LostWaltz

 

第7話

 

Ver.1.02

 

制作: GRNVKA

 

 

 

「…!」

 声にならない叫び。
 ベッドに就いていた老人のまぶたがぱちんと開いた。
 あの教会の牧師だった。
 牧師はせわしなく瞬きを繰り返した後、ようやく正気に返った。
 まだ夜更けだった。
 顔をゆっくりと横に向ける。
 扉が半開きになっており、その向こうに、一筋の冷えた光が天窓から差し込んでいるのが見えた。
 それに誘われるように、牧師は身を起こした。

 目が冴えてしまっていた。

 細やかに震える手で、額の汗を拭った。その濡れた感覚が、夢の中で触れたどろりとした液体を想起させる。
 動悸はなかなかおさまらなかった。

『誰か医者を呼んでくれ!』

 夢の中、必死に叫んでいた自分の声が耳に残っていた。

『お願いだ、医者を!』

 眠りに戻ることを諦めた牧師は、緩慢な動作で、足を床に落とした。
 古いローブを羽織ると、杖をつき、片足を引きずりながら、書斎に入っていった。
 月光が机の上を照らしていた。
 聖書が、白い光の中に横たわっていた。

 何故だ? 何故今になってこんな夢を…?

 牧師は、その古びた表紙に、そっと手を置いた。
 今し方、夢で見た過去の出来事を思い返していた。

 それは、半世紀近く前のことだ。
 牧師は人種差別撤廃を訴えるバスツアーに同行した。
 バスツアーの目的地はミシシッピ河流域。南部といわれた地域の、最も奥まった一帯である。
 バスツアーを企画したのは、平等の理想に燃える大学生たちだった。
 当時、彼らを組織していたのは、生まれて間もないSNCCという学生組織だった。SNCCは、非暴力主義で黒人差別を無くそうと、その若々しい活力を以て、様々な団体や識者と手を携えながら、差別主義に立ち向かった。
 その活動の中に、『自由のための乗車運動』と呼ばれる、人種差別の激しい深南部へのバスツアーがあった。
 しかし、こうしたバスツアーは、ひとかたならず勇気の要る行為だった。
 何故なら、SNCCの行動は全合衆国、全世界に自らの主張を訴えるプロパガンダの性質を帯びていて、南北戦争に敗北して以降、ずっと燻り続けてきた南部の負の感情を、痛く刺激するものでもあったからだ。
 州境を越えた最初のバスステーションで、事件は起こった。暴徒がバスステーションを十重二十重に取り囲んでいて、彼らが降りてくるのを待ちかまえていたのだ。
 警備に現れるはずの警官は一人も来ない。
 学生たちも、同乗していた地方紙の記者たちも、凶暴な敵意の前に震え上がってしまった。彼らは、同じ様なバスツアーを企画したJ・ツワーグが、暴力を振るわれ、重傷を負ったことを知っていたが、大したことはないと現実を軽視していたところがあった。バスの中はたちまち、乗客たちのうろたえた叫びや泣き声で一杯になった。
 牧師とて恐怖に囚われていたが、ならば今こそ勇気を示さねばならないと感じた。牧師にはそうしなければならぬ理由があった。
 牧師は周囲の制止を振り切り、バスのドアを開けて、ゆっくりと南部の大地に降り立った。

 牧師は自分の不自由な足を見おろした。
 そのとき受けた傷の後遺症だった。

 バスのステップを降りるや、怒号と共に暴徒が牧師を取り囲んだ。
 話し合いの成立する余地は無かった。
 黒人の犬と罵られ、こづかれた。いきなり地面に引き倒された牧師に、棍棒が何度も振り下ろされた。

 それから後に起きたことを思い、牧師は沈痛な面持ちになった。

「アン…」

 口にしたその名前には、拭い難い悲しみが含まれていた。
 椅子に身を深々と沈め、気を紛らせようと、物思いに耽る。
 期せずして、半月ほど前の出来事を思い起こしていた。

 人間とメイドロボの結婚式。

 八十年近く生きてきたが、こんなことは初めてだった。
 もう二度と無いことのようにも思えた。それは当然のことで、メイドロボとの結婚など、今の社会が認める筈もなかった。
 博愛をうたうキリスト教でも、神の創造物である人間と、人間の創造物であるメイドロボの婚姻は、厳しく弾劾されかねない。
 しかし、牧師は断言してもいいが、あのメイドロボは人の創造物の範疇を超えていた。まるで人間のように泣き、笑い、結婚式を挙げられたことを心から喜んでいた。
 そこまで考えて牧師は失笑した。
 メイドロボに対する自分の見方に、人種差別と重なる部分が残っているのを感じたからだ。
 メイドロボであろうと人間だろうと、そんなことは関係ない。何故なら彼女の心は…誰かを愛する心は、本物だった。
 そうだ。きっと彼らもあのロボットの女性を弁護するに違いない。自分は、間違ったことは何もしていない。
 牧師は書斎の壁に飾られた写真たちに目を遣った。
 そこに写っているのは、人種間の権利平等を求め、人種差別に反対し続けてきた人々だった。

 ああ。

 牧師は嘆息する。

 あの夫婦は幸せになれるだろうか?

