LostWaltz
第6話
Ver.1.02
制作: GRNVKA
三人がホテルの部屋に戻ってきた頃には、夕方になっていた。
浩之は自分のシャツを一瞥し、顔をしかめた。
「塩が付いてるな」
そうしているうちに、さっき波打ち際で派手にこけたことを思い出したらしく、身体のあちこちを見回したり、なで回したりし始める。
「な、提案があるんだけど」
「え?」
「なーに? 浩之ちゃん」
「みんなでフロ行かねーか。ここのって、結構豪華なんだぜ?」
あかりは自分のお腹に指をなぞらせた。正直恥ずかしかった。まだそれほど目立たないとはいえ、お腹が出始めている裸を人目にさらすのは気が引けたのだ。
「私はいいよ」
遠慮するあかりに、
「そっか」
浩之もその辺りは察したらしい。にこっと笑みを浮かべた。
「じゃ、俺、ちょっと行って来るわ」
「うん」
ドアに向かった浩之は、背を向けたまま、さりげない調子でマルチに問い掛けた。
「なぁ、マルチ。お前はどうする?」
マルチは戸惑った表情をし、それからあかりの方をちらりとうかがった。
「わ、私もちょっと」
「…。そっか」
肩をすくめる浩之。聞く前から答えは分かっていたような口振りだった。
浩之は備え付けのタオルを振り回し、振り回し、鼻歌混じりに出ていった。
浩之が居なくなると、あかりは部屋に付属している浴室に入った。
浴槽にお湯を張り始める。
「えへへ」
マルチだった。ちょっと照れくさそうにしている。
「ご一緒していいですか?」
「うん、いいよ」
あかりは微笑む。
海の近くにいたせいだろう。二人が浴室に入ったとき、潮の微かな香りを感じた。
あかりは薬指から指輪を外すと、ハンカチに丁寧にくるんで、洗面台に置いた。
その仕草を、興味津々といった顔で見つめるマルチ。
お互いに身体を流しっこしたあと、湯船に同時に足を踏み入れる。
二人分のお湯が溢れ出し、にぎやかに水音を立てた。
湯船は家風呂と違って広く、二人が入ってもまだ余裕があった。
あかりはマルチにぶつからぬよう気を付けながら、足を伸ばした。
お湯の温かさが、疲れた身体に心地よかった。
マルチも気持ち良さそうだ。調子っぱずれなような、そうでないような、ともかく不思議なハミングを口ずさんでいる。
あかりは伸びのついでに何気なく天井を見上げ、そこに絵があるのを発見した。
海に棲んでいる様々な動物たちが、細かく砕かれたタイルを使って描かれていた。地中海文明風のタッチで、コバルトブルーを基調にしていた。水滴のせいで、輪郭がぼやけて見える。
あ、人魚が居る…。
絵の端の方に、岩に腰掛けた女性の姿が描かれていた。
歌っているように見える。
いや、それは正しい。実際、人魚は歌うのだ。
但し、人魚が歌うとろくなことが起こらない。というのも、人魚の歌声は、船を遭難させる魔力を秘めているからだ…。あれあれ? それはローレライの魔女だったかも?
人魚についていろいろ考えを巡らせるあかり。
人魚と言えば、有名なのが人魚姫だ。
彼女はある日、海でおぼれている王子様を助ける。
王子様に恋をしてしまった人魚姫は、王子様に逢うため陸に上がったけれど、名乗りを上げることは許されなかった。人間になる代償として、声を魚の鳴き声に変えられてしまったからだ。
声を出すことを封じられてしまった彼女に、思いを伝えるすべはなかった。王子様の結婚が決まったとき、彼女は…。
ふと気が付くと、マルチの歌声は止んでいた。
どうしたのだろう?
マルチの視線は水面にひたと向けられている。正確には、水面の下に揺らいで見えるあかりの身体に。
マルチちゃん…。
あかりは恥ずかしい一方で、微笑ましい気持ちになる。
無理もない。そこには、マルチがずっと心待ちにしているものがあるのだから。
「あと、何ヶ月ですか?」
あかりの笑顔に気付いたマルチは、本当に待ち遠しそうな声を出した。
それは、毎日のように繰り返されてきた問いかけだった。
あかりは、ひぃふぅみぃと指を数え、
「…四ヶ月ちょっとかな」
ちょっと自信はなかったが、出産に要すると言われる十月十日から逆算すると、それくらいになるはずだ。三月の中旬、遅くとも四月の初旬までには産まれるだろう。
マルチは湯船の縁に指を折り重ね、あごを載せた。
うっとりした表情で、
「赤ちゃん、早く見たいです」
「うん、そうだね」
マルチは首を揺らす。リズムを取っているみたいだ。
「あかりさんは男の子と女の子、どっちがいいですか?」
「私? 私はどっちでも…あ、やっぱり、女の子がいいかな」
「どうして女の子なんですか?」
「…」
あかりは縁に頬杖をついた。
「女の子は色々大変なこともあるけど、女の子で良かったって思うこと、いっぱいあるし」
女の子だからこそ、浩之と出会えたのだし。
あかりはそう思ったが、照れくさくて口には出さなかった。
マルチだって思いは同じだろう。女の子でなければ、浩之と巡り会うことはなかったのだから。
湯気の中で、目を薄く細めるあかり。
そうだ。この素晴らしい幸せを、我が子にも教えたい。
「ね、マルチちゃん」
顔を前に向けたまま、あかりは呟くように言う。
「マルチちゃんもお母さんになるんだよ?」
「えっ?!」
びっくりしたように、あかりの横顔をのぞき込むマルチ。
「私が…?」
「そう。マルチお母さん。子供が生まれたら、そんな風に呼ばれるんだよ?」
「でも、お産みになるのはあかりさんで、あかりさんがお母さんです」
「それは違うよ」
あかりはマルチの方に向き直ると、一言一言、確かめるように語りかけた。
「決めたの。マルチちゃんと一緒に、子供を育てていくって。二人でお母さんになろうって。だから、マルチちゃん、お願い。世話をするとかじゃなくて、自分の子供として育ててあげて。きっと、この子も喜ぶと思うから」
お母さん。
その言葉に、マルチは目を大きく見開いた。
自分とは無縁だと諦めていたその言葉を、子供から言って貰える。
あかりと二人で、浩之の子供を育てていくのだ。
空間認識が捩れる。それは、『めまい』と呼ばれるものだった。
ぽたっぽたっほたっ。
ぽたっぽたっほたっ。
静まり返った浴室の何処かで、水がしたたっていた。
その音がマルチを、遠い想像の彼方へと誘っていた。
ぽたったったっ…
いつもの買い物の帰り道。
公園脇のカラータイルを敷いた遊歩道で、誰かに呼ばれたような気がして振り返る。
お母さん。
今、そんな声が聞こえたのだ。
気のせい?
いや、違う、空耳ではない。
たったったっ。
たったったっ。
誰かが走ってくる。
近づく人影を、マルチは放心したまま見つめ続ける。
ひょっとして。
ひょっとしたら。
周囲には誰もいない。マルチただ一人だけ。
まさか?
たっ…。
足音の主は、マルチの目の前で立ち止まった。
どうしたの? お母さん。
小さな影が、マルチの影に重なる。
手を引っ張りながら、マルチを呼ぶ幼い声。
お母さん。お母さんったら。
我に返ったマルチを、子供の顔が見上げている。
風にそよぐ黒い髪。その下でキラキラ輝く眼差しは、浩之にとてもよく似ている。
笑っている、笑っている。
お母さん、こっち、こっち。
水兵服を素敵に着こなしたその小さな王子様は、マルチの手をうやうやしく捧げ持つと、噴水の前へと導く。
円形の広場に足を踏み入れたマルチは陶然とする。
噴水のきらめきはまるでシャンデリアのよう。
砕ける水音はまるで万雷の拍手のよう。
木々は風にうねりざわめき、葉ずれの声で二人を褒めそやす。
マルチの新しいワルツの相手は、天高く伸び上がる水の柱に、感嘆の声を上げる。
その変幻自在な芸術をもっと間近で見ようと走り出しかけて、転びはしないかと心配するマルチに気付き、また戻ってくる。
そうしてしっかりと抱きつく。
ねぇ、マルチお母さん。
甘い口元がもどかしくせがむ。
抱っこして、お母さん。
その確かな未来の実感が、マルチの心に波紋を広げる。
マルチの笑顔が急に崩れた。澄んだ碧の瞳に透明な滴が盛り上がり、頬を伝って流れ落ちる。
うつむき、身体をふるわせるマルチに、あかりは狼狽した。
「ご、ごめん、何か変なこと言った?」
マルチは小さくかぶりを振った。
したたり落ちるものが、水面で音を立てた。
マルチは声を押し殺し、泣き続ける。
あかりは途方に暮れた。
慰めようとしてマルチの身体を抱き寄せ、浩之がよくしてやっているように、マルチの頭をなで始めた。
安易に『お母さん』という言葉を使ったことを悔やんでいた。
マルチは子供を産めない。その彼女があれほど浩之の子供を願っていたのだ。
『子供の世話をしたい』と口癖のように言っていたが、本当は、マルチ自身が浩之の子供を産みたかったのではないか。それが出来なくて、つらい思いをしていたのはないか。
そんな彼女に、『お母さん』という言葉はどう響いただろう?
「…ごめんね…? ごめんね…?」
マルチはぷるぷると首を振るだけ。
あかりは、どうしていいか、ますます分からなくなってしまった。マルチの首に腕を回し、肩に押し当てるように強くかき抱くと、後ろ髪をなで続けた。
「本当にごめんね…」
どのくらいそうしていただろうか。
マルチの嗚咽が小さくなった。
ようやく落ち着いたようだった。
「す、すみません…」
かすれ声で謝るマルチ。
涙を払うと、そっと身体を離した。
「マルチちゃん…?」
「あかりさん、私、頑張ります!」
ぐっと小さな拳を握りしめ、大仰に誓いをたてるマルチ。
とても嬉しそうだった。
「頑張って、お母さんになります!」
今にもメラメラ燃え出しそうな気合いの入れ方に、あかりはほっとすると同時に、吹き出しそうになった。
「うん、頑張ってね。マルチお母さん」
「はい!」
「お互い、新米お母さんだけど、頑張ろうね」
「はいっ、頑張りましょう!」
あかりもまた、マルチに倣い、手を握りしめて見せる。
そうやって、二人はかたく手を取り合った。
*****
あかりには、いつも不思議に思っていることがある。
それは、マルチの耳に付いているセンサーアンテナのことだ。
不自然なのだ。
マルチが人間に似過ぎているからかも知れない。
いや、実際、マルチを人間と錯覚することが余りに多い。普段はその錯覚が生きたままでいるのだが、センサーアンテナを見るたび、その認識は現実へと引き戻される。
このときもそうだった。
マルチの髪を洗ってやろうとしたあかりは、シャワーの水流を当てようとしてセンサーアンテナの存在に思い当たり、ためらった。
おずおずと訊ねていた。
「ね、その耳のアンテナだけど」
「これですか?」
「シャワー…大丈夫なのかな?」
「えっと…」
マルチは急に歯切れが悪くなる。
「あ、悪いこと、聞いた?」
「い、いえ。そんなこと無いです。…これは防水になってますから、お湯をかけても大丈夫です」
「そうなんだ」
「…気になりますか?」
「そんなことはないけど…」
なおも遠慮する風なあかり。
あかりにしてみれば、機械の形をしたものを水洗いするのは、やはり抵抗がある。
よく考えてみればおかしな話で、その理屈に従うなら、マルチ本体も同じ機械であるから、シャワーはおろか入浴自体も厳禁の筈なのだが、そのときのあかりは自分の矛盾に気が付かなかった。
あかりの手に握られたシャワーからは、水流が迸り続けていた。
それをどう受け取ったのか、一瞬ためらいを見せた後、マルチは耳に付いたセンサーに触れた。
かちん。
ロックの外れる音がした。マルチの手が、センサーアンテナをそっとタイルの上に横たえる。
あかりは目をみはった。
センサーアンテナの下には、可愛らしい耳が備わっていた。
思わず手を伸ばす。
あかりの指先が耳たぶをなぞったとき、マルチの身体がびくんと震えた。
「あ、あんまりこれを外しちゃいけないって言われてるので」
マルチは早口で言った。
「どうして?」
「んーと、それはですね。決まりがあるんです」
「決まり?」
「はい。人間の人と見分けが付くようにって、違いが目立つようにしなさいって決まりなんです」
マルチが言っているのはロボット規制法のことだった。
製造物責任法の付帯条項に端を発し、後世、イエロー・スターと揶揄されることになるこの法律は、メイドロボをはじめとする全ての人型民生機器に、人工物であることを明示する義務を負わせていた。
そんな決まりに意味があるのかな?
あかりは単純な疑問を抱く。
見分けが付かなくても、誰も困らないだろうに。
この耳なら、誰も不思議には思わないだろう。あとは少し髪を染めさえすれば、マルチをメイドロボだと気付く人は居なくなる筈だ。
「ね、マルチちゃん。それを外したら、人間の女の子と変わらなくなると思うんだけど…」
マルチはほんの少し目をそらした。
「…出来ないんです」
「え?」
「これを外すと、物凄く不安になるんです。何でだかわからないんですけど、付けなきゃいけないって言われてるような気がして」
それを聞いたとき、あかりは、目に見えない冷えた悪意を感じた。
まさか、コントロールされている?
あかりの心を貫いたのは、疑惑の稲妻。
ああ、何てことだ、きっとそうに間違いない、開発者たちの仕業だ。
彼らは、メイドロボの印であるセンサーアンテナを外してしまわないように、無慈悲にも、マルチの心に枷をはめたのだ。
あかりはマルチの開発者たちを呪いたくなった。
どうしてそんな処置を施したのだろう。
作り物は人間と区別しないといけないというなら、何故マルチに人間と同じ心を持たせたのだ??
