう。教室中が笑いに包まれて、先生が困ったように、ハイハイみなさんお静かに、と注意しているかもしれない。みんなの前でありゃないだろ、と、帰宅後あかりに愚痴る浩之の顔が浮かぶような気がする。
 子供は、父親参観が終わると、周囲に自慢しているだろう。
『うちのお父さんとお母さんは若いんだよ! 十九歳のときに結婚したんだって!』
 子供にとって、親が若いということは、それだけで嬉しいことなのだ。みんながうらやむ中、得意満面になる子供の姿が目に浮かぶ。
 親の若さを実感するのは、たとえば運動会。父兄リレーで他の父親たちが息を切らせながら走る中、浩之は、並み居る競争相手をすいすい追い抜いて、見事一等賞の旗を獲る。すごい、すごい。あかりも子供も、手を叩いて喜ぶだろう。

『私のお父さん、お母さん』

 そんな誇らしさが形になって、子供はみんなの前で作文を読み上げる。

『私には、優しくてかっこいいお父さんと』

 それは浩之ちゃんのことだね。
 あかりは目を細める。

『優しくてきれいなお母さんが』

 その直後だった。
 子供の声に割り込むように、別の声が響いた。

『二人居ます』

 冷たい声だった。
 あかりの心に影が差した。身体の芯が凍り付いたような気がした。

 二人、居る。

 そのフレーズを、何度も口の中で暗く呟き返していた。
 耳の後ろで、風の音が急に甦った。
 あかりが今目の前にしているのは、子供の笑顔が眩しい、あの温かな未来ではなかった。
 それは幻想に過ぎなかった。
 人気のない寂しい砂浜にあかりは座っていた。聞こえるのは子供の歓声ではなく、風と波の乾いたさざめきだけだった。幻に見た心躍るような明るい日差しは何処にもなく、何処か翳りを帯びた十一月の海が、弱々しい光を静かにまたたかせているだけだった。
 風の指があかりの髪をかき乱すたび、髪をなで直すあかり。
 動揺していた。
 そうだ。あかりの未来には、マルチも居るのだ。あかりと浩之にとっては納得ずくのことも、子供にとってはそうではない。いつの日か、あかりの子供はマルチのことを疑問に思い、浩之とマルチの関係を問い質すときが来るのではないか。
 そのとき何と説明すればいい? 何と言えば納得して貰える?
 子供の傷ついた顔が見えたような気がした。
『お母さん、どうしてお父さんはマルチと一緒にいるの!? そんなの変だよ、おかしいよっ』
 かつてあかりが言った言葉をそのままぶつけられたら、あかりはどうすればいい?
『お父さん、どうしてお母さんを大切にしてあげないの?』
 我が子からそんな風に責められたら、浩之はきっと悲しい顔をするだろう。
 そしてマルチ。
『出てってよ! あなたのせいでお母さんが辛い思いしてるのよ? 出てってよ!』
 誰より誕生を心待ちにしていたマルチなのに、子供からそうなじられたら、どんなに傷つくだろう。
 泣きたくなった。
 自分の中に育っていた幸せの予感が、みるみるしぼんでいくのを感じた。
 自分は今まで途方もない勘違いをしていたのだ。子供が生まれたら幸せになる? とんでもない。このままでは将来、浩之とマルチを、もっともっと不幸な目に遭わせてしまう。愛していた子供から憎まれるという、逃げ場のない悲しみを味わわせてしまう。
 どうしたらいい? 今更引き返せない。
 でもこのままだと。
 心臓が握りつぶされたように痛んだ。
 祈りを漏らしていた。
 神様。神様。助けて下さい。どうか私たちを助けて下さい。
 どうか、浩之ちゃんとマルチちゃんだけでも、辛い目に遭わせないで下さい。
 どうか、神様…。
 そんな祈りが何の足しにもならないことはよく分かっていた。
 あかりは救いを求めるように、指輪を見つめる。だが、それは薄曇りの陽の下で、元気のない光沢をたたえているだけだった。