 何しろ、彼らの周囲には、無理解の壁が高く聳えているのだ。トルコ人の猛攻にさらされたロードスの騎士たちのように、いつかは膝を屈するときが来るのではないか?
 あの赤毛の女性のように、理解のある人間ばかりなら良いのだが。
 牧師の思いはそこで急に憂鬱になった。
 結婚式の後、女性が見せた涙が、心の裡に蘇っていた。
 あのとき、何気なく赤毛の女性を視線を移した牧師は、胸を強くどやしつけられたように感じた。
 牧師は見てしまったのだ。
 残照を受ける彼女の横顔は、まるで返り血を浴びたように赤く染まっていた。そして、祝福された二人の後ろ姿を見つめるその表情は…。
 牧師は、不安でいたたまれなくなった。
 彼女は一体何に絶望したのだろう?
 彼女は、牧師の不審げな視線に気付くと、すぐに表情を整え、機先を制して言った。
『何だか泣けて来ちゃって』
 彼女は涙を指で拭い、微笑みを作った。
『あの二人、これまでずっと大変だったんだなあって思って。でも今はホントに幸せそうで、何だか見てて涙が出ちゃって』
 そんな彼女に釈然としないものを覚えながらも、牧師は曖昧に相づちを打った。
 気まずい沈黙が訪れた。
 女性はとうとう牧師から目を逸らした。いいことを思い付いたと言うようにポンと手を打つと、あの二人の元へと少し小走り気味に歩いていった。
 何か相談していた。
 新郎と新婦は女性の言葉に大きく頷いていた。特に新婦は顔を輝かせ、嬉しそうにしていた。
 その意味が分かるのは翌日のことだ。

 牧師はピカピカに磨かれた窓越しに薔薇園の方を見つめた。

 あの三人は、翌日もやってきた。
 そして、教会を掃除してくれたのだ。
 そこまでしてくれなくとも、と辞退した牧師だったが、どうしてもお礼をしたいという彼らの熱意に押し切られた。
 寂しかったこの場所に、久しぶりに人の賑わいが戻ってきた。若い彼らは子供のように大騒ぎながら床を掃き清め、椅子や机を拭き、ガラス窓を曇り無く磨き上げた。中でもあの新婦は自分の出番とばかりに張り切っていた。
 新郎と新婦はモップを床に付けると、かけ声と共に走り出した。それが彼ら流の床掃除の仕方だったのだろう。ほこりだらけの床が、見る見る濡れた光沢に塗り替えられていった。
 それを見たあの女性も、いそいそとモップを手にした。
 その途端、新郎の表情が変わった。大急ぎでやってくると、女性の手からモップを取り上げた。新婦も後ろに付いてきていて、女性の一挙一動をじっと見守っていた。
 女性の方は彼らの気遣いを過保護と感じているようで、しきりに苦笑いしていた。甘い呆れ声を上げると、新婦に負ぶさり、緑色の髪に頬ずりした。その仕草は、姉が妹に対するもののように、愛情に満ちていた。
 彼らは女性の身体に負担がかかるのを心配していたのだろう。新郎の男性は椅子を引くと、女性の肩を押して座らせた。女性は困ったような、それでいて嬉しそうな、複雑な表情をしていた。
 そのときになってやっと、牧師は、女性が妊娠していることに気付いた。
 光線の加減か、彼女の肌は、マイセン陶器のように白く透き通って見えた。
 時折、心持ち膨らんだ自分のお腹を愛おしそうに撫でていた。
 牧師の観察に気付くと、あの女性は恥ずかしげな微笑を浮かべた。
『生まれるのですか?』
 それは、我ながら何とも間抜けな問いかけだったと思う。
 彼女は静かに頷き、あと四ヶ月後に、と答えた。
 それから赤みがかった髪をかき上げ、モップ掛けに精を出している男性の背中に、印象に残る眼差しを向けたのだ。
 そう…あの不思議な眼差しを。

 牧師は自分が感じていた違和感の根を探り当てた。

 あの女性と新郎の関係は一体何なのだろう?
 最初は、あの女性は、男性の妹か何かだと思っていた。単なる友人関係以上に、親密な間柄に見えたからだ。女性自身は、男性との関係を「幼なじみ」と説明していたが…。
 それに結婚式の後見せたあの涙。時折男性に向ける謎めいた視線と、奥深いところで繋がり合っているように思えてならない。
 彼女は誰の子供を身ごもっているのだろう?
 何気なくそんな疑問を抱いたとき、ふと新郎の姿が心を過ぎった。

 …まさか。

 余りに飛躍した想像に牧師は苦笑する。
 いくら親密に見えたからと言っても、それは無いだろう。新郎が結婚を望んだのはロボットの女性の方なのだ。
 それに、あの結婚式をお膳立てしたのは赤毛の女性ではないか? 新婦のためにウェディングドレスまで作った彼女が、あの男性の子供を?