「一度、浩之さんに、これを外してみたらって言われたことがあったんですけど…」
マルチは恥ずかしそうに笑う。
「私、恐くて泣いちゃって。変ですよね」
マルチはセンサーアンテナのことを、当たり前のことと受け止めているらしい。いや、そう思うよう仕向けられているというべきか。
あかりには、そのときの浩之の気持ちが分かるような気がした。
怒り。絶望。
浩之のことだ。センサーアンテナをどうにかしようとしたのだろう。ひょっとしたら、メーカーに怒鳴り込んだかも知れない。だが、それはかなわなかったのだ。現にこうしてマルチは今もセンサーアンテナを付けているのだから。
ひどい…。
眉間を険しくして黙り込んでしまったあかりに、マルチは不思議そうに首を傾けた。
風呂を出た後も、あかりはずっとセンサーアンテナのことを考え続けていた。
あかりは決意を固める。
少し早いが、旅行の前からずっと心の中であたためていたあの計画を明かすのだ。
「ね、マルチちゃん」
あかりはベランダに出ようとしていたマルチを呼び止めた。
「あのね、見せたいものがあるの」
マルチの手を引っ張り、寝室に連れていくあかり。
自分用のスーツケースを開け、片方に納められていた茶色い包装物を取り出した。
一面だけクラフト紙をはがして、中身をマルチに見せた。
マルチは目をぱちぱちする。
あかりは苦笑し、一部だけだが、それを引っぱり出して見せた。
「ほら、綺麗でしょ?」
そこに入っていたのは純白のウェディングドレス。
あかりの手作りだった。
もちろん一人で全て仕上げたわけではない。一部は大学の友人、綾乃が手伝ってくれた。
綾乃は服飾デザイナーの娘だ。ウェディングドレスを作りたいとあかりが相談を持ちかけたとき、綾乃はちょっと驚いた顔をした。
『へぇ、また結婚するの?』
『…』
『冗談だよ。マジになんないで』
『う、うん。友達に作ってあげようかなって』
『いいよー』
内心、大変なお願い事をしたのではと思っていたあかりは、そのあっけらかんとした承諾にびっくりする。
学校が終わってから、綾乃の親が使っている作業部屋を訪ねた。
ひらひらの服がクローゼットにいっぱい並んでいた。
『こーゆーのって、今はコンピュータで作るんだ』
綾乃がちらっと投げた視線の先には、服を作り上げている自動機械の姿がある。
甲殻類を連想させるその作業アームは、素晴らしい速度で宙を切り、金属の銀色を閃かせながら、まるで魔法のように製品を仕上げつつあった。
機械のそばには、オペレータが立っていた。時折液晶パネルを指で叩いたり、何か引っ張る仕草をする。そのたびに機械は忠実にアームの動きを変えた。
あかりはその光景に素直な感嘆を覚えたが、それはあかりの求めるものではなかった。
『機械は使いたくないの。その人には、私の手作りのドレスを着て貰いたいの』
機械でさっさと片づけるつもりだったらしい綾乃は、その言葉を聞いて、目を真ん丸にした。棚からデータディスクを取り出すのを途中で止め、
『手作りって、自分の手で作るってこと…?』
『え? そ、そうだけど』
『ひょっとして、接着剤とか、圧着加工も無し?』
『よく分からないけど、全部、糸で縫いたいの』
『ち、ちょっと待って。それだと、すごぉく時間かかるよ?』
すごぉく、というところを強調する綾乃。
あかりの微笑みは変わらない。
『いいの、それでも』
綾乃は絶句した。
あかりをまじまじと見つめる。
『神岸さんって…』
やっと、言葉が出た様子。
『意外に頑固なんだ!』
『うん…よく言われる』
その言い方がおかしかったらしく、綾乃はぷっと吹き出した。
その屈託無い笑い声を好ましいと思うあかり。考えてみれば、こんな風に笑う綾乃を見たのは初めてだった。普段のとりとめない付き合いでは分からない側面だった。お互い、もっと親しくなれそうだった。
『分かった、分かった。神岸さんにつきあうよ。でも、手縫いだと、何日かかるかわからないよ? それでもいいの?』
『大丈夫だよ。私、頑張る』
綾乃は溜息をついたが、何処かしら楽しそうだった。
『ハイハイ、頑張ろうね。私も神岸さんのアシスタントしなきゃね。もち、手縫いね』
そう言いながら、衣装デザインの本を机に並べ始めた。
『ま、基本だかんね、手縫いは』
『そんな、悪いよ、吉崎さん、やり方だけ教えてくれれば』
『口で教えられたら苦労ないよ』
あかりは言葉に詰まった。
『…ありがと、吉崎さん』
『いいよ、別に。こっちもおさらいのつもりでやるんだし。うちのママ、うるさいんだ。最近の若い子は、縫い方一つなっちゃいないって。腕がなまらないようにしないとね』
綾乃は首をすくめてみせる。
『それからさ、私の呼び名なんだけど』
『う、うん』
『綾乃って呼び捨てにしてくれていいからさ。吉崎さんだと、何だかかしこまりすぎて、肩凝っちゃう。ね、若奥さん?』
『若奥さんて、変だよ、その言い方』
『そっかなぁ? みんなそう呼んでるよ? 若奥さんって』
『えっ!?』
『うそだよ、う〜そ☆』
真に受けてしまったあかりを見て、綾乃はケラケラ笑った。
自分だけ結婚式を挙げたことに、あかりは、少し後ろめたい気持ちを抱き続けてきた。
自分が結婚式を挙げたのなら、マルチも結婚式を挙げていいのでは、とも思っていた。浩之が平等と言っているのに、自分だけ特別扱いというのも気が引けたのだ。
ところが、浩之は、マルチとの結婚式など、考えた素振りも見せない。あかりとの結婚式が済むと、やれやれ肩の荷がおりたと言わんばかりに、また、バイト三昧の日々に戻ってしまった。
あんまりといえばあんまりな浩之に、あかりは呆れた。とはいえ、どう切り出すか迷っていた。そうこうしているうちに、新婚旅行の話が持ち上がったのだった。
あかりにとって、新婚旅行は願ってもない機会だった。沖縄という綺麗な場所で、二人の結婚式を挙げる。あかりが神父なり牧師の代わりをつとめ、二人に祝福を授けるのだ。
我ながら悪くないアイデアだった。
参列者が居ないのは残念だが、人間とメイドロボの結婚式ともなれば、大変な騒ぎになるだろう。それは諦めて貰わねば。
ただ、密やかに行われる分、あかりは心を込めてマルチの衣装を作ったつもりだった。作ったつもりだったのだが…。
「あの…」
ドレスを前にしても、当のマルチの反応は変わらない。
「これ、なんですか?」
「何って、ウェディングドレスだよ」
「はぁ…」
一向に要領を得ない、曖昧な声。そこに感動はこもっていない。
「えっと、どなたのウェディングドレスなんですか?」
「だから、マルチちゃんのだよ」
「えっ」
愕然とした様子だった。
予想だにしなかったマルチの反応に、あかりは少し戸惑う。
「どうしたの?」
「ウ、ウェディングドレスで、何をするんですか?」
「何って…結婚式だけど」
それを聞いたとき、マルチはまるでおびえた小動物のように身をすくめた。
切れ切れに呟く。
「そんな…あかりさん、私、私…」
コン、コンッ。
マルチの言葉は、ドアをノックする音に中断された。
「おーい、開けてくれー」
浩之だった。
マルチは救われたという表情で、
「はぁい、今開けまぁす!」
と、ぱたぱたスリッパの音を立てて走っていった。
マルチはドアを開けるなり、はしゃいだ口調であれこれ浩之に話しかけ始めた。
話を一方的に切り上げられてしまった格好のあかりは、クラフト紙を元のように戻すと、スーツケースを閉じた。まだ浩之には内緒にしておくつもりだった。
あかりにとって、マルチの反応は全く予想外だった。
変なの。喜んでくれると思ったのに…。
マルチの後ろ姿を見ながら、心の中で一人ごちるあかりだった。どうも分からないと首をひねる。
ひょっとして、私の言い方が悪かったのかな?
*****
結局、その後、あかりは、ウェディングドレスの話を切り出せなかった。
次の日も、旅行のスケジュールをこなすことに追われて、あかりは、そのことには触れられずにいた。
それは最終日の前日のことだった。
あかりたちは沖縄北部で海を見に行く予定だったが、突然の大雨で船が出せなくなった。
仕方なく、いったんホテルに戻ることにした。
皮肉なもので、嘉手納の辺りまで戻ってくると、天候はさほど荒れていなかった。薄曇り程度だろうか。もう少し待てば、晴れそうだった。
まもなくホテルに到着しようかというとき、あかりはあるものに目が惹き付けられた。
後ろに飛びすぎていくガードレールを越えた向こう、小さな入り江をはさんだ先の岬に、光の帯が下りていた。それはまるで光の階段のようだった。
あかりは、導かれるようにして、その光が照らす場所に目を向けた。
何かある。
あかりは目を細めた。
光の中に十字架が白く浮かんでいるのが見えた。
教会だった。
岬近くのなだらかな丘の上に、その小さい建物は建っていた。
あかりはふと思い付いた。
「ねぇ、浩之ちゃん、あそこ」
「ん? あぁ」
分かったんだか分からないんだか、曖昧な返事をする浩之。
「時間あるよね。行ってみようよ」
「…面倒くさい」
言葉だけでなく表情も露骨な浩之だったが、あかりの熱意に押し切られたのか、不承不承頷いた。
あかりはタクシーの運転手に教会を指し示した。
タクシーを見送った後、三人は、ハイビスカスの花が揺れる小道を、教会に向かって歩き始めた。
教会は低い丘の上にあった。
緩やかな傾斜の石段が、軽くカーブを描いて、頂上へと続く。
三人はゆっくりとそれを登っていく。
森の向こうに、あかりたちが泊まっているホテルの瀟洒な屋根が見えていた。意外に近い場所に、この教会はあった。
間近で見る教会は静まり返っていた。
緑青色のスレートが葺かれた造りは、まるで、周囲の緑と溶け込もうとしているかのようだった。小ぶりの鐘楼が建っていて、そのひさしの影の中に、玩具のような鐘が下がっているのが見えた。
汚れた窓の中はどれも暗かった。人の居る様子は全くなかった。
英語で書かれた看板には蔦が這い、錆が吹き出ていた。
タクシーの運転手は、この教会は米軍の施設だと言っていた。米軍が撤退する前は、日曜日になると基地の家族連れが礼拝にやってきたのだと言う。
米軍の撤退と共に、ここも引き払われてしまったのだろうか。
教会の裏手にも回ってみた。
そこは薔薇園になっていた。海に向かって、あるかないかの勾配があり、薔薇の植え込みがいくつももうけられていた。
薔薇園の先は林になっていた。
防風林を兼ねているのかも知れなかった。
まばらな梢の向こうに海が見えた。晴れ始めた空の下で、波の反射がきらきらとまたたいていた。
あかりは周囲を見回した。
ここにも人の気配はなかった。
殆どの草木は自然のまま、枝を張り伸ばしていた。
薔薇もまた、繁るに任せられていて、ここまで来ると、野薔薇と表現した方が良かった。鋏が入った様子はなく、枯れた株や赤茶けたつぼみが、切り取られることなく、そのままにされていた。
風が林を吹き払った。艶やかな葉がこすれ合う音に、あかりは注意を促された。
それらの木々に半ば埋もれて、何かがあった。
建物だった。天井の落ちた石造りの建物が、古びたたたずまいを見せていた。
沈黙したままのそれは、まるで、遠い昔に滅びたエトルリアンの墳墓のようだった。
あかりはそこにゆっくりと近づく。
建物の中は、人の住める状態ではなかった。石のベンチには、半ば腐った落ち葉が降り積もっていた。ここからも海が見えた。柱と柱の間に、青い光がのぞいていた。
「砲台だろ? これ」
後ろに浩之が立っていた。
「ほうだい?」
あかりはその聞き慣れない言葉を繰り返す。
「ほら、ここってさ、戦場だったから」
「そうなんだ…」
戦場。遠い響きだった。
戦争の跡なんて、記念碑以外には残っていないと思っていた。
あかりは薔薇園に戻ると、棘に気を付けながら、形の良い薔薇を幾つか手折ってきた。
朽ちた入り口にそれらを置き、しばらくの間、手を合わせ続けた。
それから振り返った。
鐘楼の上に掲げられた十字架が、陽の光に輝いて見えた。
無人の教会。素敵な野薔薇の園。
ここならいいかも。記念になるかも。
あかりは、自分をじっと見守っていた二人に、ニッコリ笑い掛けた。
「ね、ここで結婚式、挙げよう?」
「な、なに? 結婚式?」
浩之は素っ頓狂に聞き返す。
「誰の?」
「浩之ちゃんと、マルチちゃん」
「わ、私は別に」
マルチは引っ込み思案な声を出した。
「マルチちゃん」
あかりはマルチの肩にそっと手を掛けた。顔をのぞき込みながら、
「浩之ちゃんと結婚式、挙げたくない?」
「そ、それは…」
チラと浩之の方をうかがうマルチ。浩之は慌ててあらぬ方を向いた。実はマルチの答えが気になって仕方がないらしい。
「…」
とうとう顔を伏せてしまった。
あかりは苦笑した。
「ね、マルチちゃん、聞いて? 浩之ちゃんと結婚するとき、浩之ちゃんは約束したの。二人とも平等に愛してくれるって。だから、マルチちゃんも結婚式、挙げたらどうかなって思ったの」
「でも…」
マルチの困惑は一向に解けない。
「マルチぃ」
浩之だった。
「イヤならハッキリそう言って構わないからさ。俺はどっちでもいいし」
それはのんびりした声だったが、あかりには分かる。浩之はマルチを気遣って、わざとそんな口調を作っているのだ。
しかし何故気遣うのだ?
マルチは時々、あかりに対してひどく遠慮する様子を見せることがあるけれど、それと関係があるのだろうか?
マルチは、浩之と二人きりで居るときはいつも、緊張しているように見て取れた。
買い物に出かけるときもそうだ。マルチが買い物袋を手にしたのを見て、浩之がのっそりと立ち上がると、マルチは必ずあかりを誘う。
そうしないと浩之を独占しているようであかりに悪い、と言いたげに。
「…えっと、えっと…」
マルチは本当に迷っているようだった。
マルチも浩之の本心に気付いていて、浩之の望みを叶えて上げたいという気持ちを捨てきれないで居るのだろう。
「浩之ちゃん! それって変だよ。浩之ちゃんとマルチちゃんが結婚式挙げて、何が悪いの?」
「悪くはねーよ」
浩之は何処かしら居心地が悪そうだった。
「でもさ、俺たちが押し付けるようなことでもねーだろ?」
あかりはその優柔不断な物言いにむっとする。
「浩之ちゃん! 浩之ちゃんがそんな風に迷ってたら、マルチちゃんだって困るじゃない!」
迷う男を見たら、女は何も言えなくなってしまう。特にマルチのような心の優しい娘はそうだ。こういうことは男がリードすべきなのだ。
「…困るったって、お前」
浩之はマルチの方に向き直った。
マルチは浩之の視線を避けるように、ますます深くうつむいてしまう。
浩之はため息をついた。
「マルチ、どうする?」
「…浩之さん」
驚いたことに、マルチは震えていた。
「…私、恐いです。そんなことしたら…」
マルチの言葉は殆ど聞き取れなくなる。
「…浩之さん…笑われるんじゃ…ないかって…」
「な、マルチ」「マルチちゃん」
浩之とあかりの声が重なる。
思わず顔を見合わせた幼なじみ同士。
あかりが譲った。
浩之は間延びした声で言う。
「マルチ…。俺のこと考えてくれてるんだろ? いいんだよ。お前の好きにすればいいから。俺はどっちでもいい。つらいなら止めて構わないよ」
「つらいって?」
あかりが割り込む。
「何がつらいの? ね、浩之ちゃん」
「色々だよ。色々」
浩之の言葉は要領を得ない。はぐらかすような言い方をした後、後ろポケットに手を突っ込み、花壇の方に歩いていってしまう。
それをぽかんと見送るあかり。煮え切らない二人にやきもきし始めた。
確かに、人間とロボットの結婚式は奇異の目で見られるかも知れない。しかしここは無人なのだ。誰も見ていないなら、別に構わないではないか。
なにより、結婚式は人生の節目なのだ。教会で式を挙げられるなら、それに勝るものはないだろう?