 気が付くと、あかりは浩之の足跡を目で追っていた。
 二組の黒い点々が、もつれながら波打ち際まで続いていた。

 二人は子供のように、波と遊んでいた。
 波と追いかけっこをするマルチ。それを見守る浩之。
 と、マルチが転びそうになり、浩之が駆け寄る。
 気をつけろとか何とか言ってる。
 ちょっぴりしょげるマルチ。でもすぐにそんなことは忘れて、また波と遊び始める。
 初めてなのだ。潮風に触れるのも。海水に足をひたすのも。
 白い波が砂浜目掛けて走り寄るたび、ぴょんぴょんと蛙のように飛び下がり、波から逃げるマルチ。
 浩之は腰に手を当てて大きな声で笑っている。
 足下の波に手を突っ込み、水を掛ける。
 逃げまどうマルチ。
 逃げながら果敢に反撃する。
 と、浩之が波に足を取られ、ひっくり返った。
 頭から水を大きく被り、ずぶぬれになってしまう。
 その有様にマルチも笑っている。
 浩之は立ち上がった。
 何を思ったのか、急にマルチのところに駆け寄った。
 両手をつなぐと、くるくると回りだした。
 波しぶきを上げながら、回る回る。
 マルチの明るい悲鳴と、浩之の笑い声が重なり合う。
 まるで映画の一シーンのようだった。

 ああ、素敵。

 あかりは小さく漏らした。
 胸が締め付けられた。
 それは、仲むつまじい恋人たちの、愛のワルツだった。
 今はもう存在しない…遠く過ぎ去ってしまった日々のワルツだった。

 私のせいだ。

 あかりのまつげが細やかに揺れる。幾つもの後悔が胸の奥底を突き刺し続ける。

 私が二人の関係を壊してしまった。



 浩之が渚から戻ってきた。
「お、お帰りなさい」
「ん。ああ」
 浩之はあかりの顔を見て、ちょっと驚いたように眉を上げた。
「あ、これ? 砂が目に入っちゃって」
 あかりはごしごしと目をこすった。
 浩之の顔が曇った。
「…あかり、お前」
「違うよ。そんなんじゃないもの。全然違うんだから、気にしないで」
 浩之は溜息をつく。
「お前、一人で抱え込むなよな。何か思ってるんなら言えよ」
「そんなんじゃないったら!」
 強い口調になっていた。
 あかりは目を逸らす。浩之の顔をまともに見ることが出来なかった。
「そんなんじゃ…」
 これじゃ、楽しい旅行が台無しになっちゃう。
 あかりが別の話題にしようと顔を上げたとき、浩之の声が降ってきた。
「あかり。今の生活、つらいのか」
 浩之の言葉には悲しげな響きがあった。
「それとも新婚旅行、やっぱり二人で来た方が…」
 どきっとした。
「ち、違うよ! そういうことじゃないよ!」
 浩之とマルチを責めるつもりは全くなかった。マルチと一緒に旅行したいと願ったのは、他ならぬあかりなのだから。そうしようと決めていたのだから。
「ホントに何でもないんだよ…?」
 これ以上は言いたくない。
 浩之ちゃん、もう訊かないで。話題を変えて。楽しい話をしようよ。いい思い出を作ろうよ。
「あかり、言えよ」
 駄目だよ。どんどん暗くなっちゃうよ。せっかく沖縄まで来たんだよ。こんなところでつらい話なんか止めようよ。
 浩之は待っている。あかりが続けるのを待っている。
「ただ…」
 仕方なくあかりは言った。
「ただ?」
 浩之の先を促す声。
 あかりは波と遊び続けているマルチを見つめた。
 風に乗って、微かな波の音が聞こえてくる。
 それと…これは歌声? マルチだ。マルチが歌っているのだ。明るく朗らかな声だった。
 いたたまれず、あかりはうつむく。
「あのね…」
 痛みと共に、心の堰が壊れた。亀裂から言葉が漏れ出す。秘めようとしていた言葉が。
「浩之ちゃんとマルチちゃんのこと、考えてたの。私に子供が出来なかったら、浩之ちゃんとマルチちゃん、今も二人で暮らしていたんだろうなって。そしたら、どんなにか浩之ちゃん、幸せだったろうなって」
 感情の迸るまま喋ってしまった。
 それは、あかりがこれからもずっと背負わなければならない罪だった。いくら赦しの言葉を得ようと赦されない。永久に償い続けなければならないのだ。
「ごめんね…私のせいだよ…私が浩之ちゃんにあんなこと言わなきゃ…。ごめんね。本当にごめんね…」
 あかりの言葉は乱れた。
 あのとき浩之ちゃんに迫らなかったら。死ぬなんて言わなければ。
 本当に最低な人間だ。弱さにかこつけて、最愛の人を脅した。
 浩之ちゃんを騙した。
 あかりは泣くまいと唇を噛んだ。激しく噴き出す感情を鎮めようと、膝の上に置いた手をぎゅっとかたく握り締めた。
 二人に幸せを上げられるならまだ良かった。マルチが浩之の子供を心待ちにしていると知ったとき、マルチのためにも、子供を産んで上げたいと思った。そうすることで、少しでも二人が幸せになれるのなら、償えるのならと。
 でも、それは幸せに通ずる道ではなかった。あかりたちは、子供という名のいつ爆発するか分からない爆弾を抱え込もうとしている。
 浩之は何も言わなかった。あかりが何度も鼻をすするのを、黙って聞いていた。
 ぽん。
 あかりの髪を、浩之の大きな手が優しく叩いた。
「なぁ、あかり」
 浩之の声は穏やかだった。
「マルチな、お前のこと、大好きだって言ってた。お前と家族になれて幸せだって」