 ばかばかしい。
 こんな想像をしてしまう自分は、あの悪夢のせいで、神経が高ぶっているに違いない。

 牧師はそう一人ごちると、ゆっくり立ち上がった。
 知り合いが贈ってくれたダージリンがまだ残っているはずだった。
 戸棚の奥に収まっていた紅茶の四角い缶を取り出し、中の重みを確認する。
 ティーサーバーをテーブルに置くと、一匙紅茶を入れた。魔法瓶の蓋をゆるめたとき、底を洗うピチャッという水音が聞こえた。
 牧師は意外に面倒なことになったなと思いつつも、お湯を沸かすために、キッチンに入った。
 以前はほこりだらけだったキッチンだが、ここもまた、彼らの手で清掃され、清潔になっていた。
 ケトルに水を入れ、ガスコンロに載せた。
 カチカチと電子火花が散る音を聞いたとき、メイドロボの新婦の声がよみがえった。

『あの方は私の大事なお友達です』

 そうだ。
 他のことに気を取られて聞き流していたが、彼女は確かこう言っていた。

『私、メイドロボなのに、そんなの関係ないって言って下さって、私たちと一緒に暮らして下さってるんです…』

 つまり、あの三人は一つ屋根の下で暮らしているということだろうか?
 牧師は首をひねった。
 彼らはどういう間柄なのだろう。
 赤毛の女性の左手には指輪が光っていた。既婚者だった。
 彼女には夫が居るのだ。
 彼女の家族と新郎新婦は一緒に暮らしているのだろうか。
 それより何故、彼女の夫はこの場所に居ないのだろう?
 用事でもあったのだろうか?
 身重の妻を放り出して?
 大体、彼女の行動も変だ。
 妊娠している身で、他人の付き添いが必要な身で、他人の新婚旅行について来るものだろうか? それは新婚夫婦から迷惑がられはしないか?
 『他人』?
 その言葉を当てはめるのには、どうにも抵抗を感じる。
 あの赤毛の彼女は、確か、こう言っていなかったか?
 新婦を部屋から連れ出そうとした新郎を遮り止めたとき、言い合いの中で、新郎の胸を叩きながら叫んだ言葉。

『私たち、家族なんだよ!?』

 その叫びには、ただ同居しているにしては、切実な響きがあり過ぎた。
 牧師はガスコンロのつまみに手を置いたまま考え続けた。

 おかしい。
 何か大事なことを忘れているような気がする。
 何だ?

 獲物を嗅ぎ回る猟犬のように、牧師の思考は過去の一点に集中した。
 式の直前から順に、違和感の根をたぐり始める。
 あのとき、いったんは飛び出した男性が、女性と共に戻ってきた。だが男性の感情は荒ぶったままだった。牧師をにらみつけ、自暴自棄になって自分を貶める言葉を吐いた。
 そのせいでメイドロボの女性は泣き出してしまい、男性は不意を衝かれて絶句してしまった。
 そんな彼らを、牧師は精一杯優しくいたわったつもりだったが、男性は半泣きになって、今更慰めて貰っても、もう遅い、手遅れだと叫んだ。
 無念そうだった。
 男性は少しの間黙りこくっていたが、急に我に返ったようになって、あの赤毛の女性の顔色を窺った。
 赤毛の女性は何故か、ひどく傷ついた顔をしていた。男性の突然の叫びに心底驚かされたのだろうか、視線は虚空を彷徨っていた。その間、彼女の手は自分の指輪に触れては撫で、触れては撫で、ということを繰り返していた。
 男性は彼女に歩み寄ると、強く抱きしめ、髪に口づけしながら、何かささやいていた。その間、女性は、心ここにあらずという感じで、曖昧に頷くだけだった。

 湯の煮えるごとごとという音が耳に届いた。
 ガスの火に炙られて、手の甲が熱くなっていた。
 牧師は慌ててコンロを消すと、手をさすりさすり、傍らの魔法瓶にケトルの中身を注いだ。
 湯気が頬に当たるのを感じながら、また物思いに沈む。

 結婚式の直前、あの女性はそわそわと落ち着かないでいた。
 指輪は用意してあるかと牧師がたずねたとき、彼女は一瞬呆気にとられた。どうして指輪が必要なのかと、考え込んだ様子だった。

 そう、その後だ。

 新郎の男性が女性に声を掛けた。
 彼は『自分たちの指輪』で代用しようと言った。
 女性はぽかんとし、ちょっと遅れて首を縦に振り、おずおずと自分の指から指輪を外した。
 そして男性も。

 牧師ははっとした。

 余りにさりげない動作だったので見逃していた。
 あのとき、男性も指輪をしていた。左手の薬指にはめていたそれを抜き取って、あの女性に渡したのだ。
 左手の、薬指?
 何だ、それは。
 これから結婚しようという人間が、何故結婚指輪をはめているのだ?
 その指輪は、ロボットの女性との結婚を意味するものかも知れないという推測が過ぎったが、それにしては、新婦が指輪をしていないのは妙だった。
 新婦は普段、人目をはばかって、指輪をしていないのかもしれないが、そもそもそれ以前に、新婦は指輪についての知識を持ち合わせていないという印象を受けた。
 指輪交換も、よく考えると妙だったのだ。
 新郎が新婦の指にリングをはめようとしたときのことだ。新婦は、急に遠慮の声を上げた。その指輪は贅沢だから、自分は新郎がはめていたシンプルなリングの方で十分だ、と言うのだった。
 新郎は苦笑して、これは新婦には似合わないからと説得し、押し問答の末、漸く新婦は納得した。
 式の後、新婦は指輪の美しさに見とれて、子供のようにはしゃいでいた。その態度から考えても、新婦は、結婚指輪に触れるのも、それを付けるのも、そのときが初めてではないかと思われた。
 それに、それにだ。男性の言葉がどうにも納得できない。
 何故赤毛の女性に向かって『自分たち』なのだ? あの場合、一くくりにする相手が違うのではないか? 彼と夫婦なのは、赤毛の彼女ではない。なのに、あのとき男性が彼女に向かって呼びかけた『自分たち』という言葉には、ある種の関係に裏打ちされた馴れ馴れしさがこもっていたのだ。
 ある種の…そう、まるで夫婦の間柄のような。