あかりはマルチに近づいた。
「マルチちゃん」
あかりの手を肩に感じても、マルチは顔を上げようとしない。
「本当は、浩之ちゃんと結婚式、挙げたいんでしょ?」
結婚式、という単語を聞くと、マルチの身体が微かに動いた。
やっと、あかりを見た。
「私…」
言いかけて口ごもり、ふるふると首を横に振った。
「やっぱり…駄目です…そんなの。ロボットと結婚式なんて…変です」
「マルチちゃん」
あかりはそっとささやく。
それから、ぐるっと周囲を手で指し示して見せた。
「見て? 誰も居ないよ? 私たちだけだから、変な目で見る人なんて、居ないよ?」
言われるまま、マルチは目を凝らした。
確かに誰も居なかった。
木立がざわつくのは風のせいだった。
彼らの様子を観察しているのは、木々の頂越しに見える、青灰色にくすむ午後の海だけだった。
時折、鳥の声が聞こえた。さえずり交わす鳥たちの声に、テリトリーに侵入してきた者を警戒する鋭さは全くなかった。
何も変わらない、穏やかな世界。
海からの風が髪や服を揺らして吹き過ぎた。その後には、潮の強い香りだけが残った。人の話し声や社会のざわめきは、風のあずかり知らぬところのようでもあった。
あかりの言うとおり、ここは人から忘れ去られた場所なのかも知れなかった。
「ね? 誰も居ないでしょ? 大丈夫だよ」
「でも…」
そう言えば以前、あかりは、マルチのサイズを念入りに測っていた。
何故そんなことをするのか、マルチには分からなかった。
しかし今は分かる。あかりはマルチのためにドレスを作ってくれていたのだ。
親指に絆創膏を貼っていたあかり。どうしたのか聞いても、答えをはぐらかすばかりだった。あれは、針で怪我をしたためではなかろうか。
このまま断り続けては、あかりに申し訳ない。
マルチの中でそんな気持ちが大きくなる。
すぐに済むのなら、誰も気付かないかも知れない。
マルチは浩之の方を盗み見た。浩之は、薔薇の絡み合った枝をつまらなそうに観察していた。
マルチにはもう一つ、結婚式をためらう理由があった。
式を挙げることで、浩之を余計な期待を与えてしまうのでは、と心配していたのだ。
沖縄にやってきた日、ホテルの部屋で荷物を降ろしているときに、浩之から呼ばれた。
『お前、もしかして、俺を避けてない?』
引っ張って行かれた物陰で、浩之はさり気なくそう訊ねた。
マルチは、そのとき、嘘を言った。
『そんなことないです、浩之さん』
浩之は明らかに納得していなかった。なおもマルチを問いつめようとしたところで、あかりが現れた。
助かったと思った。浩之の追及をかわしきれる自信はなかったから。
浩之は以前と変わらず、マルチを女性として愛していた。
新婚旅行の前のことだ。あかりが実家に戻っていた二日間、マルチは、なし崩し的に浩之と関係を持った。
それまでは、何も起こらなかった。あかりが家に来てからは、一階の和室で三人一緒に寝起きしていたのだ。
マルチは眠りを必要としない。ただ、消費電力を極めて低く保つことで、それに近い状態を作ることが出来た。来栖川電工はメイドロボに睡眠は必要ないと言っていたが、その一方で、人間の睡眠時間程度の休息を与えることで、部品の耐用時間は大幅に延びる、とも言っていた。
朝が来ると、マルチの体内にあるタイマーが作動する。人間でいう「目覚め」を迎えるのだ。
目を開けると、あかりの寝顔が目に入る。
そのうち、控えめな音にセットされた目覚ましがピピッ、ピピッとさえずり始め、あかりの手が枕元を探りだす。目覚ましをとめた後、むにゃむにゃと眠そうに顔をこすっていたあかりは、マルチの視線に気付く。
おはよう、マルチちゃん。寝起きの顔を見られ、気恥ずかしげな声を出すあかり。
それからあかりは身を起こし、ゆっくりと伸びをする。確認するように、だんだん大きくなってきたお腹を撫でる。マルチもまた、あかりの横に正座して、未来の詰まったその場所を飽かず見つめている。
あと何ヶ月。あと何日。
あかりとマルチの間で繰り返される問いと答え。ああ、浩之の子供はどんな子だろう? 想像するだけでマルチは幸せになれた。
向こうでは、父親になる予定の浩之が、大口を開けたまま、なおも爆睡中。よだれの痕を口の横に貼り付かせた浩之に、あかりとマルチは呆れて顔を見合わせ、くすくす笑う。
こんな生活もあるのだろうとマルチは考えるようになった。あかりと共に眠るのは、浩之と居たときとは別の安らぎがあった。
それが、あかりが居なくなると、急に空気がぎこちなくなった。
夕食が終わったあとも二人は寡黙なまま。気を紛らせようとテレビをつけたのだが、それが良くなかった。つけたチャンネルでは、恋愛ドラマをやっていた。しばらく観ているうちに、恋人たちがベッドで抱き合うシーンに変わった。
恥ずかしくなったマルチは、用事があるふりをして、席を立とうとした。
出来なかった。
浩之がマルチの手を握っていた。
元々、浩之はマルチを諦めるつもりなどなかったのだ。マルチがあかりの名を挙げても、浩之は怯みもしなかった。
『あいつは分かっている。お前は何も心配しなくていい』
そう言いながら浩之は、今まで失っていた時間を取り戻すかのように、マルチを激しく抱いた。
そんな浩之にマルチは驚き、抗った。抗いながら、その一方で、浩之に身を委ねたいと願う気持ちに戸惑っていた。
あいつは分かっている。
浩之のその言葉に嘘はないのだろう。マルチとのことを認める約束で、あかりは嫁いできたのだから。あかり自身も、マルチちゃんと私は平等なんだよ、と言ってくれている。言外に、浩之とマルチの関係は納得していると匂わせながら。
しかし、実際にあかりが来てみると話は別で、このまま浩之と関係を持ち続けていいのだろうかと、マルチは不安になった。
間近で接するあかりは、妊娠していることもあって、ひどく華奢に見えた。いつもそばで気を付けていないと、心配で仕方なかった。自分が浩之に抱かれたことを知ったら、あかりは何と思うだろう。マルチの相談に乗ってくれたあの日のように、家を飛び出していってしまうのではないだろうか。
それなのに…。
マルチはかたく手を握りしめた。
あのとき、本当に抵抗したと言えるのだろうか。
テレビの音声が空しく響く中、浩之の手の触れる部分が腕から胸へ、胸から首へ、そして顔へと移っていき、両頬に浩之の温かさを感じながらキスを受けた。
身体ごと抱き上げられ、浩之の部屋に連れて行かれる間、マルチはただ、ぼぅっとしていただけだった。
ベッドに寝かされたとき、最後の理性が目覚めた。浩之の身体を押しのけようとしたが、それは殆ど申し訳程度に過ぎなかった。
マルチはきゅっと唇を噛んだ。
めくるめく快楽の中、歓喜にむせんでいた自分を、行為のあいだ、うわごとのように浩之の名を繰り返していた自分を思い返していた。
自分に言い聞かせる。何度も、何度も。
こんなこと、もう止めにしよう。
浩之と関係するのはこれきりにしよう。人間であるあかりを立てて、自分はメイドロボでとどまろう。
そうすれば誰も傷つかない。誰も…。
あかりの穏やかな笑顔が心を過ぎった。
関係の後、疲れ果てて眠る浩之の横顔を見つめていたとき、不意に涙がこぼれ出た。
悲しい涙だった。
どうして悲しいのか分からない。分からないが、その涙はあかりを裏切るもののような気がして、マルチは懸命に顔をこすった。
浩之の額にそっと唇を寄せた。
マルチにはそれが精一杯だった。
『…浩之さんのお嫁さんは、あかりさんなんだもの』
その呟きを幾度口にしただろう。
マルチはメイドロボなのだ。
一線を踏み越えると、浩之が傷つく。メイドロボを偏愛する社会の落伍者と、周囲から烙印を押されてしまう。
そうだ。
時間が経てば、浩之だってきっと分かってくれる。メイドロボと恋愛するのは間違っている。人間は、社会から離れては生きていけない。社会が拒絶するような伴侶と、一緒にいてはいけない。
浩之のそばにはあかりが居てくれる。彼にはあかりこそ相応しい。
相手があかりなら、手を繋ぐ姿を他人に見られても、嘲りを受けることはない。
浩之が傷つき、苦しむのをもう見なくて済むのだ。
これで終わりにしなくてはいけない。
もちろん、浩之との約束は守る。自分は浩之のそばにずっと居よう。
…メイドロボとして。
そうして、ゆっくりと、ゆっくりと、浩之の中に燃えている愛情の炎を弱め、その熱を冷ましていこう。
そのうちいつかは、浩之の嫌がる「ご主人様」という言葉も、すんなり受け入れられるだろう。
そしてマルチは、浩之と出会った頃のマルチに戻る。そう、三年前、人間に奉仕することだけが生き甲斐だと信じていた、まだ恋を知らない、真っ新なマルチに。浩之の未来は、マルチのような機械が台無しにしていいものでは決してないのだから…。
浩之の未来…。
マルチの思考の中に、浩之とあかりが穏やかに笑い合う光景が生まれた。
晴れた日の午後、二人は仲良く子供の手を引いて、近くの公園を散歩している。
マルチはその一歩うしろに控え、三人についていく。
時折子供が振り向いて、マルチに笑い掛ける。
ぴく、とマルチの瞳が動いた。
そのとき子供は何と言うのだろう?
その子はメイドロボを『お母さん』と呼んでくれるのか?
『お母さん』と想ってくれるのか…?
…。
マルチは心の中で哀しく嘆息した。
「マルチちゃん、どうしたの?」
気が付くと、あかりが心配そうにマルチの顔をのぞき込んでいた。
「本当に、イヤなの…?」
ひどく残念そうな声だった。
多分、このまま黙って居れば、優しいあかりは諦めてくれる。
しかし、期待がしぼみかけているあかりを見ていると、マルチのそうした思いはぐらつく。あかりはマルチにも幸せになって欲しいと願っているのだった。
自分にそこまで尽くしてくれるあかりをがっかりさせたくはなかった。
マルチはようやく覚悟を決めた。
結婚式を挙げた後も、今まで通り、気を付けていればいい。
浩之に求められたら、今度こそ拒もう。浩之の伴侶はあかりただ一人なのだから。
今だけは、あかりの好意を無駄にするまい。
ほんの形だけ、形だけのことだ。
マルチはためらいながら首を縦に振った。
*****
一度ホテルに戻った三人は、準備を整えてから、教会に引き返した。
三人を迎えた教会は、相変わらず無人のままだった。
ひょっとして人が居たらどうしようと心配していたあかりは、ほっと胸をなで下ろした。
よし。
一人うなずき、腕まくりする。
その意気込みに思わず苦笑する浩之。
あかりが次に何をするのか見守っていたら、何故か浩之のそばに来た。
「あの、浩之ちゃん?」
ばつが悪そうだった。
「ごめんね。浩之ちゃんの服、用意できなくて…」
最後は上目遣いになって浩之の顔色をうかがうあかり。
マルチのドレスを作るのにかまけて、浩之の服までは手が回らなかったのだ。
尤も、浩之は、自分の格好には無頓着だった。
礼装を渡された浩之は文句も言わず…いや、あかりとのときみたいに、とっかえひっかえ、色んな格好させられるよりは遙かにマシだ、等とチクリチクリあかりをいじめ…ホテルでさっさと着替えを済ませていた。
「ホントにごめんね…」
何度も謝るあかりだったが、ふと浩之の顔に怪しいニヤニヤが浮かんでいることに気付き、びくっと身体をこわばらせた。
やられる! あかりが身構えるのと、浩之の手が伸びるのは同時だった。
あかりの髪をくしゃくしゃ念入りにかき乱す浩之。
「ったく。お前ってやつは!」
「きゃー! やめてー!」
少々乱暴だが、それが浩之なりの照れ隠しであり、感謝の表し方なのだ。
あかりは手で頭をかばい、浩之の攻撃を防ごうとする。
「もう、そんなにはしゃいだら、服にいっぱいしわが付いちゃうよ…」
散々爆撃された後、やっと解放して貰ったあかりだった。髪を直しながらこぼす。
「いいよ、別に。どうせこれが終わったら、クリーニングに出すんだろ?」
浩之は調子っぱずれな口笛を吹き出した。
「そんな、いちいち出さないもん。スチーム当てて、風通しのいい場所にかけておけば済むんだから。ね、マルチちゃん?」
「え?」
マルチはきょとんとあかりを見つめた。
「どうしたの?」
「は、はい。ちょっと」
「…」
ぼんやり物思いに耽るマルチに、浩之は一瞬、不安そうな顔をした。
木立がざわめくたび、ぴくんとマルチは反応した。落ち着きなく周囲を見回し、風の仕業だと知ると、安堵した様子を見せた。
いたたまれなくなる浩之。
な、マルチ。そう言いかけたとき、
「浩之ちゃん」
あかりが背中を向けたまま声を掛けた。あかりは、浩之が運んできた荷物をベンチに置くと、いそいそと中身を取り出し始めていた。
「ね、呼ぶまで表に行っててよ」
「…なんで?」
あかりは溜息をつく。
「マルチちゃん、これから着替えするんだよ?」
「で?」
尻に根が生えたように動こうとしない浩之に、あかりはイライラと繰り返した。
「向こう行ってて。お・ね・が・い」
「…。分かったよ」
浩之は肩をすくめた。上着を肩に引っかけると、
「じゃあ、な。マルチ」
マルチは答えなかった。考え事に没入していたようだった。
少し遅れて、声を掛けられたことに気付いた。
「え? は、はい、浩之さん、何ですか?」
「…」
マルチに対して何か言いたげな浩之だったが、結局思いとどまった。
「…いや、いいよ」
浩之は微笑みを浮かべた。それは何処か弱々しかった。
「じゃ、俺、表で見張ってるから」
浩之は手持ち無沙汰だった。
ただぼんやりと時が過ぎるのを待っていた。
カラン…カラン…
上空に風が吹くたび、小ぶりの鐘が揺れた。揺れるたび、乾いた音を立てていた。
向こうに国道が見えた。行き来する車は絶えないが、スピードを落とすものは皆無。ここに立ち寄る物好きは居ないということなのだろう。
何となく理由は分かった。
国道とここを隔てる草原には、立ち枯れた木のように何かが林立していた。建物の鉄柱だった。米軍の撤退で、この辺りにあった建造物はさっさと撤去されてしまったのだろう。そして、亜熱帯植物の旺盛な繁殖力が、この辺り一帯を緑に塗り込めてしまったのだ。ここはゴーストタウンというわけなのだった。
なおも国道を観察し続ける浩之だったが、次第に飽きてきた。
石段に腰掛けようと中腰になりかけ、あかりの「しわになっちゃうよ」という言葉を思い出し、止める。
暇つぶしに、前に転がっていた平たい石を蹴った。
石は意外に良く跳ねた。
カツカツカツと乾いた音を立てながら、石段を落ちていく。石段がカーブする辺りで、蛙よろしく草むらに飛び込むのを見て、浩之は考え込んだ。
「…変化球」
そうぼそっと呟くと、ひねりを加え、もう一度蹴る。
今度の石は派手なスピンがかかっていた。くるくる舞いながら階段を降りていき、カーブの手前であらぬ方向に跳ね飛んで消えた。
「…あそこのカーブがくせ者なんだよな」
浩之は口の中でブツブツ言葉を練る。
暇つぶしに、石を石段の一番下まで落とそうというのだ。
普段はずぼらなくせに、どうでもいいときに限って凝り性に変わる。
浩之は、直球にやや微妙な回転を付けて、カーブの内側めがけて石を蹴った。
中学校までは、雅史よりサッカーボールの扱いが巧いと自負していた。その技量は健在だったようで、狙い通りの場所に叩き込めたのだが、今一つ回転が足りない。下にたどり着く前に階段を飛び出してしまった。
もはやあかりの言葉など忘れ、プロゴルファーよろしくしゃがみ込み、球筋を見る浩之。
「うーん…」
「浩之ちゃん」
考えに集中しようとしていたちょうどそのとき、あかりの声が背後で響いた。
「ちょっと、待て」
浩之の眼は石に張り付いたまま。
「え?」
「今、ひじょーに忙しい」
あかりの影が肩越しに落ちた。浩之が何をしているのかと、覗き込んでいるのだろう。
「?? 何? 何か珍しいものでも居た?」
「うん、ハブ」
何気ない冗談のつもりだったのだが、あかりはひゃっと掠れた悲鳴を上げた。浩之の前にのびていた影がすっこむ。
「…ったく、冗談だよ。すぐ騙されるのな、お前」
「ひ、ひ、浩之ちゃん…!」
半泣きになったあかりの抗議を無視して石を蹴り出す浩之。
コースを見て、舌打ち。
あかりはようやく浩之の熱中しているものの正体に気付いた。
石とにらめっこし、角度を変えつつ蹴る真似を繰り返す浩之に、あかりはやれやれという表情を作る。
「ね、そんなの、どーでもいいじゃない」
「そんなことないぞ。これがなかなか奥が深くて…って、ん? 何だ、あかり?」
「浩之ちゃん、早く来てよ。準備出来たから」
浩之は言われた意味をつかみかねる。
「は?」
付き合いが長いだけあって、あかりは辛抱強かった。
「だから、マルチちゃん、待ってるよ?」
ぽかんとしたままの浩之だったが、漸くあかりの言わんとすることに気付いた。
「悪ぃ、悪ぃ。忘れてた」
頭をかいて謝る浩之。
あかりは呆れ、不満げに腰に手を当てた。
「もう。二人とも変だよ。マルチちゃんはずっとぼんやりしてるし…」
浩之は答えなかった。
教会の裏手に向かって歩きかけ、ふと思い付いたというような口調で、
「なぁ、あかり」
「ん? なぁに?」
振り向いたあかりの無邪気な笑顔に、浩之はその先が言えず、そのまま口を濁してしまった。
心の暗がりに沈んでいた記憶が浩之の精神を刻む。
浩之はあかりに聞こえないように溜息をついた。
マルチとのやり取りが、剃刀の刃がきらめくように、心に浮かんでは消えた。
『お出かけですか? え、私も行くんですか?』
『何処に行きたい?』
『…。何処にも行きたくないです』
『たまの休みなんだぜ? 行こうよ、なぁ』
『でも、私は』
『ほら、ぐずぐず言ってないで、支度しろよ。出かけるぞ?』
…。
『ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…』
『…マルチが謝ることないだろ?』
『ひっく…ぐすっ…』