 浩之もまた、失われてしまったワルツのことを考えていた。
 しかし、それはあかりが壊したのではない。浩之自身が壊してしまったのだ。
 浩之が愛したマルチは、浩之の願いに、人間として生きて欲しいという願いに、疲れ果てていた。
 あかりが花嫁として浩之の家にやって来たとき、マルチは泣き出さんばかりに喜んで、あかりの手を取った。
 これで浩之を幸せに出来る。普通の人と同じ人生を送って貰える。
 浩之を愛するが故に、あかりを迎えたマルチの気持ちを考えると、もう何も言えなかった。
 口先だけだった自分が情けなかった。愛があれば、どんな障害だって飛び越えられると言いながら、逃げることしかできなかった自分の無力さに、腹が立った。
 浩之は断崖の上に立って、マルチに登ってこいと呼び掛けていただけなのだ。愛があればどんな困難だって克服できると言いながら、決してマルチの方には降りて行かなかった。マルチには、人間のように振る舞うことを要求し、困惑させた。人間とロボットの間には大きな隔たりがあることを、浩之は頑なに認めようとしなかった。
 人間として振る舞うたび、マルチは周囲の好奇の視線や心ない言葉の爆撃を浴び、傷ついた。それでもマルチは浩之の期待に応えようとし、浩之と同じ場所に立とうとした。
 だが、マルチの横には浩之が居た。マルチは自分が傷つくことには耐えられても、愛する人がとばっちりで傷つくことには耐えられなかった。
 ロボットとして生きたい。普通のメイドロボに戻りたい。
 幾度となく繰り返されたその言葉は、決して遠慮から来たものではない。ロボットと人間の間に存在する絶望的な違いに挑戦し続け、ぼろぼろになってしまったマルチの、哀しい諦めの言葉だったのだ。
 浩之にはそれが我慢できなかった。マルチの言葉を聞くたびに浩之は怒り、お前はロボットなんかじゃない、誰より人間らしいんだからと叱咤しつづけた。
 マルチを認めているようで、否定していた。人間らしいという言葉を無造作に使い、それがマルチにとっても幸せなのだと思い上がっていた。
 残酷だった。