『私たち、家族なんだよ!?』

 また、あの女性の叫びが耳によみがえる。
 家族。
 幼なじみではなかったのか?
 いったいどんな家族なのだ。
 血縁ではなく、ただの同居とも違う関係。

 さっきから感じていた胸のしこりが大きくなっていく。

『私たちの…?』

 彼女の細い声が響く。
 そう聞き返した後、彼女はすぐ新郎の言葉に従って指輪を外した。
 彼女が口にした『私たち』にも、新郎の『自分たち』と同じ響きがあった。
 そのとき見せた、あの女性の瞳の揺らぎが、牧師の脳裏に閃いた。
 ほんの微かだが、そこには別の感情が混じっているように思えた。

 まさか。
 ああ、そうなのか?
 本当にそういうことなのか?

 赤毛の女性の、友人にしては親近過ぎる、何処か切なく、何処か哀しい含みのある視線。
 あの目の奥底にたゆたっていたのは、幼なじみと言い切るには踏み入り過ぎた感情…男女の関係に絡んだ感情ではなかったか。
 あの指輪は、ひょっとしたら、彼ら二人を結び付ける証ではないのか。
 それを別の結婚式に使うことへのためらいがあったのではないか。
 牧師はうめき声を上げた。
 にわかには信じがたいことであった。
 これはまさしく重婚ではないか。自分はとんでもないことに荷担したことになる。
 いや、いや、この場合、新婦はロボットだ。法的には重婚に当たるまい。
 違う、ロボットとはいえ、彼女は人間そのものだ。たとえ相手がロボットでも、婚姻関係を複数結んで良いはずはない。

 全く、何と言うことを!

 牧師は頭を抱えてしまいたくなった。
 彼らの気持ちが理解できなかった。
 どうして赤毛の彼女は自分の夫に別の女性を斡旋するような真似をするのだ? それどころか、結婚式まで挙げさせるとは。
 それに新婦。彼女は赤毛の女性の妊娠を了解している風だった。それどころか、喜んですらいた。愛する男性が他の女性との間に子供を作っているというのに、何故あんなに屈託無い笑顔で居られるのだ?

 分からない…。

 彼ら三人の間に、一体どのような約束事が取り交わされているのか、牧師にはうかがい知ることは出来ない。
 何にしても、気付くのが遅すぎた。まさにこれは『後の祭り』なのだ。当事者たちが目の前にいればまた話は別だが、彼らは手の届かぬ何処かへと去ってしまった。考え直すよう説き伏せることもできない。
 牧師は肩を落とした。

 まぁ…深入りしない方がいいのかも知れない。
 彼らもそう望んでいるのだろうし。

 それは余り慰めにならない結論だった。
 頭の奥に疲労のしびれを感じ始めた牧師は、魔法瓶を手に、書斎まで戻った。
 牧師の戻りを口を開けて待っていたティーサーバーに、出来立てのお湯を注ぐ。
 紅茶のかぐわしい香りが書斎に漂い始めた。

 それにしても…。

 唇の先を熱い紅茶に浸しながら、続けるのを諦めた筈の考えに戻っていた。
 結婚式を済ませた新郎と新婦は、本当に嬉しそうだった。
 薔薇園の中で、かたく手を取り合って、いつまでも語り合っていた。
 あの男性は見るからに有頂天で、ロボットの女性しか目に入っていない様子だった。
 それは最愛の女性を前にした男性なら誰しもあることだ。こうした結婚式の場ならごく当然の光景だし、不自然ではないが、事情を薄々察し始めた今となっては、どうにも居心地の悪い結末だった。
 というのも、新郎の愛情が、ロボットの女性だけに向いているように思えてならないからだ。
 赤毛の女性にしてみれば、全て納得の上のことなのだろう。だが、あのような光景を見せつけられたら、とても心穏やかには居られまい。
 段々やりきれなくなってきた。
 彼女は自分がないがしろにされたと感じて、悲しい思いをしたのではないか?
 結婚式の後、彼女が涙を流していたのは、そのせいではないのか?
 薔薇園に呆然と佇んでいたあの女性の表情がまた思い出された。
 彼らの関係は、常に平穏というわけではないのだろう。もしかしたら既に破綻し始めているのかも知れない。
 この先、もっと辛い目に遭って傷つくこともあり得る。
 当たり前だ。一人の男性を二人の女性が共有しているのだ。普通ではない。
 ここは一夫多妻を許容する土地ではないし、そうした場所でも、愛情の在りかを巡るトラブルは絶えず存在するのだ。

 不幸な結末に終わる前に、何とかしてやりたい。

 そう思いかけた牧師だが、その気持ちは直ぐにしおれた。
 彼らが去った今、何が出来るというのか、という諦めがちらつく。

 もしそうだとしても、これは彼らの選んだ道だ。
 私に出来ることは何もない。
 何も出来はしない。
 …本当に、何も。

 牧師の気分は塞いだ。
 無力感が痛かった。
 たとえまた会う機会があったとしても、彼らは牧師の介入を拒むに違いない。
 彼らは終始笑顔だったが、牧師を信頼していなかった。最後まで素性を明かさなかったのだから。

 あそこと…ベトナムと同じだ。

 そこに至った牧師の認識は苦い。

 彼らの笑顔はオブラードの様なものだ。警戒心を包み込んでいるだけなのだ。
 駄目だ、救えない。救いようがない。
 第一、救命ロープに手を伸ばそうとしない人間を、どうやったら助けられる?