『俺は気にしてないよ』
『でも…浩之さん、私のせいであんなに笑われて』
『そんなこと、どうでもいいんだよっ! 気にするなよっ!』
『ひっく…ううう…』
…。
『今日は何処に行きたい?』
『…。何処にも…行きたく…ないです』
『いつも同じことばっかりしてたら、気が滅入るぞ? 気分転換に行こう』
…。
『…ごめんなさい…』
『…マルチが謝ることない』
『…ごめんなさい…』
『謝らなくていいって…』
…。
『な、今度は何処に行きたい?』
『浩之さん…もう…私は…』
『今度は大丈夫だって。な、マルチ』
『私を人間扱いしないでください…。私は…メイドロボなんですよ…?』
『違うっ! お前は人間だよ!』
『浩之さん…。私と暮らしていて、本当に大丈夫なんですか…? 私は…私は…』
『何言ってるんだ! お前はメイドロボじゃない! 人間だよ! 俺の家族だよ! だから自信持てよ!』
『でも…』
…。
『雨…濡れるぞ? ほら、もっと近寄れよ』
『…私は…大丈夫…です…ロボット…ですから』
『人間だよ…お前は』
『…違い…ます』
『そんなことない。誰が何言ったって、お前は…』
『浩之さん…もう…私は…メイドロボで…構いません』
『違う、人間だよ。もっとこっちに寄らないと、濡れるぞ?』
『でも…私…風邪…ひかないです…』
『…風邪ひかなくたって、マルチは人間だよ』
『…』
『泣くなよ』
『…は…はい…』
…。
過去の苦しさが心の底から突き上げてくるたび、浩之の足取りは鈍り、ともすれば立ち止まってしまいそうになる。
胸に満ちる切ない思い。
マルチにとって、自分との暮らしに意味はあったのだろうか。楽しかった思い出なんて、マルチにあるのだろうか。
せめて一つ、一つだけでいい、素晴らしい思い出を与えてやりたい。
自分と一緒に居て、心から幸せだと言えるような思い出をマルチに…。
そう考え考え、角を曲がった。
浩之の足が止まった。
咲き誇る赤い薔薇を前にして、白いレースのドレスをまとった女性が立っていた。
心持ちうつむきがちな彼女は、じっと誰かを待っているようであった。
浩之は目を疑い、説明を求めてあかりの方に振り向いた。
にこっとするあかり。どう?と言いたげな、得意満面な様子。
浩之は言葉を失ったまま、再び薔薇園にたたずむ女性に視線を戻した。
ヴェール越しにセンサーアンテナの影が見えた。確かにマルチだった。
所在なげに組み合わされた両手は、ぴったりとした白の手袋に覆われていた。薄いレースのヴェールが顔を半ばまで隠し、神秘的な印象を与えていた。ほっそりとした腰つきは、普段とは違って、ひどく大人びて見えた。
どの部分をとっても、しとやかな、という表現がよく似合っていた。
浩之は気持ちの一部でマルチを子供扱いしていて、幾分高を括っていた面もあったから、いままで見過ごしていたマルチのそうした側面に驚嘆した。
むずむずしているあかりに後ろから押され、歩き出す浩之。
「よっ、待たせたな」
浩之は努めて平静を装う。
その声にマルチは振り返った。浩之を眩しそうに見つめる。
「あ、浩之さん…」
少しはにかんでいた。
浩之は何も言わない。
しげしげとマルチの格好を観察する無遠慮な浩之の視線に、マルチは次第次第に上目遣いになって、もそもそと両手をすりあわせ始めた。
「ヘンですか?」
馬子にも衣装なんて言い出すのではないかと、はらはらするあかりであったが、浩之はただ、優しく首を振るだけだった。
「…」
マルチはベンチに置かれた手鏡を見遣った。
「私、なんだか、私じゃないみたいです。不思議で…」
頬を桜色に染めながら、ぽつぽつと話すマルチ。
浩之は無言で頷く。
「浩之ちゃん、マルチちゃん、ちょっといい?」
二人の世界に入りかけていた浩之とマルチは、はっと我に返った。
あかりは苦笑い。
「ね、写真撮ろうよ?」
あかりは荷物の中からデジタルカメラを取り出していた。
「んなことより、式の方、早く済ませようぜ?」
「すぐ終わるよ。一生の記念なんだから」
浩之はなんてせっかちなのだろう。
あかりは呆れつつ、デジタルカメラを構えた。
ファインダの中の二人に集中する。
ズームがかかり、二人が大写しになった。
うまく撮らなければと思うと、否応なく緊張する。指がちょっと汗ばんできた。
小鳥の声も騒がしく聞こえる。
これを仕事にしている志保の大変さが分かるような気がした。
「ね!」
あかりは、ぎこちない二人に声を掛けた。
「どうしたの? 緊張してるの?」
二人はぼんやりと顔を見合わせ、慌てて笑顔を作った。
今ならいい写真が撮れる。
「いくよ! ハイ、チーズ!」
あかりは手早くシャッターを切った。
「おい、あかり。もういいだろ?」
「んもう、焦らないで。あと一枚、あと一枚だけだから」
「あかりぃ〜」
あかりは浩之の抗議を無視。
カメラを構えるあかりに、浩之とマルチはまた寄り添った。
今度はさっきよりずっと自然に見える。
「うん、いいよ! そのまま、そのまま」
動かないでね、と祈りつつ、シャッターボタンに指を載せるあかり。
そのときだった。マルチから急に笑みが消えた。
まるでカメラに撮られるのを恐れるかのように、顔がひきつっている。
どうしたの、マルチちゃん。
あかりがそう言いかけたとき、突然、背後で声がした。
「どなたです?」
*****
林の入り口のところに、ロマンスグレーの外国人が立っていた。
かなり高齢の老人で、教会関係者が着ているような、黒い服装をしていた。
足が悪いらしく、杖をついている。
「どなたです?」
流暢な日本語で、老人はもう一度問いかけた。
不審げに灰色の眼を細め、見知らぬ者たちをじろじろと見回した。
と、その目が一点で静止した。ヴェールをかぶったマルチの存在に気付いたのだ。
「その方は…?」
どうっ! 強い突風が薔薇園を襲った。
ヴェールが乱れ、隠れていたセンサーアンテナが白日の下にさらされた。
老人の表情は険しくなった。声の調子に厳しいものが混じった。
「あなた方はここで何をしているのです? それは何のおふざけですか?」
その糾弾はマルチも標的にした。
「あなたは人間と何をしているのです? ここは、人間の男女が将来を誓い合う、神聖な場所ですよ? おふざけにもほどが過ぎるのではないですか?」
「あ、あの」
言い訳をしようとしたあかりの後ろで、マルチがしゃくり上げ始めた。やがてそれは叫びにも似た悲痛な泣き声に変わった。
これには、ほかならぬその老人が驚いた。
老人はこの教会の牧師だった。
書斎に通された三人は、壁の前で足を止めた。
様々な写真が大きなガラス板に挟み込まれ、壁に掲げられていた。
教会の前で笑っている黒人たち。
SNCCと染め抜かれた横断幕を掲げ、行進する若者たち。
白いオベリスクの見える広場に、多くの人々が集まっている風景。
滑走路の横で整列し、緊張した表情でカメラの方を向いている兵士たち。
少なからぬ時間を経てきたのだろう、それらはどれもセピア色に変わっていた。
写真の中には見た顔もある。名前は思い出せなかったが、黒い帽子をかぶった褐色の肌のその人は、世界史の教科書に載っていたような気がした。
「随分昔の写真です」
牧師の言葉は静かだった。
さて。
一呼吸の後、老牧師はマルチに向き直った。
「先ほどは失礼しました。大声を上げてしまって」
最近は、場所柄をわきまえない若者が増えましてね。そんな呟きをはさんだ後、牧師はあの灰色の眼差しに謝意をたたえ、続けた。
「メイドロボと間違えて申し訳ありませんでした、お嬢さん。耳飾りだとは思わなかったものですから」
どうやらこの牧師はマルチを人間と勘違いしているらしかった。
一瞬、あかりは本当のことを言おうか言うまいか迷った。
尤も、すぐに思い直す。
人間と思い込んでくれているなら、それはそれで好都合だ。このまま結婚式を挙げさせて貰えるかも知れない。
と、そのときだった。
涙を拭っていたマルチが、顔を上げ、言った。
「いえ、それでいいんです。私はメイドロボです。形式名はHMX−12マルチと言います。三年前、来栖川電工の研究所で製作されました」
それから、感情で乱れた顔を隠して、深く頭を垂れた。
「人間の皆さんみたいに結婚式を挙げるなんて、厚かましいことをしてすみませんでした」
「いや…しかし」
老牧師は驚いたように目を白黒させる。
「しかし、あなたは、さっき」
そうだ。涙を流すメイドロボなど居ない。
このマルチを除いては。
「それでも、私は、メイドロボなんです」
マルチはうつむいたまま、小さく首を振った。
「ですが…」
牧師は言いかけ、あかりに疑問の答えを求めようとした。
多分そのとき、あかりは悲しい表情をしていたのだろう。牧師の顔はみるみる陰りを帯び始めた。
「おい、行こう」
むっつりと腕を組んでいた浩之が、そのとき急に沈黙を破った。ぶっきらぼうな言い方だった。
申し訳程度、牧師に頭を下げると、浩之は大股で戸口に向かう。
「お待ち下さい」
牧師は慌てた。
「もう少し、もう少し話をさせてください」
浩之は振り向きもしない。すたすたと歩き去っていく。
牧師が、浩之を引き留めようとして、杖にすがり、不自由な足と格闘し始めたのを見て、あかりは慌てた。浩之を追い、小走りで部屋を出た。
「浩之ちゃん!」
浩之は足が速かった。あかりが教会の正面扉を押し開けたとき、浩之は既に丘を下りきってしまっていた。
「浩之ちゃん!」
あかりは声を限りに叫ぶ。
「待って! 浩之ちゃん!」
走りながら何度も浩之の名を呼んだ。
浩之の背中が漸く止まった。後ろを振り仰いだ浩之は、足早に石段を下りてくるあかりを認め、驚愕に顔をひきつらせた。
「ばか、走るな、お前、身体!」
「あっ」
あかりは慌てて立ち止まる。胸のドキドキをおさえながら、浩之を見おろしていた。
階段の途中で立ち竦んだように動かないあかりに、浩之は、仕方ねぇな、とふてくされたように首をねじ曲げ、渋々折り返してきた。
「何だよ」
「浩之ちゃん、お願いだから、牧師様のお話も聞いて上げて」
「何も聞くことなんかねーよ」
「でも、ひょっとしたら、分かってくれるかも」
「一緒だよ。他のやつらと」
結婚式の続きが出来るかも、と言いかけたあかりの言葉を、無愛想に遮る浩之。
「何言ったって…何をどうしたって、分かってなんか貰えねぇよ。さっきの聞いたろ? 何のおふざけですか、だってよ」
浩之は口の端を歪めた。そのときになって初めて、あかりは、浩之はずっと感情をおさえつけていたのだと気付いた。
「ロボットってだけで、よくもあんなひどいこと言えるもんだな。ここは、人間の男女が、永遠の愛を誓い合う場所、だ?」
浩之は熱に浮かされたように罵り始めた。
「人間がそんなに偉いのか? ロボットだとどんなに人間らしくても駄目なのか? 幸せになっちゃいけないのか? 人間が作った道具だからか? 道具は分をわきまえろってか? 何も考えるな、何も感じるな、心? 必要ない。それより仕事しろ、仕事が終わったら充電だ、充電が終わったら働け、働け、働け、働け、働け! メイドロボはそれしか許されないのか!?」
「浩之ちゃん…」
「人間だから何だってんだ。人間でも、クズのような連中はごまんと居るだろ。そんな連中でも、人間だから大事にして貰えるってのか!? 裏で何やってるか分からないような連中が、あいつのこと笑い者にして、蔑んでるような連中が、それでも人間だから祝福して貰えるのか!? あいつのほうがずっと人間らしくて純粋で優しくても、ロボットだから駄目なのか!? それが常識なのか!? 正しいことなのか!? なぁ、あかり、俺は間違ってるか? メイドロボを好きになった俺は、気が狂ってるのか? あいつを大切にしてやりたい、幸せにしてやりたいって感じちゃいけないのか? そうなのか、あかり?」
何も言えなくなってしまった。
浩之の言葉が投げ付けられるたび、首を振ることしか出来ない。
あかりの前で感情的にまくし立てる浩之の姿は痛々しかった。浩之とマルチは、あかりが想像する以上に、つらい思いをしてきたのだろう。
あかりは軽率な提案をしてしまった自分を悔やんだ。自分の考えが至らなかったせいで、二人を傷つけてしまったのだ。
目を潤ませ、ただ黙って浩之の言葉を受け止め続けるあかりの表情に、浩之ははっと我に返ったようだった。気まずそうに口を閉じた。
重い沈黙が漂う。
空は澄み渡り、深い青が顔をのぞかせていた。
強い風が、丘の表面を撫で上げていく。
ざざっ、ざざっ、と草の触れ合う硬い音。
微かに、ごうごうと空が轟いていた。遙か上空を飛ぶ飛行機の音だった。
「悪ぃ…」
浩之の声は遠かった。
「あかりを責めるつもり、無かったんだ」
あかりはうなだれ、こぼれそうになる涙を我慢していた。
泣くことしか出来ない自分が情けなかった。
「…なぁ?」
浩之は溜息をつきつつ、続けた。
「あかりは素直だから、相手の言ってること、信じてるんだろうけどさ…。あのじいさんの考えてることって、そこらの連中と変わんねぇよ。そりゃ、悪人じゃねーだろうけど、機械は道具で、人間扱いするのは間違いだって思ってるんじゃねーかな?」
「…」
「それにさ、知ってるか? あのじいさんが拝んでる神様って、生き物以外は知らんぷりなんだぜ? あんまり真面目に取り合ってると、しまいにバカ見るぞ」
さ、帰ろう。
浩之は気の重そうな口調でそう締めくくった。
ああ、またか。
浩之にしてみれば、そんな思いが先に来る。
こうした出来事は、慣れてしまったとまでは言わないが、別段目新しいものではない。これまでも、いやになるほど繰り返されてきたことだったのだ。
あまり同情されたくなかったので、あかりには、浩之とマルチが周囲から受けた仕打ちのことは話さずにいた。三人の楽しい生活に水を差したくない、という思いもあった。
あかりの心遣いが嬉しかっただけに、こんな結末を迎えてしまったことを苦く思う。
マルチとの結婚式。
正直、それを夢見た時期もあった。マルチと同棲し始めた頃は、そんな人生の一区切りを、マルチと共に迎えられればいいのにと思っていた。
しかし…。
人間としての付き合いを求める浩之に、マルチは次第に疲れ、臆病になっていった。最後には、人間扱いされることに強く抵抗するようになってしまった。
そんなマルチがせっかく乗り気になりかけていた結婚式だったのに、さっきの牧師が全てぶち壊した。マルチは深く傷ついた筈だ。結婚式など、もう二度と望まないだろう。
また泣かせてしまったな。
浩之は悔やむ。
こんな筈じゃなかったのに…。
そこには贖罪の意識があることに、浩之は気付いていた。
ある人物のことに思考は行き着く。
マルチを開発した人物。マルチの親代わりであり、実際、父親のように彼女を愛していた開発主任、長瀬源五郎だった。
…出来れば思い出したくない人物でもあった。
『最低だね』
その痛烈な言葉を反芻するたび、まるで頬を打たれたような気になる。
あの日、マルチの開発者である長瀬に電話をしたのは浩之だった。
あかりと結婚したことを報告するためだ。
長瀬は半年以上…いや既に一年近く、音信不通の状態になっていた。
長瀬が北海道に発ってからというもの、電話を掛けても応対係に不在ですと言われ、行き先を訊ねても、教えられないと突っぱねられるばかりだった。雰囲気からすると、遠い場所に出張しているらしかった。
その日も、いつものように門前払いされるかも知れないと思っていた。正直、そうであればいいのにと願っても居たのは事実だ。
ところが、そのときだけは違っていた。『お待ち下さい』という無機質な音声の後、リレーが何段階かカチカチと鳴り、何処かに転送され始めたのだ。
ブーッ、ブーッ。ブザーを思わせる無骨な呼び出し音に、浩之は緊張していた。
『アロー、アロー。ヤー、ナガセ。プラエクト、ラッパロ』
それが久しぶりに聞いた長瀬の言葉だった。最初は浩之だとは分からなかったらしく、耳慣れぬ言葉であれこれ一方的にまくし立ててきた。どうも外国にいるらしい。
日本語でしつこく呼びかけて、ようやく相手が日本人であることに気付いてくれた。
長瀬の声は、回線状態が思わしくないせいか、ひどくくぐもっていた。しかし、マイペースぶりは健在で、例のとぼけた調子のまま、『やぁ久しいね。どうしたんだい?』と聞いてきた。
浩之がためらいながらあかりとの結婚を報告したとき、長瀬は、『あ、そう』と相づちを打っただけだった。それから長瀬はマルチの様子を訊ね、変わりないと聞くと、ほっと安堵の吐息をついた。
何だ、意外に簡単だったじゃないか。
苦言の一つも来るかと覚悟していた浩之は、拍子抜けする思いだった。
長瀬も分かってくれたのだろう。人間とロボットが共に暮らす困難さを。
少し気分が明るくなり、色々話した。長瀬はもっぱら聞き役だった。
最後に、長瀬さんもお元気で、と愛想良く結んで、電話を切ろうとしたそのときだ。
雑音の向こうで、それまで寡黙だった長瀬が口を開いた。
『最低だね、君は』
受話器を置く手が凍った。
動けなくなってしまった浩之に代わって、長瀬の方が電話を切った。
耳障りな不通音が響く中、浩之は身じろぎ一つ出来ず、寒々とした玄関に立ち尽くしていた。
最低。それは長瀬の本音なのだろう。
親として当然の感情だ。
愛し合っていると信じたからこそ、長瀬は浩之にマルチを託したのだ。なのに、舌の根も乾かぬうちに別の娘と結婚するという。親からすれば、これほどふざけた話もない。
…確かに最低な男だよな。
浩之は惨めな気持ちになった。
何しろその男は、他の女を囲い込んだばかりか、自分の娘を日陰者扱いしているのだ。
人間とロボットの恋愛が周囲の偏見を招き寄せることくらい、長瀬にも分かっているだろう。
それでもなお、マルチの親である長瀬は、そうした偏見を打破してくれることを願って、浩之にマルチを託したのではないか…?