 浩之はあかりの横に腰を降ろした。
「あのさ…」
 海を眺めながら、ぽつりぽつりと話し始める。
「今だから正直に話すけど、結婚を勧めたの、マルチなんだ。あいつ、お前と一緒に暮らしたいって頑張ってさ。自分じゃ俺を幸せに出来ないからって。普通の人と同じ生活を送って欲しいって」
「…」
「あいつ、言ってた。お前と結婚して、子供と一緒に暮らすのが、俺の幸せなんだって。そうしなきゃいけないんだって」
 その言葉には、何処か寂しげな響きがあった。
 浩之は口をつぐんだ。
 浩之もまた、何かをこらえるようにうつむいていた。
 やっと、言った。
「俺…何も分かってなかったんだ。一人で浮かれて、あいつの気持ちを全然考えなくてさ。お前のことも傷つけてさ…」
「…浩之ちゃんは悪くないよ…」
 あかりはぽつんと呟く。
 浩之ちゃんは悪くない。
 その言葉を聞いたとき、浩之ははっと目を見開いた。一瞬だが、渚で遊び続けるマルチに視線を走らせた。
 それから、深い深いため息をついた。
 二人はそのまま、遠い波の音を聞いていた。
 ただ黙って、寄せては退き、退いては寄せる潮のリフレインに耳を傾け続けた。
「あかり…。今の生活…つらいのか?」
 浩之はまたその問いを繰り返す。
 あかりは顔を伏せたままだった。
 つらくないと言えば嘘になる。
 だが、あかりをつらくさせているのは、あかり自身だった。
 浩之とマルチのせいではないのだ。あかり自身の心が、幸せに安住しようとするあかりを、絶えず責め立てているのだった。
「浩之ちゃんは…つらくないの?」
「…」
 浩之は沈黙した。
 その問いの意味を考えているようだった。しばらくして口を開いた。
「まだ…始まったばかりなんだよな」
「え?」
「俺たちの生活さ。始まったばかりで、これからなんだよな」
 浩之は雲のかかった空を見上げる。
「まだわかんねーだろ? 結論出すには早すぎると思わねーか?」
「…」
「ここですぐ、どうこう言うのは止めようぜ? これから先はあるんだから」
「でも、それだと浩之ちゃんとマルチちゃんが」
「言ったろ? マルチはお前と家族になれて幸せなんだって」
 浩之は言葉を切った。
 あかりを見つめると、口元に笑みをたたえた。
「俺だってそうさ。…そうだよ、全然つらくねーよ! 俺はそんな風に思ってねーぞ! 後悔もしてない! 本当だからな、あかり」
 …浩之ちゃん。
 泣きそうになった。
 浩之の言葉にすがりつきたかった。このまま三人一緒に、そしてもうすぐ生まれる子供と一緒に、何事もなく生きていけたらどんなにいいだろうと思った。
 浩之に促され、ゆっくりと笑顔になりかけたそのときだった。