 いつしか、口を付けたカップの中身はぬるくなっていた。
 せっかくの紅茶が台無しだった。
 牧師は顔をしかめた。
 カップの中の赤い水面を見おろしているうち、あの赤毛の女性の泣き顔がまた胸を過ぎった。それと同時に、新婦を優しく抱きしめて微笑む姿も交差する。
 両立し得ない筈の光景だが、そのどちらにも、真実が含まれているような気がした。
 牧師は、結婚式の後、薔薇園で赤毛の女性に頼んだことを思い出した。

『どうかこれからも、あの二人の力になってあげて下さい』

 それを聞いた彼女の瞳に、強い光が宿った。
 断固とした決意の光だった。
 自らの身体を楯として、誰かを守り抜こうとする凄絶さがあった。
 それを見たとき、牧師は柄にもなく動揺してしまったのだ。

 あれではまるで…。

 心の中で小さく漏らす。

 …まるで…殉教者ではないか。

 殉教者。
 その言葉が浮かんだ途端、牧師の思考は、極度にのろくなった。
 その先を考えるのは苦痛を伴った。

 ミシシッピへのバスツアーの前日、牧師は、SNCCの若者たちが妨害に合わず、無事に目的地まで行き着けるよう神に祈り続けた。
 祈りながら思っていた。
 自分は人種差別撤廃という奔流の一筋になるのだと。たとえ志半ばに倒れようとも、それは信仰を全うした、満ち足りた生き方なのだと。
 礼拝室を退出した後、鏡に映る自分を見つめた。
 驚くほど強い目をした自分がそこに立っていた。
 これならば心配ない、使命を全うできるだろう。
 自分の顔に臆病さや迷いの色がないかと疑っていた牧師は、ほっと胸をなで下ろした。

 だが…。

 牧師は、冷めた紅茶を飲み干した。
 長い間ためらい、それからゆっくりと、壁際に歩いていった。
 思いを確かめるように、牧師は写真たちを一つ一つ撫でた。
 指先が止まった。
 そこに写る黒人女性を見つめた。

 アン。

 低く呟く。

 あなたは私を守ってくれましたね。
 どうして?
 どうして、白人の私のために?

 涙が頬をぬらしていた。
 とうの昔に涸れ果て、しぼり尽くされたと思っていた涙だった。
 うなだれ、故人の冥福を祈った。

 許して下さい。
 あなたには眩しいほどの未来があったのに。

 牧師が黒人公民権運動に関わるようになったのは、最初は、聖職者としての義務感だった。
 神に仕える者が、虐げられた者を救わずにいるのは許されないと思ったのだ。
 しかし、黒人たちとの連帯を深めるにつれ、牧師は、自分が白人であることに、つらさを感じるようになる。自分と同じ白人が、彼ら黒人をこの大陸に拉致し、酷使し、死に至らしめてきたのだ。
 それはもはや歴史上のことで、自分とは関係ない。そう考えることは簡単だが、感情は許さなかった。
 黒人を口汚く罵る白人も、牧師の前では敬虔なキリスト教徒に戻る。牧師は、白人に敬われる自分が、黒人支持を唱えることに、居心地の悪さを感じていた。
 同じ聖職者でも、肌の黒い牧師たちは生命の危機にさらされてまで活動しているというのに、この自分はどうだ? 安全な桟敷からヤジを飛ばしているだけではないのか…?
 だから牧師は、自らの証を立てるために、あのバスツアーに参加したのだ。

 傲慢にも、殉教者気取りで。

 牧師の独りよがりがもたらした結末は悲惨だった。
 あのときどうしてバスを降りたのだろう。
 バスの中に閉じこもって助けを待っていれば、まだ安全だったかも知れないのに。
 牧師は杖を握りしめた。
 夢で味わった、あのどろりとした液体の感覚は、アンが流した血と脳漿のものだった。

 太陽のようだったアン。
 笑顔のよく似合う、溌剌とした娘だった。
 SNCCの熱烈なメンバーで、ビラを配り、デモに参加し、何にでも積極的に関わっていた。
 モンゴメリの著作を好んで読み、自分は小説のアンとは全然似てないねと、笑っていた。
 赤毛とはかけ離れた自分の黒い縮れ毛を、少し気にしていたようだった。
 その彼女は、牧師を守ろうとして頭を砕かれ、死んだ。

 牧師は写真を正視できなくなった。
 顔を背け、杖をつき、杖をつき、よろめくように、椅子のところにまで戻った。

 今にも消え入ってしまいそうな、深い溜息。

 一度深く折り目が入ってしまった心をまっすぐ保つためには、努力が必要だった。
 牧師は、彼女を死なせてしまったことで自分を責めた。
 自らの居場所を求め、周囲の慰留を押し切って、戦乱のベトナムへと渡った。祖国のために戦う黒人兵士たちの支えになろうとしたのだった。
 あの戦争は軍事顧問団の増派程度では済まなくなり、ついには正規軍の投入にまでエスカレートしていた。長期化の忌むべき兆候だった。最終的には六十万を越える合衆国市民兵が送り込まれた。
 彼らにあまねく信仰の安らぎを与えることが使命だと信じた。