だとすれば、浩之は、長瀬の希望を裏切ってしまったことになるのだ。
こんなことなら、誤解を恐れず、周囲に対して、マルチとのことを言うべきではなかったか。せめて親友である志保や雅史には、ありのままを告白すべきではなかったろうか。そしてみんなの理解を求める努力を…。
そこまで考え、浩之は首を横に振った。
出来る筈が無かった。あかりからマルチのことを問い詰められなければ何も言えなかった自分が、浩之の将来を心配する周囲の激しい反対を恐れ、口を閉ざしてしまった自分が、強く思い出された。
自分の小狡さに反吐が出そうだった。
マルチを人間らしいと誉める一方で、家の近所では、噂にならぬよう、マルチのことをひた隠しにしていた。
たまにデートに行くときだってそうだ。出先では手を繋いでも、家が近づくと、いつの間にか手を離していた。後腐れのない場所でしか、大胆になれなかった。浩之はいつも、マルチへの愛情と、自己保身という二つの基準の間で揺れ動き続けていた。
一度だけ、マルチに付き合って、近くのスーパーに行ったことがある。
スーパーの自動ドアをくぐったとき、浩之は、何も話せない自分を発見した。
知人の目が何処に光っているか分からないと思うと、足が震えた。
無愛想と言われる自分の風評が、あのときほど有り難いと思ったことはなかった。
憮然とした顔で歩く浩之に、いつもより大人しかったマルチはますます言葉少なになり、やがて無口になった。
そのときのマルチはまるでメイドロボそのものだった。
終始無表情で、従順に浩之の後ろに付き従って歩いた。
家に入るまで、二人は言葉を交わすことはなかった。
マルチは、不平めいたことは何も言わない。こんな欺瞞だらけの自分を信頼してくれているのかと思うと浩之は胸が痛くなり、何もかもかなぐり捨てて、マルチとの愛を貫きたい衝動に駆られる。
だが、そんなときに限ってマルチは悲しい顔をする。浩之を見上げて、私はロボットですからと、浩之を諭すのだ。
そして悪循環が始まる。
浩之は、マルチの言葉を心底否定しきれない、煮え切らない自分を隠そうと躍起になる。しばしば衆人の目の前でマルチを人間扱いし、嘲笑されても無視する自分を演じることで、マルチへの想いの強さを証明しようとする。マルチは浩之が変人呼ばわりされるたびに傷つき、引っ込み思案になっていく。浩之はそんなマルチを励まそうと、お前は人間らしいと誉め続け、その一方で、世間体を気にする自分に気付いて自己嫌悪に陥り、それを隠そうと…。
愚かな人間のする行為そのものだった。
マルチは、その愚かさに引きずられ、傷つく浩之の姿をいやになるほど見せつけられて、自信を無くしていったのだ。
浩之の心の中で、麦わら帽子を深くかぶったマルチが、かげろうのように姿を結ぶ。
あかりを迎えることを決めたあの真夏の午後、人とすれ違うたび、マルチの瞳は不安げに揺れた。
自分と手を繋いで大丈夫なのか、浩之が笑われはしないかと、ひどく怯えていた。
あのとき、麦わら帽子を渡すことで現実を肯定した浩之は、痛烈に無力感を味わい、立ち直れないでいた。
言うべき言葉を失い、ただ手を引いて歩くことしかできない自分が恨めしかった。
また、マルチの涙を思う。
あの老人の言葉にショックを受け、泣き出してしまったマルチ。
全部、自分のせいだ。
昔と同じように、マルチに自分の意見を押し付けてしまった。自分が結婚式なんて望まなければ、こんなことにはならなかった。
マルチは愛する浩之の望みを拒みきれず、浩之の求めるまま人間として振る舞い、また痛手を負ってしまったのだ。
可哀相なマルチ。
…。
浩之は気を取り直し、マルチの姿を求めて、丘の上に目を向けた。
居ない。
てっきり後を追ってくると思ったのに。
浩之の顔は曇った。
恐らくまだ教会の中に留まっているのだろう。
考えてみれば、マルチはウェディングドレスをまとったままなのだ。ホテルに帰るには、着替えをさせねばならない。こうしている間も、マルチは、あの老人の好奇心に晒され続けているのだろうか。
あまり愉快になれない想像に、浩之は舌打ちした。僅かに逡巡した後、浩之はまた、教会へと戻り始める。
あかりは突っ立ったままだった。
言葉の継ぎようが無く、口をつぐんだままで居るあかりの肩に、浩之の手が置かれた。
「なぁ、泣くなよ。お前は何も悪くないんだから」
鼻をすするあかり。
「でも…私が…無理に…結婚式って…言わなかったら」
「そんなことないって」
浩之は後悔していた。守ってやらねばならない人間に、日頃の鬱憤をぶつけてしまったのだ。
マルチと二人きりのときは、誰にも不満を言えず、溜め込むしかなかった。それが、あかりという弱い存在を得たために、つい…。
浩之は心の痛みを覚えながら、精一杯慰める。
「こんなの不可抗力だよ。怒ってなんかいないって」
「…」
「それより、サンキュな、あかり。気ィ遣ってくれて」
浩之はあかりの手を握った。マルチとはまた別の、ほっそりとした大人の手だった。
小さいときは、よく手を繋いでいた。すぐに立ち止まりたがる、引っ込み思案なあかりを、あちこち連れ回すのが浩之だった。
あの頃のあかりの手は、もっとふっくらとしていたように思う。
浩之は、幼い頃とは随分変わってしまった指同士を絡め、そっと引っ張り上げるようにして、階段を登り出した。
あかりの華奢なつま先が、しおれた子犬のように、そろり遠慮がちに動く。顔を伏せたまま、浩之の後ろ手に曳かれ、歩き始めるあかり。
「怒鳴ってごめんな」
赤みがかった髪が、微かに左右に揺れた。
*****
気まずい沈黙が場を支配していた。
多少のことでは動揺しないくらい、年の功を積んだ筈の牧師だったが、今回ばかりは例外だった。
牧師の眉間に苦悩が刻まれる。さっきの自分の言葉を深く悔やんでいたのだ。
仲直りしようと話しかけたまでは良かったが、その言い方が良くなかった。
牧師の制止を振り切って、男性の方が書斎を飛び出ていった。
女性は牧師に軽く頭を下げると、男性の名を呼びながら、やはり足早に部屋を出ていった。
後には、牧師と、ウェディングドレス姿のメイドロボが残された。
それにしてもメイドロボとの結婚式とは!
林の下にある海岸から長い時間かけて戻ってきたとき、薔薇園に居る彼らを目撃した。
たちの悪い冗談だと思った。花嫁衣装をメイドロボにまとわせ、式のまねごとをしていることに、教会の営みを愚弄されたように感じたのだ。
実のところ、教会は、メイドロボと呼ばれる人型ロボットに、良い感情を持っていない。人間の女性に酷似しているメイドロボに、生理的な嫌悪を抱いているのだ。
尤も、最初からメイドロボを毛嫌いしていたわけではない。メイドロボが登場したての頃は教会も無関心で、精々、女性型の召使い人形、程度の認識に過ぎなかった。
ところが、昨今の『おかしな風潮』を察知してからというもの、教会の見方が変わり始めた。
『おかしな風潮』。
先日のニュースがその典型例だった。原子力空母レーガンには『娼館』が存在すると、ニューズウィークが報じたのだ。
娼婦となっているのはメイドロボたちだった。一部兵士が私物扱いで持ち込んだもので、日本製のメイドロボがとりわけ人気を集めていた。普段は酒保や食堂などで雑用をこなしていて、皆からアイドルのように可愛がられていたという。
レーガンでは、格納庫甲板で淫らな秘密パーティが開催されるのが、週末の恒例行事になっていたとか。合衆国軍の兵士たちが、プレイメイツ姿のメイドロボたち相手にいかがわしい行為にふけっているという内部告発に、良識ある人々は何事かと眉をひそめた。
風紀の乱れを糺すべき上級将校は責務を果たしておらず、それどころか便宜を図ってすらいた。公聴会に呼び出された老練な女性艦長は、『これで男どものセクハラをなだめられるのなら安いものだ』と公言してはばからなかったし(彼女は、禁欲期間が核ミサイル原潜並みであるから、と付け加え、民主党政権が海外拠点を次々手放したため、寄港のままならない現状を暗に批判していた)、娼館の常連客でもあった副長は、何百ガロンもの燃料を使って哨戒ヘリを飛ばし、メイドロボのパーツを取り寄せていたというから、周囲は唖然とした。
『メイドロボは社会を堕落させる!』
教会のスポークスマンが非難するのも、無理からぬことではあった。
牧師も、メイドロボと間近に接するまでは、教会のパンフレットと見解を同じくしていた。
だが…。
牧師はそわそわと落ち着かない。
目の前にいるのは確かにメイドロボの形をしているのだが、どうも中身はそうではないらしい。
時折顔をこすり、涙をこらえているメイドロボの姿を見ていると、後悔めいたものが胸にわき上がってくるのだ。
あれがメイドロボだという確信すら段々揺らいできた。
やっぱりこれは何かの冗談ではなかろうか。この娘は実は人間なのではないのか?
そう考えると、ついつい癇癪を起こしてしまった自分が急に恥ずかしくなる。
…いや、相手がメイドロボだったとしても、見ず知らずの相手に向けられるにしては、さっきの自分の言葉は行き過ぎだったかも知れない。教会は開かれた場所で、来る者を追い払う行為など、許されよう筈もない。なのに牧師は、彼らに門前払いを食わせるようなことを言ってしまったのだ。
牧師はそっと咳払いした。
相手を驚かせぬように気遣った筈なのだが、メイドロボは傍目にも見えるほど緊張した。
「もし?」
牧師は出来る限り穏やかに声を掛けた。
「もし、あなた?」
メイドロボは完全にしゃちほこばってしまい、動こうともしなかった。余計怯えさせてしまったようだ。
「あなたは…」
牧師は一瞬、言葉尻を濁らせる。続けるべきか迷いながら、
「あなたは、本当に、メイドロボなのですか?」
また恐怖の仕草をするメイドロボ。
牧師から注がれる視線の重みをこらえかねたのか、やっとのことで、こっくりと首を縦に振った。
やっぱりそうなのか。この娘が。人間にしか見えないのに。
牧師は口をつぐみ、汚れた窓ガラス越しに薔薇園を見つめる。
以前は基地の住民がボランティアで薔薇の手入れをしてくれていたのだが、今は荒れ果ててしまっていた。自儘にねじくれ、絡み合った枝は、まるで鉄条網のようで、見る者を陰鬱な気分にさせる。
「何故、こんな場所で結婚式を…?」
メイドロボはうつむいていたため、表情は見えなかったが、嘆きが深まったことは容易に見て取れた。
何たる愚問!
牧師は自分の問いを後悔する。
牧師が声を掛けたとき、彼らの驚きようは大変なものだった。彼らが人目を避けていたのは明白だった。
『メイドロボが人間と結婚するのはおかしい』
彼らはそう糾弾されるのを恐れて、人目のつかない場所で挙式しようとしたのだ。
訪れる人も絶えて久しいこの寂しい場所で、それでも彼らは教会には違いないと、式を執り行っていたのだ。
無理もないことだと同情しながらも、牧師は混乱する。
神の創造物である人間と、人間の創造物であるメイドロボが婚姻するというのは、どうにも冒涜に思えてならない。
しかしその一方で、牧師の目の前にいるメイドロボは、血と肉の備わった一人の人間にしか見えない。
二世紀前のラッダイト主義者なら、いや、今なお東部に根付いている熱狂的なキリスト教徒なら、メイドロボという涜神的な機械を排斥し、破壊することにためらいをおぼえないだろう。が、あいにく牧師はそこまで過激になれなかった。
牧師は揺れ動く気持ちを何とかなだめようと書斎を見回した。煙草があればすかさず手を伸ばしてしまっていただろうが、もう半世紀以上も前に禁煙していたため、たばこの葉の一欠片さえこの部屋には存在しない。
…何処の誰かは知らないが、残酷なことをするものだ。
牧師は低く溜息をもらした。
メイドロボに人間の魂を吹き込んだ人物は、彼女がどんな目に遭うか、考えなかったのだろうか。
この世界は、人間を中心にして回っているのだ。そこに新参者のメイドロボが現れて、今まで人間だけの特権だった心をちらつかせたとしたら。そして人間と同じく愛を語ろうとしたら。
痛ましい想像に牧師の頬は歪んだ。
これならいっそ、心など、持たせなかった方が…。
メイドロボは、あくまで機械として生きた方が…。
この娘も、心を持つ存在であることを隠して、物言わぬメイドロボたちの中に紛れて暮らした方が…。
そこまで考えたとき、部屋中を彷徨っていた牧師の目が釘付けになった。
視線の先には、壁面に飾られた写真があった。
そこに写る人をよく見ようと、何気なく目を凝らしかけた牧師の身体が震えた。頬をはたかれたように感じた。
なじる視線が、それらの写真から発せられていた。
写真の中の人々は、気のせいか、牧師をきつく睨んでいるように思えた。
ああ、そうだった。
私は何をしていたのだろう。
写真が突きつけたのは牧師の過去だった。
蘇る記憶に、牧師は軽い目眩を覚えた。
羞恥に心が揺さぶられる。
私としたことが、何とひどいことを考えていたのだろう。
気持ちを新たにした牧師は、杖をつきながら、メイドロボの前へ歩いていった。
「ごめん…なさい…」
途切れ途切れの小さな声。
牧師が近づいたとき、メイドロボは顔を伏せたまま、何度も何度もごめんなさいを繰り返し始めた。
萎縮しきったその言葉を聞くたび、何とかしてやりたいという思いが膨れ上がっていく。
「謝らないで。謝ることはないのです。悪いのは私の方なのですから」
自由な方の手でメイドロボの手を取ると、精一杯に詫びた。
「許して下さい…。私こそ、さっきはひどいことを言ってしまいましたね。あなたが何者であれ、関係ありません。傷つけるようなことを言って、本当に申し訳ありませんでした」
「…」
ようやくのことでメイドロボは顔を上げた。そこに今なお残る傷ついた色に、牧師はまた胸を衝かれた。
牧師は、日本人がよくするやり方を真似て、深々と頭を下げていた。
意味が分からなかったらしいメイドロボだが、すぐ我に返り、慌てた。
「あ、そんな、そんなことしないで下さい。私のことなら、別に」
「本当に、申し訳ありません」
杖をつく身で頭を下げ続けるのはつらかったが、牧師は微動だにせず、そのままの姿勢を続けた。
牧師に勧められ、椅子に腰掛けたメイドロボは、自分のことをぽつぽつと話し始めた。
メイドロボは自分のことをマルチと名乗った。
「私…三年前に生まれたばかりなんです。学校に行くことになって…」
「学校、ですか?」
日本ではメイドロボも学校に通うのだろうか?