『お母さん。マルチがお父さんを奪ったよ?』

 また声が響いた。
 浩之の向こうに子供が突っ立って、こっちを見ているような気がした。
 ありもしない幻影に、あかりは怯えた。
「…駄目だよ…」
 急に青ざめたあかりに、浩之は首を傾げる。
「おい、あかり?」
「このままじゃ…幸せになんか…なれないよ」
 あかりの身体ががたがた震えだした。幻に見た子供の恨めしい顔が、すぐそこで自分を睨んでいるような気がした。
「何で駄目なんだよ…。やっぱり三人の生活はイヤなのかよ…」
「わ、私は納得してるよ…? でも、でも…」
 あかりは何度も首を振った。
 その一方で、心の内奥からわき上がってくる恐怖に耐えきれなくなった。
「浩之ちゃん、どうしよう…どうしたらいいの…?」
 感情に追い立てられ、あかりは口走っていた。
「子供が、子供が大きくなって、いつか私たちのこと責めたら、どうしてお母さんが二人居るのって言われたら、そのとき私、何て答えればいいの…?」
 あかりは顔を覆った。
 恐ろしい告白だった。今度こそ、自分の周囲全てが崩壊していくような気がした。
 あかりのせいだった。
 子供を堕ろしたくないと頑張る余り、浩之を結婚に追いやってしまったのだ。
 それほどまでして大事に守ったはずの子供が、浩之を、マルチを、言葉の刃で傷つけようとしている。そんな悲しい未来が、口を開けて待っているのだ。
「ごめんね…浩之ちゃん…ごめんね…」
「…」
 涙が砂の上に落ち、小さな音を立てた。
 浩之はそれを無言で聞いていた。
 それから、自分の前で声を潜めて泣いている幼なじみの肩に手を回し、抱き寄せた。
「あかり」
 そっと、ささやく。
「俺たちの子供な、最初はびっくりすると思うぞ? 俺たちの関係って複雑だから」
「…」
「言うだろ。産みの親より育ての親だって。あ、ちょっと違うか。…でも、育つときの環境が影響するって点では一緒だよな。だからさ、一緒に暮らしていれば、思ったより深刻に受け取らないかも知れないぜ? な?」
「…でもっ」
 涙にしわがれた声で首を振るあかり。
 浩之は笑った。
「信じろよ。信じてみろよ。お前だって随分変わったぞ? 子供だって、ちゃんと説明すれば分かってくれるって。何も心配することないって。それに、悪いことばかりじゃねーよ。お前が居て、マルチが居て、二人して子供を可愛がるんだぜ? よその家庭より二倍愛情があるんだぜ? 何も引け目なんか感じる必要ないって」
「でも…おかしいって…みんな言うよ…子供の友だちだって…お母さんが二人居るのは…おかしいよって…」
「そんなことない!」
 浩之の力強い否定が、あかりの心を揺さぶった。
 はっと見上げる。
 間近で見る浩之は笑っていた。
 涙まみれのあかりの顔に、浩之は明るい呆れ声を出した。
「何だよ。そんなことで悩んでたのかよ。バカだな」
「浩之…ちゃん…?」
「最初はからかわれるかも知れねーけどさ、そういうガキ共は、家に連れて来ればイチコロだぜ?」
「…」
「考えてみろ? 素敵なお母さんが二人居てさ、子供を可愛がっているところ、たっぷり見せつけられるんだぜ? ガキ共、悔しがってさ、家に帰ったら絶対言うぜ? うちもマルチが欲しい、お母さんが二人欲しいってさ!」
 浩之は愉快そうに続けた。
「だからさ、なーんも心配いらねーよ。お母さんが二人居るから、みんなにバカにされるって? 違うだろ? みんなからスゲー羨ましがられるんじゃねーか? 子供にとっちゃ、とんでもないくらい幸せなんじゃねーか?」
「…」
「あかり、お前、ほんとにバカだな。そんなことばっかり一人で考えてたのか? 何でもっと早く打ち明けないんだよ。俺ってそんなに頼りなく見えるのかよ」
 あかりは瞬きを忘れ、浩之を見つめ続けていた。
 浩之の手が、あかりの髪をくしゃくしゃと撫でた。
 ほぅ、と大げさにため息。
「やっぱ、お前、危なっかしくてほっとけねーな」
 浩之の目は優しかった。
 その温かな視線が、凍り付いたあかりの心に、まっすぐ差し込んでくる。
「あかり。お前がどう思おうと、俺は決めたからな」
 浩之は独り言のように続ける。
「うん、絶対に決めた。これからも、お前とずーっと一緒だ。…そうだよ、どんなことがあっても、お前とマルチと、これから生まれてくる子供と、みんな一緒だ。いつまでも一緒だ」
 あかりの凍えた心に、浩之のぬくもりが伝わってきた。
「好きだぞ。あかり。大好きだぞ。愛してるぞ」
 愛してる。
 耳打ちされたその言葉が、あかりの傷ついた心に染み通っていく。
 心を縛る悲しみの糸が、一つ一つ切れていく。
「浩之ちゃん…ホント…楽天的すぎるよ…」
 ひっくひっく。嗚咽を漏らし始めるあかり。
「ホントに…もう…どうしてそんなに…」
 少女のように顔をこすり、しゃくり上げる。ぽろぽろ涙がこぼれて止まらない。
「そんな風に言われても、私、私…どうしていいか…わかんないよ…」
「あかり、そんなに我慢するなよ」
 その声に背中を押されるように、あかりは浩之の胸に顔を埋めた。
 涙混じりの声で浩之を責める。
「ひどいよ、浩之ちゃん…今度の旅行、楽しいものにしようって決めてたのに…私、我慢してたのに、楽しくしようって、一生懸命、一生懸命…それなのに、浩之ちゃん、ひどいよ…こんなこと言わせてひどいよ…」
 浩之の手があかりの背中をさする。ぽんぽんと叩いて、耳元で励ました。
「抱え込むなよ。泣いていいんだよ。愚痴も言えよ。全部聞くから。俺たち家族だろ? 隠すなよ。一緒に悩んで、一つ一つ解決していこうぜ?」
「浩之ちゃん、どうしよう。子供が浩之ちゃんとマルチちゃんのこと、何か言ったら…そのとき、私、どうしたら」
「絶対大丈夫だって。きっと分かってくれるって。俺たちの子供なんだから、俺たちの生き方を見て育つんだから、何も恐がる必要なんか無いって」
 それでもあかりは恐かった。
 子供のことばかりではない。自分の周囲を取り巻く世界が恐かった。
 漠然とした未来に立ち向かねばならない自分は、あまりにか弱く思えた。
「浩之ちゃん…私…恐いよ…」
 これまでは子供を産むことばかり考えて、他に気は回らなかった。しかし、あかりは無意識のうちに沢山の不安を抱えていた。
 こうして浩之の胸にしがみついていると、それが幾つも心の底からわき上がってくる。わき上がってきては、言葉の泡となって弾ける。
「私、何も知らないんだよ…? なのにお母さんになっちゃうんだよ…? 不安だよ…」
「何とかなるって。みんな初めてだけど、ちゃんと出来てるんだから、大丈夫だって」
「ミルクだって、夜に何度も起きてあげなきゃ行けないし…ホントに続けられるか、自信ないよ…」
「マルチが居るだろ。あいつに手伝って貰えば大丈夫だよ。あいつ、喜んで手伝うよ。絶対心配ないって」
「大学どうしよう…お腹が大きくなったら勉強だって出来ないし、留年しちゃうよ」
「一年休めよ。無理して授業に出る必要なんかないって」
「恐いよ…恐いよ…」
「心配するなって。絶対うまくいくって」
「恐いよ…」
 形にならない不安を訴え続けるあかりに、浩之は大丈夫を繰り返した。それ以上は言わなかった。
 あかりには分かっている。浩之も不安なのだ。不安を押し隠しているだけなのだ。あかりが何か言うたび、浩之の手に力がこもる。それは痛いほどだったが、あかりは黙っていた。