 ベトナムは、しかし、地獄だった。

 合衆国はVCと戦い、北の正規軍と戦い、自分たちが守る南の腐敗と戦い…そして、自らの猜疑心とも戦わねばならなかった。
 南政権にはデカダンスの雰囲気が色濃く漂い、ローマ帝国崩壊前夜の様相を見せ始めていた。
 VCの組織は、そんな南を白蟻のように蝕んでいった。
 日常と戦場の境界は失われつつあった。いつ何処で銃弾が飛び、ナイフが喉を掻き切り、手榴弾が爆発しても不思議ではなかった。
 哀れなのは、正義の戦いしか知らぬ純朴なアメリカンボーイたちだった。一つ上の世代が経験したあの輝かしい欧州大戦や、共産主義者を撃退し、三十八度線の彼方まで押し返した朝鮮戦争の美談を聞かされて育った彼らは、銃弾が前から飛んでくるとは限らないということを、全く理解していなかった。
 喜び勇んで戦場に向かった彼らの真っ新な心のズボンには、従軍するうちに、どんなにアイロンを掛けても取れないしわが刻み込まれていった。
 そう…狂気というしわが。
 酒を酌み交わし、にこやかに握手する相手が実はVCのシンパかも知れないのに、正気で居られるだろうか。
 無邪気に挨拶する少年たちが、夜は基地の鉄条網に張り付いてクレイモアの導線を切ったり、基地に出入りする車両を通報しているというのに、それでも人を信じていられるだろうか。
 敵は何処にでもいる。今すれ違った乳飲み子を背負った母親は、手榴弾を運んでいるかも知れない。メコンを行き交う漁船の船底には、今夜どこかの前進拠点を攻撃するための迫撃砲弾が隠されているかも知れないのだ。
 ジェファーソンの言葉を信じ、リンカーンの幻影を今も追い求める市民たちには、この戦いは荷が重すぎた。正義の在処を失い、誰のために戦い、誰と戦うのか分からぬ日々に、誰もが疲れ果てていた。
 牧師も例外ではなかった。泥のような疲労感に足を取られていた。
 あまりに、あまりに人が死にすぎた。魂を救済する以前に人は死に、殺し、むごたらしい罪を犯した。
 このような場所では、信仰は無力だった。
 そのうち、人々が気安く教会を訪れることさえ、難しくなってしまった。
 旧正月攻勢以降は、牧師の教会も警戒対象となった。教会の前には、ねじくれた鉄条網が幾重にも置かれ、着剣した兵士がものものしく歩哨に立っていた。
 抗議に赴いた牧師に、陸軍の情報将校は、あなたの安全のためだとにべもなかった。ご自分がどう思われようとも、あなたは紛れもなく合衆国市民なのだ、テトのときは運が良かった、あのときは彼らも教会までは頭が回らなかったようだから、とも。
 結局、サイゴンが陥落する二年前に、牧師はベトナムを離れた。

 沖縄は、そんな牧師が選んだ最後の贖罪の地でもあり、もう帰らぬと決めた故国に代わる、終の棲家でもあった。

 牧師は、ここで基地の住人たちの面倒を見ながら、海の向こうの祖国をずっと見つめてきた。
 挫折に似た思いを抱きながら。
 どれだけ声を枯らし、何度訴え掛けても遅々として進まなかった黒人の地位向上が、黒人兵の犠牲が奏功したのか、一つ一つ実っていった。
 その痛烈な皮肉に心が萎えた。
 迷いを覚えることも多くなった。
 自分たちの運動に意味はあったのか。
 祖国の恥を外国にさらしただけではないのか。
 何も声を上げなくとも、あの戦争が、黒人たちの権利を実現してくれたのではないか。
 じっと待っているだけで良かったのではないか。母鳥が運ぶ餌を待つ雛たちのように、ただ黙ってうずくまっているだけで…。
 そうしていれば、少なくともアンは死なずにすんだ。一人の女性の前途ある人生が失われることはなかった。

 バスの外で暴徒からリンチを受けていたとき、牧師は死を覚悟した。
 そのとき、女性の悲鳴が聞こえたような気がした。

 不思議な静けさが訪れた。

 身体を打ち据えていた衝撃が止んだ。
 襟首に液体が垂れるのを感じ、牧師は恐る恐る薄目を開けた。
 アンが牧師を守るように覆い被さっていた。
 その肩越しに、血の滴る角材をだらんと下げた男が立っていた。
 自分の行いに呆然としているようだった。
 彼は牧師の視線に気付くと弱々しいかすれ声をあげ、後ずさり、それから左右を見回した。
 周囲はそんな男に戸惑いを見せるだけ。
 人の死に直面した彼らは、暴徒では無くなっていた。
 何処にでも居る普通の市民たちだった。
 同意を求める男の視線に、彼らは目を背け、黙りこくった。
 男は蒼白になり、そんなつもりはない、殺すつもりはなかったと言い訳を始めた。
 牧師は聞いていなかった。
『…アン?』
 アンの名を呼んだ。
 反応はなかった。
『アン!?』
 牧師は、救いを求めるように周囲の人垣を見上げた。
 懇願した。何度も、何度も。
『お願いだ! 医者を! 医者を呼んでくれ!』
 人々は途方に暮れて顔を見合わせるだけだった。
 牧師は、次第に冷たくなっていくアンの身体を、しっかりと抱きかかえていた。
 手の施しようがないのは分かっていた。アンの後頭部に出来た裂け目は柔らかく、血がとめどなくあふれ出ていた。耳元で名を呼んでも反応はなく、瞳孔は不気味に開いたままだった。