そんな牧師の疑問を察したのか、マルチは説明を補足する。
「はい。私、人間の皆さんに混じって生活できるかどうか、運用テストを受けていたんです」
その学校で、マルチはあの男性と出会ったのだと言う。
男性のことになると、マルチの口は途端に重くなる。
自分たちのことを他人に詮索されたくないのだろう。
「…彼を愛しているのですね?」
牧師の言葉に、マルチの動きが一瞬止まった。何故か答えをためらっているように見えた。
少々突っ込みすぎた問いかけだったようだ。
悲しそうな眼をして床を見つめるマルチ。
「そう言えば…」
牧師は、沈痛な空気を何とかしようとして、話題を変える。
「あの女の方はあなたのお知り合いですか? とても親切な方ですね?」
「はい」
ほんの少しだけ、マルチの表情が明るくなった。
「あの方は私の大切なお友達です」
マルチは目を閉じ、手をドレスの胸に当てる。
「私、メイドロボなのに、そんなの関係ないって言って下さって、私たちと一緒に暮らして下さってるんです。私なんか失敗ばかりで迷惑をかけてるのに、全然気にしてないよって、そう言って下さるんです」
「ほう…」
「本当に優しい方なんです。このドレスも、私のためにって、わざわざ手で縫って作って下さったんです」
「なるほど」
上の空で相づちを打つ。
幾ら相手が心を持っているとは言え、機械と分け隔てなく付き合えるというのは、そう簡単に出来る行為ではない。
まして友情とかそういった関係ともなれば。言葉のレッテルを貼られただけで付き合いを変えてしまうのが人間だ。相手が機械であると知ってしまえば、普通の人間は、友情など感じないだろう。
それが出来るのは、日本人だからだろうか? 日本人は、仏教徒であると同時に、物質に宿る八百万の精霊の存在を信じているという。
牧師はとりとめない会話を交わしながら、目の前のマルチをそっと観察し続ける。
何度見ても、人間としか思えない。
椅子の端に遠慮がちに腰掛け、やや斜めに傾げた膝に両手を揃えて置く様子。
一生懸命な言葉。
おずおずとした瞳の動き。
そう言えばまだ目が赤い。牧師の言葉が彼女を傷つけてしまったせいだ。
牧師は良心の痛みをおぼえる。
と、そのとき、ノックの音が響いた。
二人が戻ってきたのだ。
*****
浩之は、部屋に入るなり口を開いた。
「おい、マルチ、帰るぞ」
慌ててマルチは立ち上がる。
「は、はい!」
「お待ち下さい」
マルチのそばに来た浩之に、牧師は急いで声を掛けた。
「先ほどは申し訳ありませんでした。悪気はなかったのです、ただ、驚いたものですから」
牧師のことなど眼中にない浩之の歩みは止まらなかった。
「あのお嬢さんを傷つけてしまったことは謝ります。どうか、お話だけでも」
冷たい無視。
焦った牧師は、思い付いたというように明るく、
「そ、そうだ、先ほどの結婚式の続きをしましょう。いかがです? もしよければ私が立ち会いますが」
ようやく、浩之が立ち止まった。
振り返ると、恐ろしい目をして牧師を睨んだ。
まるで追いつめられた獣だった。
「何を、今さら」
浩之は激情のまま罵りかけたが、かろうじて踏みとどまった。
「…あんたに何が出来るんだ」
ぷいと顔を逸らす。
「あんたが取り繕ったところで、何もかわらねぇよ。何も」
「そうでしょうか?」
「…そうさ」
浩之は肩をそびやかすと、マルチの手を取った。
「さ、行こう」
「あっ」
マルチを引っ立てるようにして歩き出す浩之。
扉のところで、浩之はあかりと鉢合わせした。
「帰るぞ」
あかりは答えなかった。扉の前から動こうとしない。
浩之があかりを避けて通り抜けようとすると、それに合わせてあかりも位置を変えた。
とおせんぼだった。
浩之は苦々しげな顔になる。
「何やってんだ、お前」
「…浩之ちゃん、やっぱり駄目だよ」
あかりは目を下に向けたまま。胸の下で組まれた腕は微かに震えていた。
「ねぇ、お願いだから、話を聞いて上げて」
「さっきも言ったろ? もういいよ。無駄だ」
「そんなことないよ」
浩之はあかりを見おろした。
溜息。
「なぁ、あかり。話を蒸し返すなよ」
その言葉には疲労感が漂っていた。
「お前はよくやったよ。俺は感謝してるよ。だからさ、これ以上望まなくてもいいだろ? こいつだって」
顎をしゃくってみせる。
「マルチだってさ、もう十分だって思ってるよ」
「違うよ。そういうことじゃないよ」
「じゃあ何だよ?」
「浩之ちゃん」
浩之の顔をキッと見つめる。
「せっかく牧師様がああ言って下さってるんだよ? 浩之ちゃんたちのこと、分かってくれるかも知れないんだよ?」
「…お前、いい加減にしろよ。…しつこいぞ」
浩之の声はかすれていた。
それを聞いて一瞬涙目になりかけたあかりだったが、ぎゅっと表情をかたくすると、なおも続けた。
「ねぇ、浩之ちゃん。いくらつらいからって、牧師様に八つ当たりするのは止めて。どうしてもしたいのなら、私にして。他の人につっかからないで」
「八つ当たり?」
浩之はあかりの言葉を繰り返した。カッと顔に血が昇る。
「んなんじゃねーよ! 何で俺が!」
「だったら、話くらい!」
「うんざりなんだよ、もう」
浩之はせせら笑った。そこには自暴自棄の響きがあった。
「どうにもならねぇよ。やるだけ無駄だよ」
ぱん!
浩之の頬が乾いた音を立てて鳴った。
一瞬、何をされたか分からなかった浩之は、手を振り上げたままのあかりを見て、信じられない、という顔をした。
「叩いてごめん」
あかりの声は低かった。
「イヤなこと、いっぱいあったんだよね。私、何も知らなくて、浩之ちゃんとマルチちゃんを傷つけちゃったんだよね。ごめんね」
「…」
「…だけどね、だけど!」
浩之の胸を力一杯叩く。
「駄目だよ、突き放しちゃ! 話を聞いてみようよ! もしかしたら、分かってくれるかも知れないじゃない!」
「…勝手なこと言ってんじゃねーよ」
浩之は頬をさすりながら呟く。
「ホント、何も分かってねぇよ。ほっといてくれよ」
「分かってないって思うんだったら、理由を教えてよ! 隠さないでよ! 私たち、家族なんだよ!?」
「…」
浩之の顔が歪んだ。しばらくあかりと見つめ合った後、やっと言葉を絞り出した。
「…これ以上、俺を苦しめないでくれよ。頼むよ」
「それ、逃げてるよ」
「逃げてねぇよ」
「逃げてるよ」
「逃げてねーよ!」
「…」
あかりの目がきつくなる。
「浩之ちゃん、あのときの言葉、嘘だったの?」
「嘘って…」
「浩之ちゃん、約束してくれたよね。一人で抱え込まないで、話してくれるって。私に相談してくれるって。あれ、嘘だったの?」
浩之は決まり悪そうに横を向いた。
「確かに言ったよ。言ったけど、不愉快になるだけだよ。聞いてて気持ちのいい話じゃねーし、正直言って、思い出したくもねーんだ」
「浩之ちゃん!」
「なぁ、あかり、分かってくれよ」
浩之はうめく。
「お前のおかげで、マルチだって随分明るくなったんだぜ? お前が声を掛けてくれたから、旅行にだって一緒についてきてくれたんだ」
頬をひきつらせ、一語一語、言葉を刻む浩之。
「あんなマルチ、久しぶりだよ。いつも笑ってて、明るくてさ。…もう、昔とは違うんだよ。前に何があったかなんて、どーでもいいじゃねーか。綺麗さっぱり忘れちまおうぜ?」
「でも、分かろうとしてくれてる人まで突き放すのは良くないよ!」
あかりは頑強に抵抗した。
「浩之ちゃん!」
「分かった風なお節介はやめろっ!」
とうとう浩之は大声を出した。苛立ちを隠そうともしなかった。
荒々しくあかりの両肩を掴むと、乱暴に揺さぶった。
「どうせ何も分かってないやつの話を聞いて、何か意味あるのか!? いやなことと向き合って、何か良いことあるのかよっ!? どうなんだよっ!」
「失礼ですが…」
牧師の穏やかな声が割って入った。
「さきほど、このお嬢さんと色々話をさせてもらいましてね」
「!? マルチ!」
浩之の声にマルチは縮み上がった。
「ご、ごめんなさい」
「ああ、いや、お嬢さんを責めないで下さい。聞いた内容はほんの世話話程度ですし、ここで聞いたことを口外するつもりはありません」
「…」
疑り深げに舌打ちする浩之だったが、それ以上追及する前に、あかりが痛そうにしているのに気付いた。あわてて肩を掴んでいた手を離す浩之。
牧師は詫びの姿勢を見せた。
「もう怒らないで下さい。私の言い方がひどかったのは謝ります。私はメイドロボに偏見を持っていました。それは確かに事実です。このお嬢さんに会うまでは、それが偏見だとも気付かなかった…」
牧師はそっと壁の写真の方に視線を遣る。それから、確信を深めたように声を強くして、
「ですが、それは間違いでした。このお嬢さんは素敵な女性です。ロボットかどうかは関係ありません」
浩之は何度か口を挟み掛けたが、そのたび思いとどまった様子だった。牧師の言葉を聞くのは苦痛だと言いたげに、こめかみがひくついていた。
浩之の敵意に満ちた視線にも、牧師はたじろがなかった。
マルチを眺める牧師の目は、あたたかだった。
「あなたは二年間、このお嬢さんの帰りを待っていたのでしょう? それだけ彼女のことを愛していたのでしょう? なら、なおのこと、一時の怒りで、あなたの気持ちを台無しにしないで下さい。あなたはこのお嬢さんを幸せにしたいと思ったのでしょう? だから結婚式を挙げたいと思ったのでしょう? その気持ちは無くなってしまったのですか? もう取り戻せないのですか?」
浩之はしばらく黙っていた。過去を思い出す、暗い目をしていた。
「…結婚式なんて、くだらねぇよ」
それが浩之の答えだった。
浩之はマルチの表情に気付かなかった。
浩之がくだらない、と言い捨てたとき、マルチの瞳から涙がこぼれた。
マルチは美しい手袋に包まれた両手を茫然と見つめ…それから指を自分のセンサーアンテナに這わせた。悲しい色がマルチの顔を覆った。かたく目を閉じるマルチ。押し寄せてきた激しい苦痛に耐えるように。
「どうせ…どうせ俺の自己満足なんだ」
浩之は呟き続ける。
「俺が満足しても、あいつが、マルチが傷つくだけなら、そんなの止めた方がいい」
「しかし…」
言いかける牧師を浩之は遮った。
疲れた笑みをたたえると、
「なぁ、牧師さん。気を遣わなくてもいいよ。もう分かったからさ。あんただって、本当はこんなの間違ってるって思ってんだろ? 人間とメイドロボが結婚するのは正しくないって考えてるんだろ? かまわねぇよ。別に、それはそれで、さ」
「それは…」
牧師は言葉に詰まったが、すぐに否定する。
「私はそうは思いません」
「どうだか」
浩之は自嘲気味に笑った。
「ま、話のネタにはなったろ。説法のときにでも話してやんなよ。日本人にはこんな罰当たりな変態君が居るんですってさ。きっと大受けするぜ?」
「浩之ちゃん!」
非難の叫びを上げかけたあかりに、牧師は、いいんです、と目配せした。
突然、マルチが浩之の背中にすがりついた。
小さくしゃくり上げる。
「ごめんなさい…浩之さん…ごめんなさい…」
浩之は口を閉ざした。当惑して、肩越しにマルチの方を振り返る。
「マルチ、なんで謝るんだ…?」
「私が悪いんです…浩之さんがまた笑われるようなことして…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
一瞬、浩之は絶句した。もごもごと口ごもる。
「マルチ…お前は何も…悪くないよ…」
マルチは首を振り続けた。
「…私のせいで…ホントに…ごめんなさい…」
あとは言葉にならなかった。マルチは顔をくしゃくしゃにして、声もなく泣いていた。
浩之は黙り込んでしまった。
何をしていいのか分からない様子だった。ぼんやりとあらぬ場所に視線を漂わせ…それからゆっくりとマルチの方に向き直った。ヴェール越しに、碧の髪を撫で始める。
そうしてやっているときの浩之は、心なしか、目の縁が白く光っているように見えた。
「お嬢さん」
沈黙を破ったのは牧師だった。
杖をつき、マルチの側にやってくると、優しい声を掛けた。
「つらかったでしょう」
浩之の方にも微笑んで見せた。
「そしてあなたも」
そっと浩之の腕に触れた。
浩之の顔に朱が差した。反発の言葉を吐き出そうとした浩之は、急に咳き込んだように言葉を詰まらせた。
奇妙な表情で牧師を見つめ続ける。
頬が不自然に痙攣した。
「何で…何で今になって…」
ようやく、言葉が出た。
「うそだ…そんなことあるはず無いよ…あり得ない」
空しい笑み。
信じられないと首を振る。何度も。
天井を見上げた。
「あんたみたいな人が居るはず無いんだ。…そうだよ…居るはずが無い」
大きく深呼吸。
牧師の顔に視線を戻し、何かを探るような目つきになる。
「本当は違うんだろ? おかしいって思ってるんだろ? 俺たちのこと。そうなんだろ?」
牧師の表情は穏やかだった。
慈しみに満ちた笑みを浮かべたまま、静かに否定の仕草。
浩之の目が尖った。
「うそだ…違う…そ…そんな筈がないんだッ!」
浩之は高く叫んだ。それは悲鳴に似ていた。
「なんでそんなに物わかりがいいんだよ! なんで俺たちのこと…人間とロボットだぞ!? おかしいって思うだろ、普通!? みんなそうだったんだぜ!? 俺たちのこと、馬鹿呼ばわりしてさ、汚いもの見るみたいに、あいつのこと、はけ口みたいに…なのに、なのに、なんで受け入れられるんだよ!? おかしいじゃないか!」
牧師は無言だった。答える代わりに浩之の手に触れると、慰めるようにそこを撫でた。
浩之は口を開いた。笑おうとしたようだった。
…息が耳障りな音を立てただけだった。
「こ、これじゃ…まるで」
浩之はふらふらと頭を振る。
マルチを見おろすその目は焦点を失っていた。
「俺が馬鹿みたいじゃないか…! なんで今までこんなに苦しい思いしてきたのか…」
「信じて下さい、私を」
牧師を凝視する浩之。
何か言おうとしたが、牧師の真摯な表情に気圧された。
のどが鳴った。
浩之は唇をきつく引き結ぶと、顔を上に向けたまま、黙りこくってしまった。
「…もう遅いよ…」
あるかないかの呟きが、浩之の口から漏れた。
かたく握りしめられた拳が、ぶるぶると震えていた。
「もっと前に…せめて…」
つっかえつっかえ吐き出されるその言葉は、今にも泣き出しそうだった。
「こんなことって…あるかよ…! 何で今になって…もっと早くそう言って貰えたら…マルチだってあんな風には…何でだよ…今更認めてくれても…」
浩之の拳が壁に叩き付けられた。
「手遅れだよッ…!」
「あかり」
浩之の声がした。
あかりはゆっくりと顔を上げた。
何故か、浩之は目を合わせようとしなかった。その代わりに、あかりの身体を抱き寄せると、ぽんぽんと背中を叩いた。
「サンキュな、あかり。ほんとにサンキュ」
急に優しくなった浩之に戸惑うあかり。
「浩之ちゃん…」
浩之の手があかりの後ろ髪を撫でる。
「ずっと、一緒な。これからも、みんなで一緒に暮らそう?」
「え? う、うん…」
浩之の腕に力がこもった。
「一緒な。約束な」
浩之の唇があかりの髪に幾度も押し付けられた。
「本当に、約束な」
浩之の胸に頬を預けながら、あかりはぼんやりとその言葉を聞いていた。
*****
「少々お待ちを」
牧師はそう言って三人を礼拝室に残し、自室に消えた。
牧師が居なくなると、浩之はこっそりと十字架の方に頭を下げた。
「?」
浩之は決まり悪そうだった。
もごもごと弁解。
「いや…謝っとこうと思って」
そう言われれば、確かにそうだ。
「イエス様はロボットのことなんて知らんぷり」だとか、浩之の物言いはひどすぎた。それを牧師に聞かれようものなら、牧師はショックの余り昏倒するに違いない。
「ねぇ浩之ちゃん。牧師様にも謝った方が…いいよ?」
「ああ…」
浩之は曖昧に頷く。
浩之に手を引かれたマルチは、さっきのやり取りの後、ずっと消沈したままだった。
そんなマルチに、あかりは寄り添い、気遣う風を見せた。
マルチに声をかけようとして、許しを求めるように、浩之の方をちらとうかがう。
「な、あかり」
「え?」
「サンキュな」
浩之は微妙に目を逸らしたまま、さっきの感謝を繰り返した。
あかりはかぶりを振る。
「浩之ちゃんとマルチちゃんのためだもん」
「…サンキュ」
あかりの口元に浮かぶ笑みに安堵したのか、浩之はあかりの顔をまっすぐ見つめて、気恥ずかしげに笑い返した。
さて、どうしたものか。
物思いを続けるマルチに、二人は思案する。