『浩之ちゃん、交番に行こうよ』
 中学の修学旅行で道に迷ったとき、あかりの提案を、浩之は頑として受け入れなかった。
『恥ずかしいから、俺たちで探そうぜ?』
『でも…』
『大丈夫だって。何とかなるって』
 その言葉を信じて、あかりは浩之と一緒に、宿泊先を探し歩いた。
 結局、宿泊先を見つけることは出来なかったけれど。
 帰り道、パトカーに送って貰ったとき、反省したことを覚えている。
 浩之は多分、かなり最初の段階で、あかりの提案が正しいことを悟っていたのだ。だが、最初の段階で自らそれを否定してしまったから、自分の意見に固執せざるを得なかった。
 黙ってついていったあかりも悪い。
 浩之はあかりの視線を背後に感じていて、尚更むきになったに違いなかった。引っ込みがつかなくなっても、なかなか言い出せなかったのだ。
 あかりの知る浩之はそういう人だった。



「…浩之ちゃん」
「ん?」
「ごめんね。愚痴ばっかり言って」
「気にすんなよ」
 浩之は笑顔だった。それを見ると、あかりは切なくなる。
「浩之ちゃんも抱え込まないでね」
「何だよ、それ」
「浩之ちゃん、意地っ張りだから。何でも一人で解決しようとするから。私にも相談してね」
 浩之は苦笑い。
「…ああ、わかった。お前にも相談するよ」
 あかりは浩之から離れた。涙で濡れた目でじーっと浩之を見つめる。
「何だよ」
「…何でもないよ?」
 視線を逸らすあかりだった。
「お前、また抱え込んでるな。何だよ、言ってみ?」
「いや。言いたくないもん」
「そういうやつはお仕置きだ」
 いきなり浩之はあかりの脇の下をくすぐり始めた。悲鳴を上げて身をよじるあかり。
「やっ、やだ浩之ちゃん、くすぐったいよ、止めてよっ」
「白状する気になったか?」
「…。恥ずかしいからやだ」
「そうか。…ならもう一度」
 こちょこちょこちょ。
 あかりは息が切れるほど笑わされた。
「分かった、言うから止めてよっ」
「最初から素直に吐けばいいものを…」
 悪代官のような言い方をする浩之に、あかりはクスッとした。
「なんだよ」
「浩之ちゃんはホント、いじめっ子なんだから」
 あかりは涙を袖で拭う。
 浩之に向き直ると、そっと、愛おしむように告白した。
「浩之ちゃん、好きだよ」
 ほんの半年前までは言えなかったこの言葉を、今はすんなり言える。
 好きという言葉にいっぱいいっぱい想いを載せて、あかりは繰り返す。
「好き、浩之ちゃん、大好き」
「それって、隠すほどのことか?」
 拍子抜けしたように浩之は言う。
「うふふ」
 いたずらっぽく笑うあかりだった。
「お前、時々訳わからんこと言うのな」
 浩之は肩をすくめた。