 だが、昨夜のアンには…夢の中のアンには…意識があった。
 牧師に手を取られ、今にも目を閉じそうになりながらも、何かをささやいていた。

 アキラメナイデ。

 アンの唇はそう動いていた。

 キット変ワル。

 牧師は心の中で首を振った。

 私は無力です。アン。結局、私は何も出来なかった。あなたを守ることも出来なかった。
 こんな私が、誰かを救うことなど…。

 出来ルコトヲ、シテアゲテ。

 しかし…。

 ホンノ一言デモ、世界ハ変エラレル。

 …。

 思い出の細い指が、牧師の肩をそっと叩いた。
 牧師は顔を上げないまま。
 思い出はそんな牧師に何を感じたろう。
 指の感覚がたなごころのそれに変わり、励ますように牧師の肩を揺すった。

 ぱん、ぱぱん。

 シャンパンを開ける音が牧師の心に響き渡った。
 何年か前に開かれたパーティだった。最終残留組だった読谷の通信隊が本国に帰還することになり、兵士とその家族たちが、さよならパーティを開いたのだ。
 狭いホールに溢れた人、人、人。
 壁際に立っていた牧師は、次々別れの挨拶にやってくる人に応じながら、楽しげな人々を見守っていた。
 そこでは、白人も、黒人も、アジア人も、関係なかった。
 皆が同じ皿をつつき、グラスを回し、肩を並べて笑い合っていた。
 へべれけになった黒人少尉を、何とか邪魔にならない場所に連れていこうとしているそばかす顔の恋人。その悪戦苦闘ぶりを見かねたか、白人曹長が、失笑を浮かべつつ、肩を支えるのを手伝ってやっていた。
 通信隊指揮官の白人少佐はすっかり出来上がってしまっていて、強い南部訛りの下品なジョークを連発しては、混血の奥方からたしなめられていた。
 グラスを置いたテーブルの横には、人目を気にせずいちゃつくメキシコ系とアジア系の男女が居た。
 様々な肌の子供たちが、一つのボールを追って、キャアキャア声を上げながら会場を駆け回っていた。

 それは、多民族国家である合衆国の、何処にでもありふれた風景だった。
 何者かに強制された、偽りの融和…?
 いいや、違う。
 そこにあるのは、人々がごく自然に打ち解け合う、普段着のままの姿だった。

 そうだ。
 変化はいつの間にか忍び寄ってきて、さりげなく日常にとけ込んでいる。
 かつては飛び越えられるとは思えなかった仕切りを、気が付くと今は軽々跨ぎ越している。
 あれから半世紀。
 優越意識の鋭利な峰はいつしか丸まり、なだらかになって、劣等意識の深い谷はいつしか埋まり、均された。
 もちろん、まだ完全ではない。完全ではないが、かつて『夢』と語られた平等への願いは、つぼみの時期を過ぎて、そこかしこで花開き始めている。
 今の子供たちに、かつて黒人専用のバスやトイレが存在したことを語っても、絵空事と笑われるだけだろう。
 変わらないものはない。
 変われないものなどない。
 あの戦争で流された黒人の血は、確かに、変化を速めたかも知れない。法律が後押ししてくれたおかげもあるだろう。
 しかし、人々が変化を受け入れなければ、それが根付くことはなかった。
 変化を望んだのは、人々の心だ。
 ギターの音色が空気を裂き、陽気なかけ声と共に、ディスコ風のダンスが始まった。
 人々が踊り出す。
 興奮そのままに叫ぶ。
 笑い声を立てる。
 吹き鳴らされる口笛。

 牧師は、そのときの自分を…リズムに合わせて知らず身体を揺らしていた自分を…思い出していた。
 耳が痛くなるようなあの喧噪が、何故か心地よかった。
 机に立てかけた杖をしみじみと撫でた。

 自分はもう踊ることは出来ない。
 それに…踊る相手も居なくなった。

 喪失感が老いた身を覆った。

 最後に牧師と踊った相手は彼女…アンだった。

 思い出が、元気を出してと、再び牧師の肩を揺すった。
 牧師は、肩に置かれたその手に、自分の想いを重ねていた。
 思い出の指に…その細くしなやかな黒い指に…自分の指を絡めた。
 そして手を取った。
 踊りに誘うようにして。

 遠いあの日、キャンプファイアを囲む若者たちにはやされながら、三十代だった牧師はダンスに引っぱり出された。
『牧師様! 覚悟してくださいね! 振り回しちゃいますから』
『おお、アン、危ない、気を付けて』
 回る、回る。ワルツのように。
 アンに手を取られ、本当に振り回されるようにして、牧師はキャンプファイアをぐるぐる巡った。
 牧師はアンの顔に見とれていた。闇に沈んでは光に浮き上がるその褐色の肌は美しかった。
 炎の照り返しの中、アンの髪はまるで赤毛のようにきらめいていた。
 牧師の眩しげな視線にアンははにかみ、白い歯をこぼれさせた。