考えあぐねた末、浩之が話しかけようとしたそのとき、扉の開く音がした。
現れた牧師は、真っ白なトーガをまとっていた。
あかりに背中をつつかれ、浩之は牧師に頭を下げた。
あかりもまた、浩之の傍らで深々とお辞儀。
笑顔で頷く牧師。
片手で礼拝室の前を指し示す。
「さぁ、みなさん、こちらへ」
牧師は脇に抱えていたビロード地の小さなトレイをあかりに渡そうとして、訊ねた。
「指輪は用意していますか?」
あかりははっとする。
ああ、そう言えば、指輪のことを忘れていた。
何故だろう、必要ないと思っていたのだ。
どうしよう。
あごに手を遣り考え込むあかりに、突然浩之が声をかけた。
「な、あかり。俺たちの指輪で代用できねーかな?」
「え? 私たちの?」
俺たちの指輪って、何のことだろう。
不思議なことを言うものだと、浩之の顔をまじまじ見つめるあかり。
その次の瞬間、薬指の重みに気付く。
「う、うん…」
請われるまま、浩之が贈ってくれた指輪を外した。
そのとき、ちくん、と指輪の痕が痛んだような気がした。
浩之も自分の指輪を外した。
二つの指輪を機械的にトレイに並べるあかり。
これでいいのだろうかと、不安げに牧師の方を見る。
牧師は、それでいいと言うように微笑んだ。
あかりの方の準備が出来たのを見計らい、牧師は、浩之とマルチに呼びかける。
「では、お二方、前へどうぞ」
浩之はマルチの手を取ったまま、牧師の前まで重々しい足取りで進んでいった。
牧師は威儀を正した。
杖を両手から片手に持ち替え、しゃんと背を伸ばす。
説教台の上の聖書にしわだらけの手を置くと、厳かな口調で、
「お二人のお名前を。下の名だけで結構」
「浩之です」
「…マルチ…です」
少し遅れてマルチ。
牧師は二人を見据えた。
咳払いして、浩之に問いかける。
「ヒロユキ。あなたはこのマルチを妻とし、健やかなるときも、病めるときも、彼女を愛することを誓いますか?」
「誓います」
浩之の言葉は簡潔だったが、ためらいは微塵もなかった。
牧師は口元に笑みのしわを大きく刻む。
そのとき、夢から目覚めたかのように、マルチの瞳が見開かれた。
今度はマルチだ。牧師はマルチの方に向き直った。
優しい口調で問いかける。
「マルチ。あなたはこのヒロユキを夫とし、健やかなるときも、病めるときも、彼を愛することを誓いますか?」
マルチは牧師と浩之を代わる代わる見つめた。
見返す浩之。
不自然な間があった。
『はい』という答えを期待していたあかりは、マルチの様子に首を傾げた。
その表情に目を凝らし、動揺する。
マルチの横顔に喜びは無かった…そんなものはどこかに飛び散ってしまっていた。
駄目、迷っては駄目。
あかりは飛び出していきたい衝動に駆られる。
はいと言って。お願い。マルチちゃんも幸せにならなきゃ。
マルチの足は後ずさろうとしていた。
浩之の眼から逃げるように顔を背けかける。
それを引き留めるように浩之の視線が絡む。
マルチはやっと踏みとどまった。
また見つめ合う。
すぐに瞳が揺れた。弱気が溢れ出そうになっていた。
小さな身体がゆらゆら傾ぎだした。その手はかたく握りしめられ、わなないていた。
顔に苦しみが過ぎる。
悲しみも。
何か言おうとするように、唇が動く。
…駄目だった。
とうとう顔を伏せてしまった。
助け船を出そうとしてか、牧師が口を開きかけた。が、思い直したように沈黙を守った。
薄暗い礼拝室の中、天窓が光のカーテンを差し下ろしていた。
無数のほこりが、金色にキラキラ輝きながら、その光の中を、ゆっくり漂っていた。
皆が待っていた。マルチの言葉を待ち続けていた。
「本当に…いいんですか…?」
やっと聞こえた、微かな声。ひどく乱れていた。
「本当に…私と…浩之さん…本当にいいんですか…? 泣いちゃうくらいつらいのに…それでも…私と…いいんですか…?」
その言葉の重さにひしがれ、いつしか二人はうなだれていた。
浩之とマルチの間には河が流れている。
暗がりに満ちた断絶の大河が。
浩之は人間だ。
マルチはメイドロボだ。
両岸から手を伸ばしても届かない。
届きようがない。
二人は違う存在なのだから。
ヴェールの揺れる音。
マルチが顔を上げていた。
「ね、浩之さん」
マルチのささやきは静かだった。さっきまでの動揺はどこかへと失せていた。
「私は、いつまでも、浩之さんのお側に居ます。ずっとお仕えするって約束します。私はそれだけで幸せです」
「…」
「私はメイドロボです。人間じゃないんです。だから結婚式なんて」
言葉を止めた。マルチは微笑みを浮かべた。
「私、間違ってました。最初にお断りしておけば、こんなことには」
「…マルチ」
浩之が口を開いた。
その声を聞くや、何かに打たれたかのようにマルチの顔は強張り、黙り込んでしまう。
「マルチ、お前、遠慮してるんだろ? 自分は人間じゃないからって、ロボットだからって、それで俺を避けてるんだろ?」
マルチは身体を固くし、口を閉ざしたまま。
浩之の言葉は途切れた。
懸命に笑顔を作ろうとする。
「でもさ、結婚って、人間だからするわけじゃないんだよな」
やっと、笑えた。
唇がめくれ上がりそうになるのを堪えているのか、浩之は何度も言葉を切る。
「好きな相手と一緒にいたいって思うから…だから、こうやって…式を挙げるんだよな」
「…」
「仕えるとかそんなんじゃなくてさ…それじゃ一緒に居たってさ…」
浩之の握りしめられた手に力がこもり、震えた。
長い間が生まれた。
浩之も、マルチも、棒のように突っ立ったまま。
決して同じ場所に立てない二人。
彼らを隔てる河は余りに大きく、渡ることは叶わない。
途方に暮れた二人に、河は教え諭す。
同じもの同士で、それぞれの幸せを見つけなさい、と。
その忠告に耳を傾け、きびすを返して岸から離れかけた二人。
しかし何故なのだろう。歩み去る足取りが重くためらいがちなのは。
この遙かな隔たりを前にしてもなお、肩越しに振り返り、対岸に相手の姿を求めてしまうのはどうしてなのだろう。
「マルチ」
浩之の呼びかけには、切実な響きがある。
「マルチは好きな人と一緒にいたくないか? ご主人様じゃない俺と、一緒に暮らしたくないか? 奉仕したり、仕えたりする以外の関係を作れないのか? もう、駄目なのか? 耐えられないか…?」
「…」
「それとも…」
浩之は伏し目がちになり、呟きに似た声で続けた。
「俺のこと…信じられないか…? 幻滅したのか…?」
「違います!」
マルチは顔を跳ね上げ、叫んだ。
「そんなことありません! そんなこと、絶対にありません!」
「だったら…」
マルチはまたうつむいてしまった。
つらそうだった。
「マルチ…」
浩之は溜息をついた。
「随分お前を泣かせちまったよな…」
「…」
「ごめんな。今まで沢山嫌な目に遭わせてさ、本当に悪かった」
浩之の言葉は淡々としていたが、感情の起伏を抑えているようでもあった。時折語尾がうわずった。
「俺さ、お前のこと、人間だって言い続けたろ…?」
「…」
「俺、そう言えばお前、喜んでくれると思ってさ。お前は人間だって、人間らしいって言い続けてさ。そう言ってやれば、マルチは幸せなんじゃないかって、ただそれだけのことでさ…」
「…」
「ホント、俺って馬鹿だよな。最初はお前に喜んで欲しいだけだったのに、自分の方がむきになっちまって、肝心なこと忘れて人間扱いにこだわっちまってさ」
浩之はこみ上げる感情を隠すように天窓の光を見上げた。
深呼吸した。
「だから言うよ。もう一度言う。人間でも、ロボットでも、そんなこと関係ない。マルチはマルチなんだ」
「…」
「俺はマルチが好きだ。どんなことがあったって、どんな姿になったって、俺はお前が好きだ」
浩之の目には涙が浮かんでいた。
「愛してる。愛してるよ。出会ったときから愛してる。これからだって愛してる。いつまでも愛してる。だから…」
懸命に微笑みを浮かべ、大きく両手を広げた。
「だからマルチ、ずっと一緒に居よう? 俺と一緒に人生を歩こう…?」
「…」
「俺、俺、気が付かなくて、速く歩き過ぎちゃうかもしれないけど、努力するから。もう手を離さないから。何かあったら、そのときは一緒に考えよう? つらいことがあったら、一緒に悩もう? 一緒に解決していこう? そうやってさ、ずっとずっと一緒に生きよう…?」
言葉の波が打ち寄せる。マルチは身じろぎ一つせず、それを受け止め続ける。
やがて。
マルチの肩が小刻みに上下し始めた。
低いすすり泣きが礼拝室に流れる。
あかりは我慢できなくなり、マルチに歩み寄った。
そっと肩を抱いて、励ましてやる。
涙に濡れる目が、何かを訴え掛けるようにあかりを見上げた。
確信を込めてうなずくあかり。頑張って、と耳打ちし、浩之の方を指した。
浩之は身動き一つすることなく、こちらを見つめ続けている。
マルチの決意をじっと待っているのだった。
「お嬢さん」
牧師は、その謹厳な顔つきを優しく解きほぐすと、温かく呼びかけた。
「幸せにおなりなさい。愛する人と一緒に、これからの人生を歩んでお行きなさい」
そしてようやく…言葉の代わりに、ヴェールが小さく揺れた。
「では、もう一度最初からやりますか?」
牧師は柔和な声で二人に問いかけた。
「いや、それはちょっと」
反対する浩之。マルチにちらっと視線を送り、
「時間が開くとこいつ、迷うかも知れないですから」
「そ、そんなことないですぅ!」
涙を拭いながら、マルチはむくれる。
「本当かよ?」
浩之は案外意地悪い。
ぷぅと頬を膨らませたマルチだった。
急にその場の雰囲気が和んだ。
「それでは、新郎の意向を尊重して」
牧師は愛嬌たっぷりにウィンクをして見せた。
「マルチさん、でしたね? あなたのところから続けましょうか」
牧師は咳払いすると、いかめしい顔を作った。
「マルチ。あなたはこのヒロユキを夫とし、健やかなるときも、病めるときも、彼を愛することを…誓いますか?」
マルチは、自分に注がれる浩之の視線を感じていた。
浩之と目を合わせ、また、ほんの少しだけ目を逸らした。
慌てる浩之。
しかし今度のマルチは逃げなかった。
「はい…」
マルチの口が動く。
「はい、誓います!」
マルチの声がはっきりと響いた。
成り行きを見守っていた人々は、一様にほっとした顔をした。
「では指輪の交換と誓いのキスを」
牧師は次の段階を告げる。
あかりが結婚指輪を捧げ持ち、二人の前に立った。
新婦が指輪を取り違えるという小さなハプニングもあったが、式は滞り無く進行した。
薬指に指輪をきらめかせた二人が口づけするのを、あかりは微笑んで見守っていた。
ああ、これでやっと…。
目を伏せる。
良かったね、マルチちゃん。
*****
三人と牧師は教会の庭園に出ていた。
薄暗い教会の中より、こうして自然の中にいるほうがずっといい。
西の海は、傾く太陽に照らされて、その波を金色にまたたかせていた。
あかりは時計を見、時間を確認する。
あともう少ししたら、ホテルに帰らなきゃ。
でも、もうちょっとだけ、このままでいよう。マルチちゃん、本当に幸せそうだから。
ウェディングドレス、頑張って作った甲斐があった。良かった。
心の中で、東京に居る綾乃に感謝するあかり。
あかりも幸せだった。
自分の作ったものが人から喜ばれるのは嬉しかった。
ふと、あかりは、牧師が何度も杖を持ち替えていることに気付いた。老人は立ち続けているのが辛そうだった。
あかりは急いで牧師の手を取り、古びたベンチに導く。
「有り難う、お嬢さん」
牧師の感謝の言葉に、微笑みで返すあかり。牧師が腰を落ち着けると、その横に立った。
「有り難う」
再び牧師は礼を口にした。
「お嬢さんは優しい方なのですね」
「いえ、そんな」
あかりは謙遜する。
牧師は後ろの木立をちらりと見遣った。
「あの花…あなたなのでしょう?」
砲台跡に供えた花のことを指しているのだと分かった。
あかりが答えないで居ると、牧師は小さく、また、有り難うと言った。
戦争で誰か亡くしたのだろうか。牧師の呟きには、何処か複雑で、哀しい響きがあった。
牧師は杖を前に立てると、ゆっくりとした動作で、その上に両手を重ねた。
しばらく黙っていたが、ふと思い付いたという調子で訊ねた。
「彼とはどういったご関係ですか? …ああ、答えたくなければ別に構いませんが」
「幼なじみなんです。彼とは幼稚園のときからずっと一緒でした」
「なるほど…」
牧師は物思う表情に変わった。
身体をねじり、あかりの方に向き直ると、頭を下げた。
「いきなりこんなことを言うのは気が引けるのですが、どうかこれからも、あの二人の力になってあげて下さい。お願いします」
あかりの微笑みは大きくなる。
「ええ、もちろん」
あかりはしっかりと頷いて見せた。
「あの二人は、本当に大切な友人ですから」
その言葉には、肉親に対するように、深い親愛の情がこもっている。
牧師はあかりの瞳を見つめた。
あかりの決意が強すぎるほどそこに現れ出ていたのだろう、つかの間だがたじろいだように顔を退いた牧師だった。また何か考え込む表情になったが、すぐに我を取り戻した。
あかりの優しい笑みを確かめ、ほっと頬を緩めた。
それから新郎と新婦の方を眺めだした。
白い眉毛の下でしばたたく目は、何やら楽しげだった。
老人は、こうやって、沢山の夫婦を送り出してきたのだろう。その穏やかな笑顔には、先ほど浩之を怒らせたロボットへの偏見は、微塵も感じられなかった。まるで、子供を見守る父親のような温かさに満ちていた。
この人に式を挙げて貰って良かった。
あかりは心からそう思う。
本物の牧師様はやっぱり違う。教会で式を挙げることが出来て、本当に良かった。
そんな感慨に浸りながら、あかりもまた、祝福された二人の方に目を向け…。
あかりの肩がぴくっと跳ね上がった。
マルチの振る舞いに視線が釘付けになっていた。
マルチは、自分の指にはまった指輪を見つめていた。
間近で観察しようというのか、左手を目の前にかざしている。
瞬き一つしない。
マルチは見とれていた。あかりの指輪に見とれていた。
浩之が自分とマルチの薬指を指さし、何か説明している。
あかりは胸がざわつくのを感じた。
浩之は何を言っているのだろう? …ここからだと全然聞き取れない。
ダイヤモンドの輝きに、マルチはうっとりと瞳を潤ませていた。それから浩之に視線を移して、にこっと笑った。
またマルチは指輪に目を遣る。
さも大事げに指輪に頬ずりするマルチを見たとき、チクンチクンと薬指が疼いた。
マルチは本当に嬉しそうだった。
あかりは気後れするものを感じ始めていた。
指輪を外さねばならないときがきたら、マルチはがっかりするのではないだろうか。
マルチの笑顔を台無しにするようなことは避けたかった。
あかりは、いつしか胸に当てていた手を、関節が白くなるほど握りしめていた。
指輪を返してと言わず、黙っていた方がいいかも知れない。
いっそ、今日の記念に、マルチにプレゼントした方がいいのかも。
考えてみれば、マルチはメイドロボなのだ。指輪をしたことなんてないのだろう。
これはいい機会なのではないか?
彼女も女性なのだ。装飾品の一つくらい…。
そんな風に考えていたときだった。
あれは私のものだ。
あかりは自分の中で響いたその声にぎょっとした。
マルチを祝福したいと思っていただけに、砂糖を煮詰め、焦げ付かせたような黒々とした感情を…羨望を通り越したネガティブな感情を…自分の中に見つけ出し、驚愕した。
何だ、この感情は?
マルチの幸せが許せないのか? それでマルチの足を引っ張ろうというのか?
まさか、これは嫉妬なのか? 私はマルチに嫉妬しているのか?
嫉妬という言葉を考えただけで、胃がむかむかするほど不愉快になった。
そんなはずはない。嫉妬なんかしていない。
マルチに結婚式をプレゼントしたのだ。
そんな私が、指輪一つで、嫉妬などするはずもないではないか。
でも、あれは私のものだ。
あかりは心の奥底でくすぶる声に閉口した。
だから…だからどうしたというのだ。
確かにあれは自分のものだったが、結婚の記念に、マルチに譲ってもかまわないではないか。
マルチは可哀相なのだ。あれだけ浩之を愛しているのに、メイドロボという運命から逃れられない。彼女に夢を与えることの何処が悪い。
それでもあれは、浩之ちゃんがくれた、私の大切な宝物だ。
声は諦めてくれず、執拗に主張を重ねた。
何なのだ? 一体私はどうしてしまったのだ?