「どうしたんですか?」
 ただならぬ雰囲気を察したのか、マルチが戻ってきた。麦わら帽子を胸に抱きかかえるようにして、おどおどと二人を窺い見ている。
「砂が目に入ったんだ」
 後ろで浩之がフォローを入れてくれた。
「えっ!? 大丈夫ですか!?」
 見るからに心配そうな表情をし、あかりの目を覗き込もうとするマルチに、あかりはニッコリと微笑む。
「涙を沢山流したから、もう何ともないよ」
 マルチは良かったですぅ、と胸をなで下ろした様子。
 それを見たあかりは、きゅんと甘酸っぱいものが込み上げるのを感じた。
 子供が作文を読んでいるシーンに立ち戻っていた。



『…優しくてきれいなお母さんが、二人居ます』
 子供が読み上げる作文の言葉尻をとらえて、同じクラスの意地悪な男の子が違うと叫ぶ。
 子供はふくれっ面をした。
 いつの間にか、子供は小さい頃のあかりの姿になっていた。
『本当だもん』
 小さいあかりは言い張る。
『あかりお母さんと、マルチお母さんのふたりだもん』
『マルチはメイドロボじゃねーかよ!』
『メイドロボだけど、そんなこと関係ないよ。お母さんみたいに優しいんだよ』
『嘘だ』
『嘘じゃないもん』
『じゃあ見せろよ』
『うん、いいよ。来てよ』
 あかりは、子供の連れてきた小さなお客さんにちょっと驚くだろう。
『さ、召し上がれ』
 居間に通され、あかりお手製のクッキーを御馳走になって、男の子が居心地悪そうにもじもじしている様が目に浮かぶ。
『お母さん、マルチちゃんは?』
 エプロンの裾を引いて訊ねる子供。
『お買い物に行ってるよ…あ、戻ってきたみたい』
『ふええ、外はとっても暑いですぅ』
 居間にマルチが登場する。
『おい、故障してるんじゃねーか? ロボットが暑いなんて言うのかよ』
『言ったでしょ、人間みたいだって』
 ごしょごしょささやき合う子供たち。
『あら、お客様ですね!』
『そうなの。連れてきたのは初めてかな』
 あかりの「初めて」に込められた意味に、マルチは気付く。
『まぁ! ボーイフレンドなんですねっ!』
 両手を合わせ、嬉しそうに言うマルチに、
『そんなんじゃないよっ』
 子供たちは声を揃えて抗議するだろう。特に男の子は顔が真っ赤だ。
 照れ隠しにいじめないだろうか。
 そんなことを心配してしまうあかり。そのときマルチが男の子のところに行く。
『こんにちは』
『こ、こんにちは』
 顔を真っ赤にしたままの男の子は、マルチの人間のような笑顔にびっくりする。
 マルチは男の子の頭を撫でながら言うのだ。
『今日はわざわざ遊びに来て下さってホントに有り難うございます。これからもうちの子と仲良くして下さいね』
『お、おう。まかせとけ』
 幾分虚勢を張ったその答えに、あかりは吹き出しそうになる。
 意地悪な男の子は、小さい頃の浩之そっくりだったのだ。
 小さいあかりがマルチの傍らに寄り添った。
 彼女は、男の子に見せつけるように、マルチの手をしっかり握っていた。
『うちだけなんだよ! マルチちゃんはね』
 小さなあかりは、まるで歌うように、高らかに宣言する。
 本当に幸せそうだった。
『世界でたった一人の、私だけの、ロボットのお母さんなんだから!』



 まつげの向こうで、チラチラと光が躍っていた。
 物思いから覚めるあかり。
 指輪だった。
 太陽が雲間から顔を覗かせ、大地にまばゆい光線を投げ掛け始めていた。

 ああ。

 あかりは目を閉じた。
 浩之の言葉を信じよう。信じてみよう。いつの日か、人生の何処かで辛いときが来たとしても、そのときはまた、沢山の涙でその辛さを洗い流せばいい。
 あかりの隣には浩之が居る。マルチも居る。あかりは一人ぼっちではない。みんなは家族なのだ。みんなで考えて、悩んで、一つ一つ乗り越えて行こう。

「マルチちゃん」
 呼ばれて顔を向けたマルチに、あかりはぎゅっと抱きついた。
「大好きだよ。ずっと一緒に居ようね? ずっとずっと一緒だよ?」
 少し戸惑ったマルチだったが、あかりの言葉に顔を輝かせた。
「はっ、はいっ!」
 そんな二人を、浩之は優しい表情で見つめていた。


【続く】

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グラノフカ設計局 (GRNVKA OKB)

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