 牧師は顔の前に手を組んだ。
 あの三人が清掃を終えて帰るときの光景が心に浮かび上がった。
 新郎に手を取られ、ゆっくりと丘の階段を下っていく赤毛の女性の後ろ姿は、それはまるで使徒に付き添われるマリア様のようで、ある種の神々しさに感銘を受けたのを覚えている。
 動悸が激しくなった。
 牧師は胸に下げた十字架に何度か口付けした。
 丘を下りきると、女性は照れた調子で新郎に何か語りかけたが、新郎は明るく笑うだけだった。
 新婦はというと、女性のお腹に横顔を押し当て、甘えている。
 女性は言葉を続けるのを諦めたようだった。
 新郎の二の腕に感謝の仕草で触れ、それから新婦を抱き寄せた。
 新婦の髪を愛おしげに撫でていた彼女は、ふと道ばたに目を向けた。
 風に揺れるハイビスカスを手折ると、新婦の髪に挿した。
 それを見ていた男性も、ハイビスカスを手にした。
 女性に近づき、あの赤い髪にそれを飾り付けた。
 三人は互いに顔を見合わせ、そして身体を寄せ合った。
 しばらくそうしていたあと、手を繋ぎ、ふざけ合いながら歩き出した。
 遠くに行っても、まだ朗らかな笑い声が聞こえた。
 あれほど矛盾を抱えた彼らなのに、何故か、幸せそうに見えた。
 薔薇園で垣間見た女性の涙が、錯覚に思えるほどに。

『あの二人は、本当に大切な友人ですから』

 ああ、そうなのだ。
 彼女が言ったその言葉にも、真実の重みがある。
 彼女にとって、あの二人はかけがえのない家族なのだ。
 その言葉通り、彼女は二人を守るだろう。
 どのような犠牲を払おうとも、どんなに報われなくとも、彼らを守るためなら、彼女は、アンが牧師に対してそうしたように、きっと…。

 牧師は目をつむった。

 どれほどの覚悟にせよ、それは厳しい戦いに違いなかった。
 あの二人にも、赤毛の彼女にも、そのどちらにも助けが必要だった。
 一人の男性を共有することの非について忠告すべきでは、という考えが過ぎったが、牧師は苦笑いしてそれを退けた。止むに止まれぬ理由があったのでは、という疑問が心から離れなかった。
 そのとき、唐突に、新郎の男性が『手遅れだ』と叫んだ意味が分かった。
 彼は、こう言いたかったのだ。
 もっと早く牧師に出会えていたら、誰かに理解して貰えていたなら、三人で暮らすことはなかった、と。
 だから赤毛の女性は傷ついた。お前は対象外だと言われたも同然だったから。
 彼女の表情を目にした男性は動揺した。泣いている新婦を咄嗟に放り出し、赤毛の女性を抱きしめた。自分の言葉の残酷さを後悔しているようだった。赤みがかった髪を撫で、そこに口付けを繰り返すことで、彼女を一生懸命慰めていたのだろう。
 それもまた、大切な家族に対する振る舞いそのものだった。
 彼らが自分たちのことを余り話したがらなかったのもよく分かる。彼らは牧師に相談したくとも出来なかったのだ。三人の関係がもし牧師に知れたなら、結婚を神聖なものと考える牧師がどんな反応を示すか分かっていたから。間違っていると非難されるのを恐れて、彼らは自分たちのことを明かさなかった。明かせなかったのだ。
 彼らは、何もかも承知の上で、ときには傷つくと分かっていてもなお、三人で暮らす道を選んだのだろう。そうする以外、人生の選択肢を持てなかったかも知れない彼らに対して、今さら杓子定規に人界のモラルを説くのは、賢明だろうか?
 もっと他に言うべきことがあるのではないか?
 それに…先人は教えてくれているではないか。旧弊に苦しむ者に手を差し伸べるとき、旧世界にとっては間違っているかも知れない何かを、進んで為さねばならぬこともあるのだ、と。



 小鳥の声が聞こえた。

 はっと我に返る牧師。
 いつの間にか、椅子に座ったまま居眠りしていた。
 窓の外は既に明るい。

 出来ることを、してみよう。
 大胆かつ細心に。
 拒絶を恐れることなく。

 牧師は目頭を揉んだ。
 老眼鏡をかけると、古ぼけた職種別電話帳を取り出した。
 彼らの話し言葉は標準語で、沖縄特有の訛りはなかった。彼らは沖縄の外からやってきたのだ。とすれば、どこかに宿泊していたに違いない。徒歩でやってきたということから判断すると、さほど遠くとは思えなかった。
 嘉手納近隣の宿泊施設を選び出しているとき、ふと、生前のアンが言ったことを思い出した。
 あのミシシッピへのバスの中で、車窓越しに夜空を見上げながら、彼女が興奮して言った言葉だった。

 私、嬉しいんです。
 みんな気付かないけど、少しずつ変わっていってるんですよ?
 二丁目にあるガンショップのライアンさん、前は黒人の私が挨拶しても無視してたけど、今はちょっぴり会釈してくれるんです。
 毎日毎日、通りかかるたびに、お早うございますって挨拶してましたから。
 ねぇ牧師様、これってすごいことだって思いません?
 ほんの少しずつ、ほんの少しずつ、でも確実に変わっていってるんです。
 私たちが続ければ、いつかはきっと世界が変わるって、そう思うんです。
 だから、私、何があっても…

「『諦めない』。…そうでしたね、アン?」
 穏やかな朝日が壁の写真たちを照らしていた。
 牧師は目を細めた。
 古びた印画紙の中で、アンが微笑んでいた。
 過ぎ去った長い歳月が、彼女の密かな願いを叶えていた。
 あの黒い縮れ毛はセピアに色褪せ、彼女が憧れた赤毛へと変わっていた。


【続く】

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グラノフカ設計局 (GRNVKA OKB)

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