あかりは怒りを覚え始めた。この神聖な場所で、エゴに満ちた不謹慎な考えを抱いている自分が許せなかった。
余計なことをささやき続ける自分の半身を切り取り、海に投げ捨てたい気分だった。
その半身に引きずられて、嫉妬、という言葉をますます意識する自分が苛立たしかった。
私は嫉妬していない!
あかりは心に巣くった何かに叫ぶ。
そうだ…嫉妬しているというのなら、なぜ結婚式をマルチにすすめたのだ?
自分はマルチに幸せになって欲しかった。
だから、嫉妬なんて、絶対、絶対、あり得ない!
あかりの呼吸はひどく速くなっていた。
手のひらもじっとりと汗ばんでいる。
首を振り、なおも残る暗い雑念を追い払う。
声の気配は失せた。心の底にぽっかり穴を残して。
警戒を緩め、ほっと吐息を漏らすあかり。
そう言えば、二人はどうしているだろう?
花壇の前で、浩之とマルチが何かを語り合っているのが目に入った。
二人とも幸せそうだ。式をすすめた甲斐があったというものだ。
良かった。本当に良かった。
夕日がやけに眩しかった。
マルチの指にはまった指輪が、名残惜しそうに輝いているのが見えた。
その銀の光が目にしみた。
あかりは視線を逸らした。
無視しよう、あんなもの。
たかが指輪だ。それ以上でもそれ以下でもない。あれが無くてもどうということはない。
あれはマルチにプレゼントしようと決めたのだ。
そもそも自分には、あれをつける資格はない。
本来なら、浩之の正妻にあたる女性は、マルチなのだから。
自分は二番目だ。何であれ、マルチが望めば、それを譲らねばならない立場なのだ。
そこまで考えを進めたとき、あかりは声の存在をまた感じた。
その声は、あかりの言葉にじっと耳を傾けていた。
確かにそうだ。お前は二番目だ。
声の意外な同意に、あかりは勢いづく。
そうだとも、私は二番目だ。
あの指輪もマルチが受け取るべきものだった。
後から来た自分が受け取ってはいけなかったのだ。
自分は浩之の子供を産み、浩之の側にいることだけで満足すべきなのだ。
二番目である自分は、浩之から愛して貰える資格はない。
たとえどんなに浩之が『愛してる』を口にしたとしても、そのことを忘れてはならない。
自分は許されぬことをしたのだ。
指輪程度のことでわがままを言ってはいけない。
尤も、指輪を譲ったからといって、くよくよ悩むことはない。
指輪ならもっと豪華なものを持っているではないか。親たちが贈ってくれたあれは、浩之がくれたものとは比べものにならないくらい、高価なものだ。指輪をしたければ、自分はそちらをつければいいのだ。
そうだ、それがいい。親たちも喜ぶだろう。
あかりは、自分の奥底に向かって、説得の石つぶてを矢継ぎ早に投げ込み続けた。
その甲斐があってか、心の底に口を開けた暗がりはあらかた塞がれ、声が漏れ出てくるような隙間も埋め尽くされたようだった。
今度こそ声は聞こえない筈だ。
やっとあかりは安堵し、心の中で明るく笑った。
指でそっと口元を確かめる。
確かに笑みをたたえているように思えた。
大丈夫、これで大丈夫だ。
そのとき、マルチが振り向くのが見えた。
ドレスの裾に苦労しながら、あかりの方に小走りでやってきた。
「あかりさん、これ、お返しします」
両手で差し出されたのは、あの指輪だった。
「そんな、別に…」
「いえ、これはあかりさんのものですから」
「…そう」
何故か、マルチの笑顔をまっすぐ見つめることが出来ない。
「ありがと、マルチちゃん。それからおめでと。本当におめでとう」
呟くように祝辞を口にするあかり。
やっとのことで視線を合わせた。うまく笑みを作れない自分のぎこちなさがもどかしかった。
「綺麗だよ、マルチちゃん」
マルチは頬をぱぁっと薄桃色に染めた。
足音も軽やかに浩之のもとに戻っていくマルチの後ろ姿を見送ったあと、あかりは指輪を手のひらの上で転がしてみた。
ひどくみすぼらしく思えて仕方なかった。
お前は二番目だ。
別の声が背後に忍び寄っていた。
声は静かに指摘し続ける。
お前は永遠に二番目だ。
従容とその言葉を受け入れようとした、まさにそのときだった。
声から頭ごなしに決めつけられて、咄嗟に反論したものが居た。心の片隅に僅かに生き残っていた、今まで声たちの威圧に身を縮こまらせていた希望たちだった。
彼らはおずおずと、しかし、必死になって主張した。
でも、浩之ちゃんは平等に愛してくれるって…。
…その科白を最後まで続けることは出来なかった。
先ほどあの声にぶつけた言葉のつぶてが、心の底から一斉に舞い上がってきた。そして、方向を変えると、猛然と襲いかかってきた。
あかりの希望たちは一瞬で蹴散らされた。丸裸になったあかりは、なすすべもなく、あかり自身の言葉のつぶてに叩かれ続けた。
抵抗しようにも、出来なかった。
打たれるがままだった。
何より、あかり自身が罪を認め、その償いを求めていた。
あかりは自分の奥底に眠る、もう一つの記憶のことを意識していた。
それは、あかりを責めるあの声たちでさえ、あかりの半身であるが故に敢えて目を背け、口に出すのをためらっていることだった。
一刻も早く忘れたいと願い、心の一番奥まった場所に押し込め、有無を言わさず閉じ込めた記憶。
今、そのことを責められれば、あかりの正気は一瞬のうちにねじ切られ、引き裂かれてしまうであろう事実。
あかりを献身に駆り立てる、もう一つの理由。
忘れていたはずだった。
忘れなければならなかった。
なのに、降り積もった忘却の泥が、声たちと希望たちとの間に湧き起こった葛藤の乱流によって払われ、その表面が露出してしまったのだ。
怯え、恐れながらも、あかりの心の指が、惹き付けられるようにして、それに触れた。
その途端、指先が呵責のほむらに焼かれ、全身が激痛に刺し貫かれた。取り乱して泣き叫びそうになった。
私は、あのとき、マルチを殺したいと思った。
人間ではないから、と。
機械だから、壊しても構わないのだ、と。
この烙印は一生消えることはない。
マルチが自分をいたわってくれるたび、あのときの、氷のような憎悪を思い出すだろう。
マルチの明るく純真な声を耳にするたび、マルチを殺してまで幸せを求めたがった自分の醜さを思い知らされるだろう。
家族としてマルチに親しみを覚えれば覚えるほど、マルチの笑顔を見るそのたびごとに、心の深淵には、自責と後悔が降り積もっていく。
かってあれほど強くなれと願った良心の剣は、今やあかりの手を離れ、竜へとその姿を変えて、あかり自身を滅ぼそうとしていた。かつてあれほど脆く思えたその刃先は、恐るべき怪物の牙へと変貌を遂げていた。
心の奥底にとぐろを巻いた良心という名の竜は、こうしている間も、降り積もるものを餌に、強く大きく育っていく。
今はまどろみ続けるその竜だが、いつかは目覚めのときを迎えて…あかりの心を砕くのではないか?
その予感に、ずっと以前から、あかりの防衛本能は悲鳴を上げていた。絶えず絶えず、破局を迎える前に引き返せ、浩之を忘れろ、マルチから遠ざかれ、別の幸せを見つけろと、様々に警鐘を鳴らし続けていた。
しかし、その警告を耳にしてもなお、あかりはこの生き方を選んだのだ。
たとえどのようなことがあろうと、あの愛しい人と共に人生を歩むと。
あかりは夕焼けにとけ込む浩之を見つめた。
忘れるな。
繰り返し声が響く。
罪を犯したお前とマルチは平等ではない。
ああ、分かっている。分かっている、そんなことは。
あかりの中にあきらめが渦巻く。
私は二番目だ。一番目であるマルチに、何でも譲らねばならない立場の人間だ。
これからもそうして生きる。ずっとそうする。
この身が朽ちるまで彼らに尽くし、彼らの盾となる。
あかりがそばに居る限り、浩之とマルチを奇異の目で見る人は居ない。
浩之とマルチの親しすぎる関係をいぶかる人間が居たとしても、浩之の隣で微笑むあかりを見れば、すぐに疑念を解くだろう。メイドロボを人間扱いする、ちょっと変わった一家なのだと、納得して終わるだろう。そういえばあのメイドロボ、まるで人間みたいだね、何処の製品だろう、と思うくらいが精々だ。
なんと素晴らしく、なんと完璧な偽装だろう。
あかりはそうやってたった一人で戦い、浩之とマルチを、社会が繰り出す偏見の槍ぶすまから守るのだ。
たった一人で?
そこで反芻した言葉の重さに、あかりの心の梁は軋み、苦悶のうめきを上げる。
あの二人は安らげるだろう。あかりという守護者を得たのだから。
でもあかりは? 彼らの間に割り込んでしまった、本来招かざる者であるあかりは?
招かれざる者であるが故の居心地の悪さを感じたとき、あかりは我慢できるのか? どれだけ仲良くなったとしても、あの二人との間には、越えられない溝があるのではないか? その溝につまづいてしまったら、そのときあかりは?
浩之とマルチを信じたい。彼らは大切な家族なのだ。彼らと仲良く暮らしていけたらどんなにいいかと思っている。マルチを抱きしめ、『ずっと一緒だよ』と言ったあのときの気持ちに偽りはない。
それでも、人生は長い。いつも笑い合っていられる訳ではない、綺麗事では済まないのだ。自分たちの生活は普通ではない。普通でないが故に、様々な苦しみと出会うだろう。
そんなとき、涙を流すだけですめばいいが、もしそれで収まらなかったら? 困難に疲れ果て、いつか三人で居ることに辛さを感じるときが来るとしたら? その辛さに挫けそうになったとき、あかりはどうなる?
答えはない。
あかりは、浩之のそばに居ようと願うあまり、挫けるという逃げ道を、厳重に塞いでしまったのだ。
生活の些細な出来事に心の均衡が崩れても、マルチへの償いの意識に心が痩せ細り、一人で立ち続けることが苦しくなっても、ただ一言、理解ある言葉を掛けて貰えさえすれば立ち直れるときでさえも、そのとき支えを求めて他の誰かにすがることは出来ないのだ。
父、母、友人、先生。誰にも相談できない。弱音一つ吐けない。そんなこと、できるはずがない。浩之とマルチのことを理解してくれた心優しい牧師でさえ、三人の真実を知れば…。
駄目だ。あかりは全部自分で解決しなければならないのだ。何もかも呑み込んで、それでも微笑みを浮かべていなければならないのだ。
不意に志保の顔が浮かぶ。
未来のある日、ふとした衝突で涙に暮れるあかりを迎えた志保は、泣き虫あかりと言いそうになるのを抑えながら、困った顔で笑う。
いつものように志保は言うだろう。
『ね、どうしたの、あかり? つらいことがあるなら教えてよ? この志保ちゃんが解決して上げるからさっ』
真情に溢れた大親友の言葉にほだされて、あかりの重い口が開かれる。
あのね、志保、私…
言葉が遮断された。
想像の中のことなのに、舌がそれ以上動かない。心のブレーキが散らす火花の烈しさに、網膜が灼かれた。
結果は分かりきっていた。
志保は、あかりの告白に、ぽかんと口を開けている。それから我に返ってモゴモゴ何か言い、こっそりとあかりの顔を窺うだろう。
その眼には、あかりを傷つける感情がちらついている。人生の選択を誤ったあかりへの憐憫が、唯々諾々として『二番目』…愛人と言われても仕方がない…をつとめていることへの軽蔑が、のぞいているのだ。
それだけならまだいいが、それだけでは済まされない。
憤った志保は、浩之に詰め寄るだろう。
『ヒロ、このろくでもないメイドロボ、さっさと処分しなさいよ』
後ろであかりが泣こうがわめこうが、何より友情を重んじる志保は、あかりの立場を守ろうとして、躊躇することなく浩之とマルチを攻撃するだろう。
そうやって、みんなずたずたにされるのだ。
その後に来る破滅的な混乱を考えると、気が遠くなりそうだった。
しかも悪いことに、これは志保に限った話ではないのだ。あかりを大切に想い、浩之を心配する人間なら誰しも、志保と同じ行動を取るだろう。
駄目だ…誰かに頼るなんて…出来ない…。
あかりは歯を食いしばった。
あかりは、他人の助けを期待してはいけないのだ。それは、好奇の目と嘲笑を、悪くすれば罵倒と猛反対を引き寄せるだけだから。
あかりは、あの二人の本当の関係を、自分が『二番目』であるという事実を、たとえ何があっても隠し通さねばならない。平穏な家庭を演じ、貞淑な妻を演じ、良き母親を演じ…そうやって周囲の目を欺き、防ぎ通さねばならない。
浩之の側に居られることを唯一の糧として、『二番目』であるあかりは、愛する浩之とマルチのために、全生涯をかけて、一人で戦い続けねばならないのだ。
そうだ…。全生涯…たった一人で…死が全てを分かつまで…。
どくん!
その瞬間、あかりの中で、鼓動が爆発した。
どくん!
いやだ! そんな未来、いやだよ!
どくん!
恐いよ! そんなの、耐えられないよ!
どくん!
だれか! だれか助けて! だれか!
屠場に連れて行かれた動物のように、鼓動が暴れる。あがく。跳ね回る。
覚悟している筈なのに、絶望感に目がくらむ。窒息しそうになる。内臓たちが、見えない針に刺された、痛い痛いと、一斉に訴え出す。血管に流し込まれた冷ややかな何かのために、指先が痺れる。身体が、身体がわななく。
静まれ、静まれ、私の身体。
お願いだから、もう少しだけ。この式が終わるまで。
二人に心配をかけたくない。
動揺しないで。
お願いだから…!
荒れ狂う内心の感情を懸命に抑え込みながら、あかりは、辛うじて立っていた。
目をかたくつぶり、ひたすらこらえた。
どれだけ耐え続けたことだろう。
あかりを打ちのめす嵐は弱まり、心にようやく静寂が戻ってきた。
もう…十分…だろう…?
あかりは切れ切れに呟きを漏らした。
何処かで聞いている筈の声に向かい、やっとの事で言葉を紡ぐ。
もう十分に…気が済んだろう…?
こんなにも…こんなにも…手ひどく…私を…痛めつけたのだ…。
これ以上…何も言うな…責め立てるな…。
声は答えなかった。
敗北を認めたあかりに満足したのだろうか。声は口を閉ざし、何も言い返さなかった。
…声の気配はそれきり消えた。
あかりは、のろのろと指輪を薬指にはめ直した。
顔を上げたあかりのおもてに、夕焼けが赤く射した。
浩之の傍ら…あかりがずっと焦がれて止まななかったその場所に、マルチが立っていた。浩之を愛おしそうに見上げていた。
浩之もまた、マルチを見つめている。その手は、深い愛情を示す仕草で、マルチの頬を撫でていた。
あかりはぼんやりと思った。
マルチが居るあそこは何と遠く…何と遙かな場所だろう、と。
二人を見ていると胸が詰まりそうだった。
結婚式のとき、あんなにたくさん愛の言葉を貰い、今は祝福の薔薇に囲まれて無邪気に笑っているマルチがまぶしかった。それに比べて自分はどうだろう?
あかりは、無意識のうちに薬指を締め付ける小さな金属のかたまりに触れ、その縁をなぞっていた。
自分たちの結婚式のときも、あの二人のように幸福そうに見えたろうか。
自分はそうだったかも知れないが、浩之はどうだったのだ?
分からない…もう分からなくなってしまった。
あのときの幸せな気持ちが、今は泡のように感じられてならない。
浴室の天井に描かれていた人魚姫が脳裏を過ぎった。
自分の幸せは、このままはじけて消えてしまうのだろうか。あの人魚姫のように。愛しい男が別の女性と結婚するのを黙って見守り…最後に塩苦い泡に変わってしまった、あのかわいそうな女性のように。
ふと視線を感じた。
牧師の眼が自分に注がれていた。
我に返るあかり。
慌てて会釈をした。
少し遅れて、牧師がうなずき返した。
何か心配事でもあるのか、その表情は曇っていた。
自分の顔を捉えて離さないその灰色の瞳を、あかりは怪訝に思った。
何気なく頬に指を遣った。
指先は濡れていた。
それは何とも苦い水だった。
あかりの両眼は、その苦い塩水を、とめどなく流し続けていた。
【続く】
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